石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2013年5月18日は、鹿沼市の石仏手拓に行きました。

2013年05月19日 | Weblog

昨日の5月18日は、鹿沼市の教育関係石碑の最終調査報告書を3軒のお宅へ届けることから開始。最後のお宅では、その石碑に刻まれている内容はどういうことなのですか?と、突然質問されて冷や汗ものでした。幸いにも調査してから清書まで時間があったので読み込んでいたので、立て板に水の如くスラスラと読み下しをしながら解説も出来たので、家人に喜ばれ面目も何とか保てた。今まで、誰も読んでくれた人が誰もいなかったので、どういうことが記されているのか初めて知ったと。
さて、そんなお宅訪問も10時過ぎには終わってしまったので、今日は暫くぶりに千手山公園にある承応年間の四角柱念仏塔の手拓に行くことにした。何しろ、鹿沼市の念仏塔としては初発塔となるので、後々のために拓本を残しておきたかったのである。高さは90センチばかりなので簡単に終わると思ったが、始めてみると碑面が荒れていてそう簡単にはいかない。しかも4面を採らなくてはならないので、2時間余かかってしまった。遅い昼食を公園のベンチに座って取り、のんびりしていたら既に午後の2時を過ぎていて、そのあまりにものノンビリ過ぎに苦笑。このまま今日は、帰宅してしまっても良いのだが、まあ帰路の道沿いにある石仏を覗きながら行くことにしよう。それにしてもこの季節の田圃には、それこそ農家の人が全て出ているような状態で、どこへ行っても農家の人と出会って石仏を初めとした四方山話に花が咲き、肝心の石仏調査は少しも進まない。そんな中で、「あれっ、これは初めて出会った石仏だ!」と、喜んで記録を取り写真を撮って帰宅してからデータを検索したら、2002年の4月に調べてあった。また、あそこの薬師堂は訪れただけで調査してないと早とちりして、一生懸命に記録を取りカメラ三脚まで持ち出して撮影したのだが、それも2002年12月に調査済みだった。調査してなかった薬師堂は、その近くの別の場所だったという、何とも情けない話である。そんな間抜けなことばかりして時間を潰し、自宅へ着いたのは5時になっていた。上記に掲載した写真にしても、薄暗い森の中にあった十九夜様だけに既に調査済みなのを思い出せず、大喜びで調査した1基でした。やはり、一つの地域を調査始めたら最後までやらずに、途中で止めるとこういう無駄な事になる好例と身に滲みた一日であった。
そんな訳で、多分次回も今回のリベンジとして鹿沼市へ入る事になるだろう。そんな話を、家内にしたら「あらっ、鹿沼はもう止めたはずじゃないの?」と冷笑される。

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