今回は、栃木県の自由民権運動の基礎を築いた兵庫・摂津の人、中條若処(清太郎)の終焉の地に立つ石碑を訪ねてきた。この碑の存在を知ったのはずいぶんと前のことなのだが、場所の説明が丘の上に建っているというだけで要領を得ず、今日まで訪ねる機会を失っていた。そこで今日は、一日をかけてこの石碑を探し出して記録しようと、この季節にしては暖かく、また風も穏やかなのでいそいそと深程地区へ向かう。そして昭和55年庚申塔を追いかけていた時に、偶然目にした庚申塔の持ち主である石川家がまたしても眼に入る、あつかましくも訪問する。すると、即座にその場所がわかり、しかも当地へ若処本人を招聘した石川伴蔵の本家であるとのことで、何となく今日は朝から縁起が良いと自然に顔がほころぶ。手拓の許可をお願いしたところ、もちろん快諾を頂戴。そして奥様の案内でその場所へ着てみれば、確かに上記に掲載したようにそれは丘の上にあった。
それから5時間強。まず碑面がどうしようもなく汚れているのでその掃除。何とか手拓できる碑面に仕上がったのはそれから1時間以上も過ぎてからだった。既に11月も半ばとなったにも関わらず、その掃除が終わったときは全身から汗が噴出していた。それからが手拓作業開始。しかし、ここへ着いた頃は無風状態だったが、地面が暖まると共に嫌な風が吹き出していた。加えて、今回は石川家の所望もあって同じものを2枚採らなくてはならない。バタバタと画仙紙を風になびかせながら、何とか一人で水張りを終えたが、墨入れを始めてみるとまだまだ碑面磨きが足りなかったようで墨が上手く乗らない。そして結果的には昼食を取る暇も惜しんで手拓に精を出し、二部の拓本を採り終えたのは午後も2時を過ぎてしまっていた。そうそう、碑石の右側に見える墓石の左側には、辞世が二種刻まれている。これも手拓したのは言うまでもないが、碑面を掃除しなかったのでかろうじて読める程度の仕上がりであるが、これは致し方なし。
終わりに、石川家にご挨拶に伺うとお茶をご馳走になりつつ古文書の話となり、江戸時代のたくさんの古文書があるので、興味ある方にはお見せしたいという話であった。特にその中でも江戸幕府の安永~天明期頃の「殿廻記」(?たぶん・記憶違いはご容赦)は江戸城府内における徳川殿様の日常内容を記したもので、非常に貴重であるとのことであった。
いずれにしても、私としてはこれで粟野町の残っていた石碑の目玉を調査し終えたことになる。特にそれが中條若処の石碑だけに、またそれを撰文したのが懐徳堂の樺翁並河鳳来(並河天民の孫)である(しかもこれを撰文したのは明示八年四月79歳とあるから没する四年前のものである)し、篆額と書は、文人儒者であった可亭羽倉良信であった。ただ、石工名はどこを探しても記されていなかった。
これでまた、暫くは毎夜この拓本と時間を共有できると嬉しくなる。それにしても今日は、昨日以上の小春日和。部屋の中でパソコンと向き合っているのが馬鹿らしくなり、そろそろこれを閉じて外に出かけようと思う。