24日土曜日は、風が強く吹くとの事で翌日曜日の25日に満を期して早朝から栃木県氏家町(現・さくら市)へ向かう。最初の目的地は、先々週に氏家町押上地区の薬師堂敷地内で、そこにある碑文の手拓作業。碑面は、その時にピカピカに磨き上げていたので直ぐに拓本採りに取り掛かれる。朝早いため、天候は曇り(いや、霧がかかっている状態か)で湿気も程よくあって、当に手拓日和。全紙一枚では篆額まで入らないが、作業は順調に進んで瞬く間に出来の良い拓本が出来上がる。まだ10時にもなっていないが、ここで気分良くの大休憩。コーヒーを飲みながらバナナ1本を食べ、今日の何とも気分の良い天候に感謝する。
さて続いては、この薬師堂の本元であった旧信国寺(今は全くの個人宅となっている)へ行き、敷地内にある近世宝篋印塔を調査することにした。奥様に案内されて屋敷林へ入れば、そこには上記に掲載したような立派な宝篋印塔があった。九輪を始め部位が欠けているものの、私にとって最も重要な塔身と軸部がある。上記写真は、綺麗に泥等を掃除した後で撮影したものだが、その軸部には4面に渡って梵字陀羅尼真言が刻まれている。もちろん、氏家町では初めて(自然石に刻まれたものは町内に2基あり)のもの。これは何が何でも拓本を採らなければとなり、了解を頂戴する。何しろ、相当長い年月を一度も掃除されることなくあったのだろう、特にこまかな泥状のものが陰刻された所に厚く入って梵字がかろうじてわかる程度だったので、その掃除に時間がかかる。特に2面は一部が欠損していたり剥離状態が酷く、手拓したところで判読もままならないだろうと思いつつも綺麗に掃除する。それから手拓作業に入ったので、4面を採り終えたときは11時半になっていた。いずれにしても、厚く篤く感謝し御礼を申し上げて次の場所へ移動する。
昼食は、隣りの長久保地区にある天神社の駐車場で取る。ここへは昔に何度か来ているが、今回は境内にある石碑1基(篆額の揮毫者が、宇都宮藩最後の藩主であった戸田忠友というだけで(笑))を調査したが、折角来たのだからと、狛犬と出羽三山の碑を再調査してから、次の氏家町馬場へ向かう。その馬場地区薬師堂にある宝篋印塔調査のためである。順調に進んで、次は箱森新田地区の薬師堂境内にある宝篋印塔の調査へ向かう。しかし、ここの宝篋印塔軸部にある銘文は、何とも読み難い。一文字づつ判読しているよりも、拓本を採った方が早いと独りガッテンし、車の中に放置されている画仙紙の端紙を手にしてパッパッと貼り付け、またとにかく文字が読めればよいだけなので適当に墨入れし、一丁上がりとなる。ただ、軸部に紀年銘がないのでどこにあるかと探して、基壇にあるのを確認するまで少し時間がかかったが‥。ここで、時計は早くも3時を過ぎている。途中で、少しのんびりしすぎたようだ。加えて、今年初めての暑さで、何となく体がだるくなってきた。町中へ戻って、明治の戦争碑を手拓する予定だったが、もう今日は拓本は「いいや」となり、そのまま4号線を渋滞に巻き込まれながらのんびり運転して帰宅する。