実は、この碑の存在を知ったのは、今から20年ほど前のことで、その頃は写真の背景に少しだけ写っている近世宝篋印塔調査といわゆる石仏調査の折にここを訪ねた時でした。それ以来、これはいつかは拓本を取りたいものだと思いつつ今日まで延び延びになっていた。何しろ鵬斎の撰文と揮毫とあらば、本気になって手拓しなければならずついつい近くを通っても、またここへ来ても、手拓する機会を逃していました。そこで今回は、今年最初の石造物調査ということもあって、また家内の「今日は風も穏やかそうだから、自宅からはそれほど遠く感じない南河内町へでもいったら」という進めもあって、私もその気になってやってきた。
現地には、9時少し過ぎに到着。確かに風もなく穏やかに晴れている。そこでまずは例の嫌らしい石苔を金属ブラシを使って手拓範囲の文字を綺麗にする。これだけで、ケッコウ汗をかいてしまった。真冬だと言うのに!
ついで、陽の当たっている東側碑陰の石面から手拓することにした。掃除したてだけに、また風もなくルンルン気分で碑陰の手拓は完了。続いて左側面の手拓。これも陽が当たっているので、同様にルンルン気分で終了。ここまでは良かったのだが、北面の右側に画仙紙を水張りしだした頃から、西風がメッポウに強く吹き出してくる。一度目は、水張りを終えて墨入れしようと思った瞬間に、風に煽られて全てが剥がれてしまう。嗚呼、なんと言うことだ。ということで、今度は念には念を入れて、最初から左右上下をマスキングテープで風の入り込む隙間を防いでから作業する。そして順調に途中まで墨入れをしていたら、油断した瞬間にほんの小さな隙間から風が入り込んでしまい、またもややり直し。そこで再々度、今度は幅の広いマスキングテープを取り出して頑丈に目張りして作業。それが功を奏し、何とか手拓を終えたが、大きなヨレを数箇所に入れてしまう。本来なら、もう一度手拓をやり直したいが、風は益々強くなっているので、まあ酷い仕上げの拓本だが、今回はこれで我慢しよう!。最後は、碑表の「黄梅寺第四世光雲和尚壽蔵碑」銘の手拓。これは大きな文字で1行だけだったので、それほど手を焼かずに手拓できた。そうこうして、手拓道具を片付けたり周囲をきれいにして写真を取り終えたら、午後の1時になっていた。半切画仙紙で6枚の手拓。今日は、予定ではもう1基調査したかったが、何しろ風が強いので潔くここで終了とする。広場でのんびり食事と休憩。帰り際にもう一度見てみると、西向きになっている碑表が太陽を浴びている。日陰の碑表写真より、何倍も良く写真に撮れるので、また車を降りて撮影してから帰路に着く。そうそう、忘れたが紀年銘は、「文化十四年丁丑秋七月、とあり、本体のサイズは高138.0×幅(碑表面)52.5cmです。
そんな、今年初めての石造物巡りだったが、念願の碑が拓本を取れたので満足としよう。私にとって、亀田鵬斎の手拓は栃木県で初めてなのだから。