石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

確認しながら、拓本を採らなかった喜連川町の最後の石碑を手拓しました。

2016年12月20日 | Weblog

2014年に、栃木県喜連川町(現・さくら市)の石碑はこの1基を除いては全て調査済みだったのだが、今回の石碑だけは出来るなら知人と一緒に手拓したかったが、その彼も私からの声かけが遅かったとみえて単独で調査済みだったのを後で知る。これはしまったと思いつつも自分の至らなさを反省しつつ、今回で何度目かのお寺さんへ行き手拓してきました。これは、朝川鼎が撰文して巻菱湖が篆額と銘文を揮毫し、窪世祥が彫ったものです。高さは82センチ×幅57センチという小ぶりな石碑です。碑面には升目があるので書丹である。然しながら、銘文中に3箇所の改刻した所があり、撰文者(の可能性が大)或いは揮毫者の何かの理由で彫刻が終了した後で銘文の一部を変更したのが見てわかる。そして何よりも私の不満は、この碑文人物の活躍が当地(喜連川公から月俸を賜ったとあるので地元で活躍したとは推測されるが)でのことなのか江戸での活躍なのか、またそれ以外の活躍経歴が全く判らないことに加え、なぜこの碑の建立にこれほどまでの当代一流の人物が関わっているのかも何も判らず推測も出来ないこと。採択しながらも、嗚呼もう少し内容を詳しく記してくれていたならと、この人物について深く調査もせずに残念に思うのは私一人なのだろうか。
※10行目にある改刻箇所「其塟也□」の4文字の所は、意味的に考えて「其先塋次」だったのではなかろうかと、無学を承知で消えた文字を想像しては苦笑している私である。その理由として、4文字の所の最後の一文字が文字がなくなっているからである。蕨字でないことだけは確かなのだから‥。
そうそう、それとこの碑文登場人物の「津村雨林山人」については、栃木県歴史人物辞典に出ていることが、山口氏のご教示にて判明しました。ありがたいことです。年内に図書館へ行って見てきます。

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