今回、またしても足利市まで来てしまった。今回は2007年に調査したまま、未だ拓本を採っていない足利市災害碑(明治29年被災)の手拓作業である。前回の古い調査原簿を取り出してサイズを確認し、現地へ暫くぶりに来てみれば、以前の境内はすっかり様変わりしていて、この石碑も境内に取り込まれていた。幸いなのは、以前は南向きだったものが、今は北向きになっていること。今日は、南風が強いので、これは幸いとまずは碑面掃除から始める。ところが、高さが234cmとあらばやはり大きく、写真のように綺麗にするまでは1時間ばかりを費やしてしまった。そして画仙紙を取り出すと、その上下の長さに呆れてしまう。頭の中では、銘文だけなら長さ135cmの用紙で充分に採れるはずだったが、その期待を裏切るのに充分過ぎるほどの長さがあった。仕方が無いので、上部の篆額から採りだして、銘文下部は継ぎ足しにする。そんな訳で、掃除から手拓撤収までに要した時間は3時間45分ほど掛かってしまった。そしてその出来栄えは、上部篆額部分に途中から隙間風が入り込んで酷い仕上がり。それでも銘文部分は何とかごまかせる状態なので、まあ私が採る拓本はこんなものだろうと諦める。
さて、この石碑の手拓が欲しかったのは、銘文の最終校了として以上に、この銘文を揮毫したのが宇都宮市の戸田香園だからである。彼の書体の美しさに惚れ込んでいる私としては、それが足利地区にあるだけにどうしても欲しかったのである。
途中から、佐野市の高橋氏と合流。遅くなった昼食時間を楽しく過ごし、次回は大型連休中にまたしても足利市の拓本採りを行うことにして、再開を約束し帰路に着きました。