一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『燃ゆる女の肖像』……女性こそが美しく、貴く、尊いものだと思わされた……

2021年01月28日 | 映画


〈なぜ、この世には、男と女がいるのか……〉
と考えることがある。
いや、もう一歩踏み込んで、
〈男というものは、この世に「必要ない」のではないか……〉
と思ったりする。
人間に限らず、生物一般で考えても、
オスはメスに比べて大した働きはしていない。
特に人間のオスは、生物学的には“種付け”くらいしかすることがないのに、
威張っているし、プライドも高い。
〈オスって、いったい何なんだ!〉
と、自分がオスであることを忘れて憤ったりする。

昨年、偶然手にした週刊文春(2020年6月25日号)の、
「阿川佐和子のこの人に会いたい」の対談相手は、生物学者の福岡伸一であった。


新型コロナウィルスについての対談であったのだが、
「なぜ人間に男と女がいるのかコロナは教えてくれた。」
という小見出しに目を引かれ、読み出した。


福岡 まず最初に大きなことからお話すると、今回のコロナウィルス問題が教えてくれた第一の教訓は、なぜ人間に男と女がいるのか、ということなんです。
阿川 そっち⁉ それ、コロナウィルスと関係あるんですか?(笑)
福岡 大いにあります。これまで人類はペストやスペインかぜなど、幾度となく疫病にさらされても、生き延びてきました。それは弱肉強食を原動力とするのではなく、多様性を内包する種のほうが生き延びられることを知らず知らずのうちに学んできたからなんです。
阿川 ハカセは、その種が生き残るのは強いからではなく、適応力が高かったからだ、といつもおっしゃってますよね。
福岡 それと同じで、どんな病気が来ても、運悪く重症化する人がいる一方で、軽症で済む人もいるから、人間は種を絶やさなかった。それは男女がいて、絶えず遺伝子情報や文化情報、そのほか様々なものを混ぜ合わせたり分けあったりしてきたことによって、多様性が生まれたからです。進化の長い過程を見てみると、生物が生まれた約38億年前から最初の25億年は女性しかいないんですね。
阿川 25億年もの間、アマゾネス状態だったんですか⁉
福岡 もちろん、人類が生まれる遙か前です。我々の祖先である生物はメスがメスを産む、単為生殖でやってきました。
阿川 ミジンコと同じね。
福岡 そう。でも、全てメスだと、みんなが同じ性質を持っているので、何か一発、病気が来たりすると全滅してしまう可能性があるわけです。だから、ちょっと変わりものをつくっておいたほうがいい、と女子は考えてオスを生み出しました。
阿川 考えるなあ(笑)。私はミジンコを飼っていたことがあるんですが、ミジンコって通常はメスがメスを産むんだけれど、水質が悪化したり水量が減ったりすると突然、オスを産む。生まれたオスとメスの間にできた卵は、通常と違ってカプセルに入っているから生き延びられる。それで環境が良くなったときに「いまこそ孵化するときだ」となるから、その種は絶えることなく続くんですよね。ミジンコはたまに出てくるオスのおかげで種が守られるって話と、ハカセのおっしゃってることは同じですか?
福岡 同じです。それがオスの出発点ですね。
阿川 いざというときにしかオスは役立たないけどね(笑)。
福岡 「いざ」はいつ来るか分らないし、「いざ」が来てからでは遅い場合もあるから、常日頃から色んなバリエーションを生み出そうとしたんでしょう。結果、オスの地位が向上してきました。
阿川 いざというときにだけ必要だったものが、いつの間にか常備薬になったのか(笑)。
福岡 そうそう(笑)。
阿川 つまり生物は逆境にさらされても潜在意識として種を引き継ぐために生き延びる方法を持っているはずということ?
福岡 おっしゃる通りです。生物学者としては、そんなに慌てふためかなくても大丈夫だよ、と言いたい。

生物学的には、
オスは「いざ」というときにだけ必要なもので、
その「いざ」がいつ来るか分らないので、常備薬として地球に常駐するようになった……
ということなのである。
なので、通常は出しゃばらず、控えめにしていて、
「いざ」というときがが来たときにだけ活躍すればいいのであるが、
人間のオスときたら、「いざ」というときでもない普段でも、出しゃばり、威張っている。
にもかかわらず、「いざ」が来たときには、ただ逃げまどうか、文句を言うしか能がない。
(自分がオスであることを自覚しつつ)本当に情けないと思う。

そんなオスとして情けなく申し訳ないときに、映画『燃ゆる女の肖像』を見た。
ほぼ女性しか出て来ない映画で、本作を見て、ますます、
〈男というものは、この世に「必要ない」のではないか……〉
と思ったことであった。



画家のマリアンヌ(ノエミ・メルラン)は、


ブルターニュの貴婦人から、
娘エロイーズ(アデル・エネル)の、


見合いのための肖像画を依頼され、
孤島に建つ屋敷を訪れる。
エロイーズは結婚を嫌がっているため、
マリアンヌは正体を隠して彼女に近づき、


密かに肖像画を完成させるが、
真実を知ったエロイーズから絵の出来栄えを批判されてしまう。


描き直すと決めたマリアンヌに、エロイーズは意外にもモデルになると申し出る。


キャンパスをはさんで見つめ合い、


美しい島をともに散策し、
音楽や文学について語り合ううちに、
二人は激しい恋に落ちていくのだった……




動く絵画を鑑賞しているような気分にさせられる、実に美しい“愛の物語”の傑作であった。
とにかく映像が美しい。


もうそれだけで「見る価値あり」なのであるが、
それに加え、物語も美しく、感動させられる。
女性間の愛であるが、
男女間の愛よりも純度が高く、
夾雑物のない透明な“愛”そのものを見せられたような気分にさせられた。
地球上で女性こそが美しく、貴く、尊いものだと思わされた。


この映画には、バックに、鑑賞者の気分を盛り上げるような音楽はほとんど流れない。
なので、波の音などの自然の音はもちろん、
床のきしむ音、布の擦れる音、人の息づかいまでもが聴き取れる。
映画の作りが実に繊細で、監督の目が隅々にまで行き届いているのが判る。


監督、脚本は、『水の中のつぼみ』(2007年)のセリーヌ・シアマ。
『水の中のつぼみ』は、15歳の少女マリーが、シンクロナイズド・スイミングの大会で高慢な美少女フロリアーヌに恋をするという、セリーヌ・シアマ監督自身の体験を基に10代の少女たちが抱える思春期の痛みをみずみずしく綴った青春ドラマであったのだが、


この映画で美少女フロリアーヌを演じていたのがアデル・エネルで、


『燃ゆる女の肖像』ではエロイーズを演じている。


セリーヌ・シアマ監督とアデル・エネルは、
長年パートナーの関係にあったからだろう、(現在は関係を解消している)
セリーヌ・シアマ監督はアデル・エネルと一緒に作品を作りたいと考え、脚本を執筆したという。

エロイーズの役柄は、アデルを念頭に書きあげたものです。ここ数年でアデルが実証してきた女優としての素質をこの役に反映させていますが、彼女に新境地を開拓してもらいたいという期待も込めています。まだ見たことがない、わたしも知らない彼女の一面を引き出せたらと思ったのです。撮影現場では、細部までこだわって仕事をしましたが、アデルの意見は特に重要でした。私たちのこの作業がこの映画の中核であり、“ミューズ”という概念に終止符を打ったのです。私たちの現場にはミューズはいません。私たちはお互いに刺激を与える協力者という関係でした。

セリーヌ・シアマ監督はこうコメントしていたが、
長年、二人で築き上げてきた信頼関係によって作られた物語であることが判るし、
二人の関係がどのようなものであったのかも解るような気がした。


望まぬ結婚を控える貴族の娘と、
彼女の肖像を描く女性画家。
見つめ、見つめられる立場が、時に逆転し、反転し、
お互いの感情が交差し、混じり合い、激しい恋におちていく。
映画タイトルの「肖」の文字が反転しているのは、
そんな二人の関係性を表現したものであったのかもしれない。


先程、
「この映画には、バックに、鑑賞者の気分を盛り上げるような音楽はほとんど流れない」
と書いたが、まったく使われていないのではなく、
二つの曲が、印象深いシーンで使われている。
一つは、
夜の焚火のシーンで、集まった女性たちが合唱する歌曲「LaJeune Fille en Feu」。
民俗音楽風だが、この映画のために作られたオリジナルの曲で、
一人の女が歌い出し、
それが伝搬するように女性たちが手拍子をし、歌い始め、合唱となっていく。
予告編に使われている曲で、一度聴いたら忘れられなくなる曲だ。
この曲が流れる中、マリアンヌとエロイーズが焚き火を間にして見つめ合い、
エロイーズのドレスに火がつき燃え上がる。


そして、二人の心にも火が燃え移る。
この“夜の焚火のシーン”から、いきなり場面が、
浜辺の岩陰で二人が互いに求め合いキスするシーンへと転換する。
音楽と、移り変わるシーンの見事さは、言葉にできないほど素晴らしい。


もう一つの曲は、
ヴィヴァルディ協奏曲第2番ト短調 RV 315「夏」。
マリアンヌが自分の「好きな曲」だと、ほんの一節をエロイーズに弾いてみせ、
二人の心が初めて接近する。
愛の“芽生え”のシーンであるのだが、
この思い出の曲が、ラストシーンでも使われるのである。
それも、オーケストラによって、壮大な“喪失”の曲として奏でられるのである。
その鮮やかな対比が見事だし、このラストシーンには鳥肌が立つほど感動した。
※ヴィヴァルディ協奏曲第2番ト短調 RV 315「夏」をマリ・サムエルセンの演奏で。↓


セリーヌ・シアマ監督は、本作について、

美術や文学や音楽などのアートこそが、私たちの感情を完全に解放してくれることを描きました。

と語っていたが、
映画が、美術や文学や音楽などで創られた“総合芸術”であるとするならば、
本作『燃ゆる女の肖像』こそが完璧な映画であると言えよう。


女性というだけで、
画家や小説家などの女性芸術家が差別を受け、匿名を強いられた時代、
そして同性愛への偏見もある時代を背景に、
誰かを深く愛するということ、
愛し愛される喜び、
そして、つらい別れを表現しており、
そういった感情は普遍的なものであり、
ジェンダーや時代に関係なく素晴らしいものであることを教えてくれる傑作『燃ゆる女の肖像』。
何度でも見たいと思わせる見事な作品であった。

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