新しいカテゴリー「私の好きな〇〇」の第6回は、
タイトルに「夏」のつく(私の好きな)映画、小説、詩、絵画、音楽。
まだまだ暑い日が続いているが、
暦の上では二十四節気の「処暑」(8月22日~9月7日)で、
「暑さが収まるころ、落ち着くころ」となり、秋を迎えようとしている。
そこで、夏を惜しむかのように(それほど惜しんではいないけれど……)、
タイトルに「夏」のつく(私の好きな)映画、小説、詩、絵画、音楽を、
(思いつくままに)挙げてみたい。
高齢者になり、齢を取れば取るほど(身体的に)厳しい夏になっていくが、
若い頃、夏といえば、
海、花火大会、夏祭り、浴衣、高校野球、スイカ、かき氷、冷やし中華、そうめん、ビアガーデン、バーベキュー、セミ、プール、扇風機、風鈴、ラムネ、アイスクリーム、ヒマワリ、アサガオ、夕焼け、キャンプ、山登り、高原、入道雲……
などのイメージがあり、甘き良き思い出に繋がっている。
映画では、
やはり『おもいでの夏』(1971年)だ。
昭和46年、高校生のときに見て、(私にとって)ずっと「青春映画」の№1である。
そして、ジェニファー・オニールは永遠の憧れの女性である。
小説では、
開高健の『夏の闇』。
『夏への扉』(ロバート・A. ハインライン)、『夏の庭 the friends』(湯本香樹実)、
『ぼくと、ぼくらの夏』(樋口有介)、『姑獲鳥の夏』(京極夏彦)、『解夏』(さだまさし)、
『悪い夏』(倉橋由美子)、『夏の葬列』(山川方夫)、『夏の流れ』(丸山健二)など、
タイトルに「夏」のつく小説は数多いが、
これまで何度も読んだ開高健の『夏の闇』を選出。
ヴェトナム戦争で信ずべき自己を見失った主人公は、
ただひたすら眠り、貪欲に食い、繰返し性に溺れる嫌悪の日々をおくる……
が、ある朝、女と別れ、ヴェトナムの戦場に回帰する。
“徒労、倦怠、焦躁と殺戮”という暗く抜け道のない現代にあって、
精神的混迷に灯を探し求め、
絶望の淵にあえぐ現代人の《魂の地獄と救済》を描き、
著者自らが第二の処女作とする純文学長編である。
かつて、開高健は、このように言ったことがある。
他人さまの作品を判断するボクの基準は、実に簡単です。とくに新人賞、芥川賞の選考のときもそうだけど、ボクは作品中に一言半句、鮮烈な文句があればもう充分だというのが私の説やね。一言半句でいいんだ。ところが、これが実にない。数万語費して一言半句でいいんだ。その人の将来性、賞をもらって修練すれば、獲得されるだろう魅力、あるいは修練しなくても、それ以前のもう手のつけようのない才能の鉱脈、こういうものはその一言半句に現われているものです。
『夏の闇』は、まさに鮮烈な“一言半句”が濃密にひしめき合っている奇跡のような傑作。
読んでいて息苦しくなるほどに、言葉が読む者に迫ってくる。
開高健が、晩年、小説が書けなくなったのは、
この鮮烈な“一言半句”に拘り過ぎた為だと、私は思っている。
詩では、
夭折の詩人・立原道造の「夏花の歌」(詩集『萱草に寄す』より)
【立原道造】
1914年(大正3年)7月30日、東京都中央区に生まれ、
1939年(昭和14年)3月29日、24歳8ヶ月で急逝した。
東京府立三中で芥川以来の秀才と称された。
一高在学中に三中の先輩でもある堀辰雄を知り、また室生犀星に師事。
東大在学中の夏に、信濃追分に滞在、土地の旧家の孫娘に恋をする。
詩誌「四季」に、追分での「村ぐらし」を載せる。
立原は翌年も追分を訪れ、恋心は続いた。だがその翌年、娘は他家へ嫁いでしまった。
この短い青春が終わると同時に体調を崩し、24歳で死去。
「夏花の歌」
その一
空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る
それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
黙つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた
……小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる
あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり
その二
あの日たち 羊飼ひと娘のやうに
たのしくばつかり過ぎつつあつた
何のかはつた出来事もなしに
何のあたらしい悔ゐもなしに
あの日たち とけない謎のやうな
ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた
薊の花やゆふすげにいりまじり
稚い いい夢がゐた――いつのことか!
どうぞ もう一度 帰つておくれ
青い雲のながれてゐた日
あの昼の星のちらついてゐた日……
あの日たち あの日たち 帰つておくれ
僕は 大きくなつた 溢れるまでに
僕は かなしみ顫へてゐる
絵画では、
カミーユ・ピサロの「木々の下の小道、夏」(1877)
【カミーユ・ピサロ】Camille Pissarro(1830年~1903年)
カリブ海のセント・トーマス島に生まれる。25歳の時パリに赴き、本格的な絵画の勉強を始める。クールベ、コローらの作品に感銘し、写実主義や外光主義の時代を経て、モネと知り合い、印象派の画家となった。普仏戦争中、ロンドンでのターナーやコンスタブルの作品との出会いは、彼に風景画家としての道を決意させた。ポントワーズやエラニーにおける穏やかな田舎の風景画は、ピサロ絵画の代名詞ともいえる。印象派の画家たちの中では最も年長で、セザンヌやゴーギャンに印象主義を教える役割を果たした。
ピサロは、1866年から82年にかけて、
(1870年の普仏戦争の前後にルーヴシエンヌとロンドンに滞在した時期を除き)
ポントワーズに住んだ。
この作品は、真夏の森の中の小道を描いている。
画面奧へと続く道、路上の人々というモティーフは、
この頃のピサロの作品に繰り返し現れる。
夏の日差しを浴びて輝く木々の緑が豊かな色調で描かれ、
まぶしい光の効果が画面全体に満ちている。
ピサロはかつてこう言ったことがある。
「幸せな人とは、質素な場所でも、他人には見えない美しさを見ることのできる人である。 どんなものでも美しく、大切なのはそれをいかに受け取るかということだけだ」
ピサロ自身の絵のテーマと言ってもいい名言だ。
絶景といわれる有名な場所ではなく、
どこにでもあるような日常の風景の中に美しさを見出し、幸せを感じる。
その幸福感を、ピサロはキャンバスに素朴なタッチで表現する。
絵を見る者は、ピサロのその想いを共有し、幸福感にひたる。
すべてのものは美しい……
要は、それを美しいと感じ取る心があるかどうかなのだ。
音楽では、
森山良子の「さよならの夏」。
若い人にとっては、
手嶌葵が歌った映画『コクリコ坂から』の主題歌の方が有名だと思うが、
オリジナルは、
1976年(4月1日~6月24日)に放送された岩下志麻主演のTVドラマ、
『さよならの夏』(毎週木曜日21:00~21:54、全13回)の主題歌で、
森山良子が歌っていた。
手嶌葵の「さよならの夏」も大好きだが、
森山良子の透き通った伸びやかな声で歌う「さよならの夏」の方に、
より、夏の哀切さを感じてしまう。