旅と同時並行で地元紙(佐賀新聞)に連載していた紀行文、
「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」を元にして、
カテゴリー「徒歩日本縦断(1995年)の思い出」を再開させた。
今回は、いよいよ最終回となる第12回目。
「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」⑫日本最南端・波照間島にて
(※新聞掲載時よりも、漢数字を算用数字にしたり、改行を多くして読みやすくしています)
11月6日午後8時に那覇港を出たフェリーは、
到着時間より3時間遅れで、翌7日の午後4時半に石垣島に着いた。
波照間島へ行く船の最終便は出たあとだったので、
石垣島に1泊し、翌日、小型船で島に渡った。
波照間島は有人島では日本最南端の島である。
周囲15キロ、人口約600人。(2021年3月末の統計では482人に減少しているようだ)
ハテルマの名は、果てのウルマ(珊瑚礁)が転訛したもので、
文字どおり「さいはてのサンゴ礁の島」である。
日本最南端の碑は、波照間島港の反対側にあるので、
船を降りて、しばらく歩かなくてはならない。
赤瓦屋根の昔ながらの家並み、フクギ並木、サンゴの石垣、白い灯台などを見ながら、
ゆっくりと1時間ほど歩くと、サトウキビ畑の向こうに海が見えてくる。
最南端の地から見る海は外海で、遥か彼方はフィリピン群島だ。
北海道の宗谷岬を出発して3ヵ月、随分と遠くまで来たものだ。
日本が小さい国なんて嘘だ。
北海道で雪が降っているというのに、この島にはまだ夏の光が残っている。
ハイビスカスの花が咲き、美しい蝶が乱れ飛んでいる。
11月8日午後2時、ぼくは日本最南端の碑の前に立った。
碑は、本土復帰を記念して建てられたもので、
そばには二匹の蛇がからまる様を形どった小道があった。
この道には全国から集められた小石が埋め込まれていて、
二度と離れることがないようにとの願いがこめられているという。
旅の最後に、素晴らしい道がぼくを待ってくれていた。
港の方に引き返し、日本最南端のビーチ、ニシ浜ビーチに行った。
真っ白な砂浜。
信じられない海の色。
ぼくは砂浜に寝転び、目を閉じた。
〈終わった……〉
歩きの旅は、何を持つかではなく、何を持たないかの旅であった。
持てば持つほど体に負担がかかり、歩けなくなる。
どこか人生に似ているような気がした。
この旅で体重は75キロから65キロに減った。
こころの贅肉も10キログラムくらいはそぎ落せたような気がする。
《おわり》
【私にとっての徒歩日本縦断】
以前、このブログに、
『40歳からは自由に生きる』(池田清彦)という本のレビューを書いたとき、
私は次のように記している。
私は、40歳で会社を辞め、徒歩日本縦断の旅に出た。
アラン・ブース著『ニッポン縦断日記』(東京書籍1988.10刊)を読み、
自分も徒歩日本縦断をしたくなったからだ。
勤めていた会社が、一応、一部上場企業だったこともあって、
「徒歩日本縦断から帰っても、40歳での再就職先はないぞ!」
と、周囲からは思いとどまるように説得された。
妻子ある身だし、
家のローンもあと20年残っていた。
本当に狂気の沙汰である。(笑)
だが、
〈今やっておかなければ絶対に後悔する!〉
と思い、配偶者に相談すると、
「やってみれば」
と、賛成してくれた。
こうして、私は、徒歩日本縦断の旅へ出たのだが、
今考えると、このとき、私は、
社会の規範から外れ、自分の規範で生きることを決めたのだと思う。
(中略)
本書『40歳からは自由に生きる 生物学的に人生を考察する』を読んで、
〈40歳で社会の規範から外れ、自分の規範で生きてきて本当に良かった〉
と、しみじみ思ったことであった。(全文はコチラから)
70歳になった今も、この思いは強くある。
あのとき徒歩日本縦断をして本当に良かった……と。
10代、20代の旅は、誰もがするものだし、珍しくもない。
定年後の旅も、誰もがするものだし、感受性も摩滅している。
私の旅にもし意味があるとすれば、
中年のおっさんが会社を辞めて旅に出たことくらいであろう。(笑)
だが、私個人にとっては意味合いが違う。
長い人生の中の、ほんの数カ月の歩き旅であったが、
この数カ月の旅が、私の人生に、潤いと輝きをもたらしてくれているのだ。
この旅が私の人生にあるのと、ないのとでは、大違い。
人生の意味においても、幸福度においても、雲泥の差が生じていたように思う。
たった数カ月の旅が、古希を過ぎた私の人生を意味あるものにしてくれているのだ。
【説明のつかない感情】
青森県のある町を歩いていた私は、説明のしようのない感情に襲われたことがある。
それは、同じような形をした平屋の家が並ぶ住宅地であった。
ひとつひとつの家は小さく、どの家もそれほど裕福そうには見えなかった。
けれど、手入れの行き届いた垣根や、花咲く庭などから、
決して心の貧しい人々の住まいではないことだけは見て取れた。
その住宅地を歩いていたときのこと、
ある家から突然TVの音が聞こえてきた。
ぼんやりとして歩いていたので、ちょっと驚いた。
NHKのど自慢のテーマソングであった。
「ああ、そうか、今日は日曜日なんだ」
と、ひとりごちた私は、
徒歩の旅を始めてから一ヶ月以上が経過し、日常生活から乖離した生活を送るうち、
曜日感覚もなくなっていたのかと暗然とし、その場に立ち尽くしたのだった。
すると、それまで気づかなかった、人の笑い声や、昼餉の好い匂いが感じ取れた。
日曜日のお昼時、食事をしながら「のど自慢」を見ているある家族が想像された。
するとふいに涙が溢れてきた。
私はしゃくり上げるように泣いていたのだった。
〈私はなぜ泣いているのだろう〉
自分では説明のつかない感情だった。
それは、単なるホームシックだったのだろうか?
旅でささくれ立った心が、何かしら温かい空気に触れたことで、
こらえていた感情が溶け出してしまったのか?
この説明のつかない感情をうまく表現してくれた人がいた。
星野道夫だ。
昔、電車から夕暮れの町をぼんやり眺めているとき、開けはなたれた家の窓から、夕食の時間なのか、ふっと家族の団欒が目に入ることがあった。そんなとき、窓の明かりが過ぎ去ってゆくまで見つめたものだった。そして胸が締めつけられるような思いがこみ上げてくるのである。あれはいったい何だったのだろう。見知らぬ人々が、ぼくの知らない人生を送っている不思議さだったのかもしれない。同じ時代を生きながら、その人々と出会えない悲しさだったのかもしれない。(『旅をする木』より)
徒歩日本縦断の旅で多くの人々と出会ったけれど、
それらはほんの一瞬、すれ違っただけなのだ。
見知らぬ人々が、私の知らない人生を送っている不思議さ、
同じ時代を生きながら、その人々と出会えない悲しさ、
それを敏感に感じ取ったからこその涙だったのかもしれない。
ともかく、そのときの言いしれぬ不思議な感情は、私の心の中に長く残ったのだった。
徒歩日本縦断から30年が経ち、
地元紙(佐賀新聞)に連載していた紀行文を手掛かりに、記憶を呼び戻し、
写真の助けを借りながら、
宗谷岬を出発し、なんとか波照間島までたどり着くことができた。
「徒歩日本縦断(1995年)の思い出」というカテゴリーを作ったものの、
なかなか更新できずに放置状態になっていたので、
これでなんとかこのカテゴリーを満たすことができて、ホッとしている。
本当は、ここに掲載したものより何倍もの写真を撮っているし、何倍ものエピソードがある。
だが、それをここにすべて披露することは出来ない。
それらの写真、思い出やエピソードは、
(私だけの大事な宝物として)私の胸の内にそっと秘めておこうと思う。
御愛読、ありがとうございました。
※「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」➀~⑫
(タイトルをクリックするとレポが読めます)
➀宗谷岬から留萌へ
➁留萌から長万部へ
③長万部から函館、青森へ
④秋田から象潟、鳥海山へ
⑤「良寛」ゆかりの地を巡る
⑥天の橋立、城崎温泉へ
⑦余部鉄橋、松江、出雲へ
⑧萩と、仙崎と、金子みすゞ
⑨八代大花火、球磨川星花火
⑩佐多岬に到着、そして
⑪沖縄本島縦断
⑫日本最南端・波照間島にて