MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ザ・タイガースの再結成

2014-01-26 13:03:02 | 邦楽

沢田研二、ザ・タイガースのTシャツ「1万枚売れ残ってる」(サンケイスポーツ) - goo ニュース

 24日にNHKBSプレミアムで放送された「ザ・タイガース 2013 LIVE in 東京ドーム」を

観た。44年振りにオリジナルメンバーが揃ってツアーが出来るグループサウンズのバンド

はザ・スパイダースにしてもブルー・コメッツにしてもザ・テンプターズにしてもモップスに

しても不可能で、今回の再結成は奇跡と言っても過言ではない。興味深いのはコンサートの

構成が1部と2部に分かれており、1部がローリングストーンズなどのカヴァーが中心で、

2部がオリジナル曲を中心としていたことで、要するに当時はまだアメリカやイギリスの

音楽と日本の音楽シーンにそれほど差が無かったということである。その後、何故これほど

差がついてしまったのか勘案するならば、ビートルズの出現によりシンプルを信条と

していたはずのロックの解釈が多様になったということも大きかったがやはり英語と

日本語という言語の違いが決定的なものとなったような気がする。日本人に売るためには

どうしても日本語で歌う必要があり、世界をマーケットの対象にしなくても十分に稼げる

裕福な土壌というものが皮肉にもバンドのクオリティーを下げてしまったのであろう。


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『スペシャリスト~自覚なき殺戮者~』

2014-01-26 00:56:55 | goo映画レビュー

原題:『Un spécialiste, portrait d'un criminel moderne 』
監督:エイアル・シヴァン/ロニー・ブローマン
出演:アドルフ・アイヒマン
1999年/フランス・ドイツ・ベルギー・オーストリア・イスラエル

『ハンナ・アーレント』の暗黙のメッセージについて

 『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 2012年)を観た後に、改めて本作を観なおしてみると違和感が沸き起こる。例えば、アーレントがアイヒマンを形容した「陳腐な悪人(the banality of evil)」という言葉である。実際のアイヒマンは「陳腐(banality)」とは程遠い、かなり有能な「事務員」で、これだけ有能な事務員がいたからこそ大量殺戮が可能だったのだと思わせ、寧ろアルゼンチンのブエノスアイレスからわざわざエルサレムに連行してきたイスラエルの諜報機関は想像を絶するアイヒマンの聡明さを目の当たりにして後悔したのではないだろうか。哲学者から見れば「陳腐」な人物でも、自分自身が陳腐な者としてアイヒマンは優秀と見なさざるを得ない。
 そこでもう一つの違和感が生じる。両親や兄弟姉妹を殺されたと証言する男性は『ハンナ・アーレント』でもそのまま忠実に再現されているが、本作の最も肝心な証言で、実はアーレントも『イェルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告』で論じていた、「同胞の移送に協力したユダヤ人自治組織もあれば、『同胞を売る』ことで生きながらえた人もいる」という箇所が『ハンナ・アーレント』で話題にさえなっていないことである。
 つまりアーレントはナチスに協力した裏切り者のユダヤ人がいるということをバラしたからこそ非難を浴びたはずで、そうなると『ハンナ・アーレント』は観方が変わってくる。作品冒頭で一人でソファーに横たわるアーレントのシーンから始まり、ラストも親友に絶交を告げられた後に、一人でタイプライターの前で執筆を続けるアーレントの姿を見るならば、余計なことを言うと孤独に陥るという暗黙のメッセージ(脅迫?)が込められているように感じるのである。
 ちなみに本作は「シヴァンとブローマンは、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』に刺激をうけ、なかば消息不明であった裁判のオリジナル・テープを発掘し、アーレントの提起した問題の真実性を、あらたなかたちで提示したのである。1999年のベルリン国際映画祭の招待作品でもあるこのフランス映画は、イスラエルでもテレビ放映されたという。アイヒマン裁判のさまざまな問題性を、アーレントの主張に示唆を得ながら明示化したこの映画は、イスラエルの多くのひとびとにとってなおも不快な感情を喚起した。」(『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』 矢野久美子著 みすず書房 2002.2.20 p.13-14)


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