筒井康隆の『愛のひだりがわ』を読もうと思ったきっかけは、『笑犬樓の逆襲』(新潮文庫 2007年)というエッセイを読んでいて、以下の文章を目にしたからである。
「ところがその『愛のひだりがわ』でさえ、『いやな事件ばかりが起こる』として否定的な人がいるのには驚いた。先日NHK・BS2『週刊ブックレビュー』で放送された『今週の一冊』に『愛のひだりがわ』が取り上げられたのだが、その時の三人の評者の中のひとり、長田渚左という女性のスポーツ・ライターの発言である。あのう、なんでスポーツ・ライターに文学書の批評をやらせるんですか。著述業者だから誰でもいい筈なんて思っているんではないでしょうね。『絶望絶望の中でも、それでも生きて行こうと思わせるのが文学でしょう。最後に何か明るさのあるのが文学でしょう』あのう、それは文学ではなくて、娯楽なんですよ。まことに困ったものである」
「この女性には最低共通文化の知識しかないし、文学に関してはまったくの素人だから、むしろ非難すべきはこういう人を出演させているNHKなのだろうが、驚いたことにはもうひとりの評者、文学者という肩書の夫馬基彦という人物までがわけのわからない非難をわが作品に浴びせているのだ。『『フランダースの犬』に似ている。少年を少女にし、犬を複数にしただけである。これをどう現代的に料理したか見てほしい、ということであれば成功している』
模倣でなかった場合は成功ではないというのか。なんで『フランダースの犬』などという古いものが出てくるのだ。思いつきだけでものを言ってはいけない。
(…)さらにこの人は『主人公が小学校六年から中学校三年になるまでの成長を書いているが、成長するのは当然であり、それがどうしたと言いたい』などと言っている。成長したらいかんのか。こうなるともう、悪意があって言っているとしか思えない。」(p.236-p.238)
さらに2002年「文學界」六月号で哲学者の小泉義之が「文学の門前」という連載評論で『愛のひだりがわ』を取りあげて、否定的な結論を導き出していることに反論している。
「この作品の中で、悪人はたいてい排除され追放されてしまう。論者がこれを、またしても『仲間でない者に対して徹底的に冷淡であり冷酷である』としているのだが、ではどうすればいいというのだろうか。論者のいう如く、ヒロインが『怯える大人になるべきではなく、野犬になるべき』であったとすれば、悪人たちは追放どころではなく、たちどころに噛み殺されてしまうわけだが、それでは極めてリアリティのない展開となる」
「論者の図式というのは、一方に『ゲーティッド・コミュニティ』という排他的な集団の否定されるべき感性があり、一方にアウトローの社会があり、ヒロインはアウトローの共同体にいながら、正義を行使する段階でゲーティッド・コミュニティの論理と倫理をコピーするだけになる、と言っている。勧善懲悪の文学と勝手に規定され、勝手に善と悪の基準を作られ、ヒロインがそれに適合しないからと言って文句を言われても困ってしまう。」(p.252-p.254)
これだけ悪口を言われている小説がどんなものなのか逆に興味が湧いたことで『愛のひだりがわ』を読んでみたのであるが、少なくとも『フランダースの犬』には全く似ていないし、ジュヴナイル小説なのだから小泉のような高尚なことは求められていないと思う。
『愛のひだりがわ』に欠陥があるとするならば、主人公の月岡愛が5歳の時に左の二の腕を犬に噛まれ、左腕が不自由になり、それは愛に特殊な才能をもたらしたのだが、タイトルにもなったにも関わらず左腕の不自由さがストーリーに具体的に絡んでこないことくらいであろう。