ラビット・ホラー3D
2011年/日本
‘3D’の概念を変える傑作
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
『ラビット・ホラー3D』はタイトルで誤解されていると思う。ホラー好きの人が観に行けば、この程度ではホラーとは言えないと言われるだろうし、サイコサスペンスとしては素晴らしいものであるにも関わらず、「ホラー」というタイトルで敬遠される可能性があるからだ。
『ラビット・ホラー3D』の特異性は‘3D’がただ映像上の表現としてだけではなく、‘2D’との組み合わせで一つの概念として提示されているところである。現実を生きようとする今里公平は立体(=3D)絵本作家であり、現実を見ないようにしている娘の今里キリコは自分の分身として現実を生きる今里大悟の誕生日のお祝いにタンポポの押し花(=2D)を作っている。父親が制作している絵本は『人魚姫』であるが、継母の死に間接的に関わってしまったキリコは人魚姫と同様に声を失っている。その時継母が着ていた着ぐるみのウサギとキリコのためにプレゼントとして用意していたぬいぐるみのウサギがキリコにとってトラウマとして残るのであるが、このウサギはアリスを不思議ならぬ恐怖の国に導くウサギでもある。最初は大悟がウサギに襲われる理由が分らないのであるが、現実を見ないようにするためにキリコが作り出した別人格と捉えれば分かりやすくなる。例えば冒頭でウサギを殺すことを大悟にやらせることで、自分は罪から逃れようとする。
2人で3D映画を観賞する時にキリコが目を背けている間に大悟が映画から飛び出してくるウサギを掴まえることでキリコの代わりに‘現実’と対峙することになり、実の母親に脅されるのであるが、それはもちろん母親の実の子供は母親と共に死んでおり、大悟はキリコが‘言い訳’のために作り出した架空の人物だからである。
2度目に2人で映画を観に行った時の映画は‘2D’であるために大悟は画面に吸い込まれてしまい、キリコは‘3D’の大悟を失ってしまうのであるが、ここでようやくキリコは大悟が自分が作り出した架空の存在であることを理解する。
ところが今度は、いままで立体絵本を制作することで何とか理性を保っていた父親の公平が平面の絵を書き出して、‘2D’として戻ってきた大悟に囚われてしまう。父親を救うためにキリコは継母が亡くなった場所である遊園地近くの廃墟になっている慈恵総合病院に赴く。キリコは大悟と決着をつけるために彼を刺すのであるが、元々大悟はキリコの分身であるために、大悟を殺すことは自分を殺すことになるのである。死を選んだ‘人魚姫’は螺旋階段の中を落ちていく。その人魚姫はウサギに誘われて穴に落とされた‘アリス’とも重なり、キリコはようやく声を出せるようになるのであるが、人魚姫のように天国へ行くことも、アリスのようにワンダーランドへ行くことも出来ず、キリコは無残に死んでしまう。しかし‘2D’の大悟は生きのびて公平に取り付き、キリコの魂を幽閉した病院跡に建った娯楽施設で一緒に遊ぶことになるのであろう。
『ラビット・ホラー3D』は小掠事務所が関わっており、小掠悟がプロデューサーとして関わった『死刑台のエレベーター』(緒方明監督 2010年)や『七瀬ふたたび』(小中和哉監督 2010年)の酷さは既に書いた通りで、この『ラビット・ホラー3D』は観ることを躊躇していたのであるが、ようやくまともな作品を観せてもらえた。ようするに俊英のクリエーターたちを揃えれば良いものが出来るというだけの話なのである。
チュート福田さん、ブレーキなし自転車で交通切符(朝日新聞) - goo ニュース
自転車は子供の頃には乗っていたが、大人になってからは全く乗らなくなったために
この記事を見て驚いたことがある。後輪にブレーキがついていないスポーツタイプの
自転車で公道を走ると今は道交法違反(整備不良、制動装置不良)で赤切符を切られる
そうで、ブレーキのない自転車で公道を走った場合は5万円以下の罰金が科されるそうで
あるが、さすがにブレーキのない自転車で走る人はいないにしても、前輪にブレーキが
あればそれで十分な気もするが、もう何年も自転車に乗っていないから、実際に乗って
みると危ないのかもしれない。しかし個人的には今後も自転車に乗ることはないと思う。
佐賀知事側、九電にパー券購入要請 九電は関係社に斡旋(朝日新聞) - goo ニュース
何故いまだに古川康が佐賀県知事でいられるのか不思議だ。今年5月の佐賀県幹部を
対象にした原発に関する説明会のインターネット中継中に、九電本店の課長級社員が
川内原発(鹿児島県薩摩川内市)次長らに対し、「今しがた、(佐賀県)知事事務所より
『書き込みが反対派ばかりなので、九電も書き込みを行うように』との指示があったとの
こと。ご協力お願いします」というメールを発信した記録が残っていたことが第三者委員会
の調査で明らかになっているし、古川康の後援会事務所長は、知事の資金管理団体が
昨年10月に東京都内で開いた政治資金パーティー券の購入を九州電力に依頼していた
ことを明かした。古川は自身のツイッターのお気に入りリストに「世界中の数百の空母や
潜水艦に原子炉のっけまくってるのに、地震ごときを理由に原子力を否定するなんて、
いったいどれだけ軟弱なんだ。そんな女々しい奴は豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」
などというツイートを入れていることもバレており、九州電力とはグズグズの関係である
ことは間違いない。なかなかの厚顔無恥ぶりを披露し続ける気味の悪いマッチョである。
落合監督“電撃退任”のウラ…中日にしたたか計算あり!(夕刊フジ) - goo ニュース
選手としての落合博満に関するならば文句のつけようはないのであるが、監督としての
采配はやはりつまらないと思う。特に2007年の日本シリーズの完全試合目前だった
山井大介を9回で岩瀬仁紀に交代させたことはいまだに納得がいかない。結果的に
勝利はしたが、どう考えても岩瀬が確実に抑える保証などどこにもないからである。
このことで思い出すことは1984年のオールスターゲーム第3戦の江川卓の投球である。
江川は新記録の10者連続奪三振を狙うため、9人目の大石大二郎に振り逃げを
させるつもりでカーブを投げたというものである。恐らく江川卓は長嶋茂雄と同じように
“魅せる”野球を目指していたはずであり、だから“魅せる”方を重視すると記録的には
恵まれなくなる。後任に高木守道に決まったようだが、新鮮な人材はいないのだろうか
江川のような人が監督になれば野球は面白くなるはずなのであるが。
ゴーストライター
2010年/フランス=ドイツ=イギリス
疑いすぎた時の人の習性について
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
作品冒頭の説明は既に何度もされているので、ラストシーンの説明から始めてみたい。明らかにラストシーンは『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック監督 1956年)のラストシーンを‘引用’していると思うが、それにしてもゴーストライターの主人公が‘殺された’のであるならば余りにも呆気ないように感じる。この疑問から物語を逆に辿ってみよう。
ここでの主人公の行動が奇妙である。彼がルース・ラングの正体を知ったのであるならば、そのことをルースに知らせずに黙って帰るはずである。前任者の乗ったクルマのナビゲーションの誘導で主人公はポール・エメットの家にたどり着くのであるが、CIA諜報員のエメットが何故ナビゲーションの記録を消していないのか? その直後に謎のクルマに尾行されるのであるが、本当に尾行されていたのかどうかはっきりしない。近所に住んでいる老人にフェリーから落ちて死んだ前任者があんな場所に流されてくるはずがないと指摘されるが、警察にそのことを証言していない老人の言うことを主人公は確かめることなく信じてしまう。
原稿の最初(=the beginning)に真実が書かれているとリチャード・リカルトに教えられたが何も分からず、最後にアメリアに原稿の各々初め(=the beginnings)と言われて主人公は「ラングの妻ルースはハーバード大学のポール・エメット教授にCIA諜報員として雇われた。(Lang's wife Ruth was recruited as a CIA agent by Professor Paul Emmett of Harvard University.)」という文章を‘作り出す’のであるが、『ビューティフル・マインド』(ロン・ハワード監督 2001年)で描かれているように、偶然でこのようなことはありえるし、わざわざこのようなトリックを仕掛ける意図も不明である。だから私は全ては主人公の思い込み、つまり存在しないこと(=ゴースト)の物語であり、ただ私たちが見た通りのことが起こっただけで、結局前任者も主人公もたまたま事故で死んだと見倣すならば、この物語は整合性を持ち、この偶然性こそがこの作品の醍醐味だと思うのである。
まさか、私も思い込みで作り話をしているのであろうか?
ところで週刊新潮の9月15日号の「世間の値打ち」というコラムで文藝評論家の福田和也氏が「そんなに良いか? ポランスキー新作」というタイトルで、散々蘊蓄のあるところは披露しておきながら、肝心の本作に関しては「だって、つまらないんだもの」という、評論家として一番言ってはいけない一言で片付けてしまっている。つまらないのは『ゴーストライター』よりも福田和也氏の駄文であることは間違いない。
キング・オブ・コント準優勝2700、批判殺到に「直接言え」でブログ炎上中(マイコミジャーナル) - goo ニュース
『キング・オブ・コント』の2700のネタは両方ともに面白かったと個人的には思うが、
「ネタが面白くない」とネタ作り担当の八十島のブログに書き込むことが“真っ当ではない”
とは思わない。「俺に会って直接言いにこい」と八十島はブログに書いてしまっているが、
ブログに書かれたことは参考にならないことは無視出来ても、実際に会いに来られた時の
対応の方が大変だと思う。そもそも相方のツネが“キリンスマッシュ”のネタが終わった後に
「このネタの何が面白いのか分らない」と言ってしまっているのだから、大衆の理解を得る
ためには、まずは相方にネタの面白さを理解させることから始めなければならないと思う。
驚きの80年代アイドルのキャッチコピーランキング(gooランキング) - goo ニュース
中森明菜の「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」というキャッチコピーはアイドル
として売ろうとしながらセクシャルな印象を持たせるという意味ではいまだに斬新で、
だから今回のランキングで1位になっていることはキャッチコピーとしては成功している
のである。因みに“美”が“ミ”であり、“新人(=ルーキー)”が“ルキー”で、“娘”が“っ子”
は説明しなければ分らない人は多いだろう。しかしこのデビュー当時のキャッチコピー
がいまだに通用する“アイドル”がいる。6位の井森美幸の「井森美幸16歳、まだ誰の
ものでもありません」は年齢を42歳に変えるだけでいまだに通用から別の意味で驚く。
いったいいつまで“まだ誰のものでもない“のであろうか
モテキ
2011年/日本
怪談か快談か?
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
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音楽
0点
何のキャンペーンなのか分からないが、‘セカンドバージン’をテーマにしたものと‘セカンド童貞’をテーマにしたものが2011年9月23日という同じ日に公開されるという偶然が偶然でないならば、男女双方へ結婚を推奨しようという国策が絡んでいるはずで、それほど日本国民を結婚させたいのであるならば、まずは景気を回復させることが先決であるはずだが、冗談はさておき、この景気が悪い中、『モテキ』のオープニングの神輿のタイトルバックは見応えがあった。『セカンドバージン』では聞き取りにくかった挿入歌も、本作では歌詞付きで聞くことさえできる。
物語は主人公の藤本幸世が偶然ツイッターで知り合った松尾美由紀との関係を巡るものである。美由紀が幸世を翻弄してしまう理由は、美由紀が本当は幸世のことが好きでも、美由紀にはすでに付き合っている男性がいるからなのであるが、男性には妻子がおり、だからといって付き合うことで幸世が自分を成長させてくれるようには見えないという複雑な心情に囚われているためである。
その過程において多少の疑問が湧いてくる。幸世が墨田卓也たちとしている飲み会に美由紀は友人の枡本留未子を連れてくる。美由紀はわざわざみんなの前で留未子に彼氏がいないことを告げて、その後、留未子を残して一人で先に帰ってしまうのであるが、これでは幸世と留未子の仲を取り持っているように見えてしまう。しかし後に分かるように、幸世と留未子が一夜を共にしたことに美由紀は嫉妬するのであるが、これも複雑な女心なのであろうか?
結局、幸世は留未子をふってしまうのであるが、その理由は‘重い’というものであった。しかし‘セカンド童貞’だった幸世にとって、重かろうが軽かろうが留未子(麻生久美子)ほどの美貌を備えた、‘やらせてくれる’女性を一度しただけで拒絶することは想像しにくい(ちなみにB'zよりも神聖かまってちゃんの方が明らかに‘重い’はずであり、さらに‘重い’のが尾崎豊なのであるが、‘重い’にも関わらず早世したからむやみやたらと持ち上げられることが気にいらないと大根仁監督は思っているはずである)。だからここは‘重い’からという理由ではなく、どうしても美由紀のことが忘れられないという理由ではっきりと留未子のことをふってしまう方が正しいように思う。もっとも‘重い’という理由は、その後に地面に倒れた幸世に留未子が覆いかぶさったことによる彼女の体重の‘重い’というギャグの伏線だとは思うが。
何のかの言ってはみたものの、そのような細かいことを気にしなければ、ド派手な演出に4人の美女たちと森山未來の身体能力の高さで十分楽しいものになっていると思う。
早朝に幸世が愛と一緒に出かける時に、先生に引き連れられた幼児たちとすれ違うのであるが、2,3人の幼児が朝食を食べていないと言っていた。これがギャグでないならば深刻な社会問題である。
SMAP初海外ライブ!中居「長かった」(サンケイスポーツ) - goo ニュース
高水準のステージ…SMAP公演に中国メディア(読売新聞) - goo ニュース
ファン殺到で上海パニック…AKB握手会中止(サンケイスポーツ) - goo ニュース
サンケイスポーツによるとSMAPがライブを行った北京工人体育場は8万人収容だが
入場者は4万人に限定されていたらしいが、「7万人収容とされるスタジアムは空席も
目立ち、最後はダフ屋も登場して、安い席の券が正規価格の5分の1の50元(約600円)
前後で売られていた」という情報もある。だからAKB48の握手会が行われる予定だった
上海市内の会場にファン1000人が殺到し、「混乱を招く」との理由で当局がイベントを
中止したという情報で、そのまま日本と中国の間で親睦が深まっていると考えることは
早計ではないのかと思うのである。
セカンドバージン
2011年/日本
挿入歌の重要性について
総合
0点
ストーリー
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キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
テレビドラマだった『セカンドバージン』を映画化する必然性があるとするならば、テレビでは描けない主人公の中村るいと鈴木行の激しい‘情愛’を描くからこそであって、観客の誰もがそれを期待して観に行くはずである。しかしそのような観客の期待は見事に裏切られる(因みに私はマレーシアで観たわけではない)。
結果的に映画版『セカンドバージン』は中村るいではなく、鈴木万理江と結婚したものの子供に恵まれず、子供を持つつもりが17歳年上の女性の‘子供’として取り込まれてしまう鈴木行を中心とした物語になってしまっている。
最初に中村るいが、次に鈴木行が、最後に現地の子供がハミングする、25年前にヒットした歌のタイトルが分かる人が何人いるのか定かではないが、タイトルを明かさず原曲を流すこともないままで、そもそも彼らのハミングが聞き取りにくく、せめて『アンフェア』の篠原涼子くらいにはっきりハミングしてくれなければよく分らない。
私はエンドロールでこれが(中村るいの想い出の曲であるために)岡村孝子の「はぐれそうな天使」だと分かった次第であるが、この曲は絶対に倖田來未の「愛を止めないで」の代わりに最後に流すべきだった。何故ならば(恐らく)脚本は来生えつこが作詞したこの曲の歌詞をヒントにして書かれているはずだからである。今からでもいいから動画で岡村孝子「はぐれそうな天使」を聴きながら、鈴木行の「何の曲なの?」という問いを無視して海を見つめながらハミングする中村るいの気持ちを想像してみて欲しい。それだけで私も笑うつもりが泣きそうになった。
結局、いろいろな‘しがらみ’に囚われて、女心が分らない監督が傑作になったはずの作品を駄作にしてしまったわけで、申し訳ないのであるが0点以外に私は思いつかなかった。