MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『泣いてたまるか その一言がいえない』

2015-03-31 00:16:06 | goo映画レビュー

原題:『泣いてたまるか その一言がいえない』
監督:中川晴之助
脚本:橋本忍
撮影:森隆吉
出演:渥美清/松本克平/永井智雄/稲葉義男/佐藤オリエ/小笠原良智/横内正
1966年/日本

生真面目さ故に犯罪者になってしまう皮肉について

 作品の冒頭に「この話はフィクションです。現実は裁判前に裁判官、検事、弁護士の協議はありません。」とわざわざテロップが入るのだが、逆に捉えれば無理な設定を設けても描きたいことが脚本を担った橋本忍にあったということであろう。
 主人公の池上幸三は真面目な警察官だったが、母親が子宮筋腫の手術の際の輸血が原因で血清肝炎を患ってしまい、少しでも良い環境で治療させるために、警官を退職して実入りがいいタクシーの運転手を始める。ある時、やくざの白木が率いるグループに囲まれてしまい、身に覚えのない謝罪を要求され、断ると仲間たちの前で面子を潰された白木は刃物で池上を脅し、揉めている間に池上が白木を刺して死なせてしまう。池上の性格を知っている周囲の同僚や上司や弁護士、さらに裁判官や検事までも池上に同情し、正当防衛を主張するのであるが、何故か池上本人がその真面目さ故に殺意が「全く」なかったとは言えないという「本心」を主張し続け、結局、傷害致死で懲役5年の実刑を受けることになる。
 後に池上は、建てられて65年経つ刑務所において、のべ10万4800人の服役囚の中で最も優れた模範囚として2年4カ月で出所し、タクシー会社に復職し、いいなずけと結婚し、2児をもうけて年老いた母親と平凡に暮らしているというナレーションで終わるのであるが、確かに「殺意」の有無は本人にしか分からないことで、なかったと言えば済むのに「バカ真面目」が災いしてバカを見るというアイロニーはさすが橋本忍といったとこだろうか。


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生々しい「ヴィーナス」

2015-03-30 00:02:09 | 美術

 現在、Bunkamuraザ・ミュージアムにおいて「ボッティチェリとルネサンス」展が

催されている。上の作品は言うまでもないサンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli)の

代表作「ヴィーナスの誕生(The Birth of Venus)」(1485年頃)であるが、下の作品は

上の作品のヴィーナスだけを独立させて描かれた「ヴィーナス(Venus)」(1482年頃)である。

もはや神話でもファンタジーでもない「裸のヴィーナス」はいわゆる「ポルノグラフィー」として

生々しく機能していたと想像できる。


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パスキンとキュビスム

2015-03-29 00:37:05 | 美術

 印象派の展覧会を何度も訪れていると、時々パスキン(Pascin)の作品と出会い、そのたびに

私はどうしてこんな下手な画家の作品が他の印象派の画家の作品と共に展示されているのか

不思議でならなかった。例えば、下の作品『テーブルのリュシーの肖像』(1928年)を

見てみるならば、リュシーの上半身とテーブルを挟んだ下半身のバランスが悪いことが分かる。

今回パナソニック汐留ミュージアムの「パスキン展」でパスキンの油彩画を並べて見る機会を

得て、意外かもしれないが作風がジョルジュ・ブラックの「キュビスム」に似ているように思った。

もちろんパスキンの作品に角ばったようなところはないのであるが、全体的に茶色い色合いと

不鮮明な輪郭がキュビスムを想起させるのである。いずれそのような観点から再評価されるだろう。


(「Portrait de Lucy à table」)


(「Portrait of a Woman, Female Figure」 Georges Braque, 1910)


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『恋人たちは濡れた』

2015-03-28 19:54:54 | goo映画レビュー

原題:『恋人たちは濡れた』
監督:神代辰巳
脚本:神代辰巳/鴨田好史
撮影:姫田真佐久
出演:中川梨絵/絵沢萠子/薊千露/大江徹/堀弘一/清水国雄/高橋明
1973年/日本

「こんにちは」と「さようなら」の間を生きる意味について

 主人公の中川克は久しぶりに故郷の千葉県船橋市に戻って地元の映画館のフィルム運びをしている。何故か自身の素性を隠したままで、旧友たちが声をかけても知らんぷりをしている。
 本作には三波春夫の「世界の国からこんにちは」(1967年)と都はるみの「好きになった人」(1968年)が交互に流れ、必然的に克は「こんにちは」と「さようなら」の間をたゆたうことになるのであるが、それに伴い克の人間関係は歪んでしまっているように見える。自分の母親を目の前にしても何の感動も得られないのであるが、夫を持つ映画館主のよしえと不倫の関係を持ち、夫がその事実を知っていることを知ると克はよしえに興味を失い、よしえは首つり自殺を試みるが失敗する。克は草原で安藤洋子とボーイフレンドの光夫がセックスしているところを何のためらいもなく覗き見している。
 女性に不自由しているのかと勘違いした光夫は幸子という女性を克に紹介するが、「禁忌」を犯すことでしか他人と交われない克は幸子の機嫌を意図的に損ねて強姦してしまうのである。克と光夫と洋子は奇妙な三角関係を築くことになり、砂漠で馬跳びなどをして戯れるのであるが、克が洋子に自分は雇われて人を殺したと本音を明かした瞬間、突然現われた男に刺され、克は一緒に自転車に乗っていた洋子と共に海中に消えてしまう。克に安定した生活は許されなかったのである。
 克が働いていた映画館では『淫獣』や『濡れた唇』などがかかっておりポルノ映画専門館のように見えたが、「小人200円、中学生250円」と窓口に書かれていたのはギャグだったのだろうか。


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『一条さゆり 濡れた欲情』

2015-03-27 23:22:16 | goo映画レビュー

原題:『一条さゆり 濡れた欲情』
監督:神代辰巳
脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久
出演:一条さゆり/伊佐山ひろ子/白川和子/粟津號/高橋明/小見山玉樹/小沢昭一
1972年/日本

劇場と映画の演技の違いについて

 「一条さゆり」とタイトルに名前が掲げられているにも関わらず、本作の真の主人公は伊佐山ひろ子である。正確を期すならば、ストリップ劇場の主人公は間違いなく一条さゆりなのであるが、映画の主人公は伊佐山ひろ子であるというべきであろう。それは不思議なことに映画内で自分自身を演じている一条さゆりの演技がぎこちなく、一方でストリップのショーにおいて伊佐山ひろ子が一条さゆりに勝てるわけがないからである。しかし海に飛び込んだり、隠れていたトランクが坂道を転げ落ちてトラックと衝突したり、警察署内でも服を脱いでしまう伊佐山の縦横無尽の活躍はアナーキーと化しているのだが、ラストでストリップショーの最中に下腹部に力が入りすぎて牛乳を含ませた脱脂綿を飛ばしてしまうところはストリッパーとしての限界を露呈してしまうのである。
 それにしても今日の出来事なのであるが、驚いたことに劇場後方で痴漢騒ぎがあり、成人映画を観にくる女性を狙って映画を観にくる輩がまだ存在するようでは作品の質がいくら良くても安心して観ていられないと思う。気をつけなはれや!


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『風俗行ったら人生変わったwww』

2015-03-26 00:27:06 | goo映画レビュー

原題:『風俗行ったら人生変わったwww』
監督:飯塚健
脚本:飯塚健
撮影:相馬大輔
出演:満島真之介/佐々木希/松坂桃李/中村倫也/谷村美月
2013年/日本

佐々木希と「標準語」について

 女優として佐々木希はとてもアンビヴァレンスな存在だと思う。美貌に関するならば世界的に認められていながら、『さいはてにて-やさしい香りと待ちながら-』(チアン・ショウチョン監督 2015年)を観ても感じたことだが、どこかぎこちなさを感じるのである。しかし本作を観てもわかるように、もちろん個人的な飯塚健監督作品との相性もあるのだが、彼女の存在なくして作品は成り立っておらず、特に橋の上でのラストシーンがあるからこそ本作は辛うじて観られるものになっているはずである。
 ところが彼女が風俗嬢になる前の高校生時代のシーンにおいて、彼女は地元の秋田弁を喋るのであるが、そこのシーンが妙にナチュラルで、やる気はとてもあるのだから佐々木の問題は「標準語」にあるのではないのかと思うのである。


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『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』

2015-03-25 00:35:06 | goo映画レビュー

原題:『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』
監督:チアン・ショウチョン
脚本:柿木奈子
撮影:真間段九朗
出演:永作博美/佐々木希/桜田ひより/保田盛凱清/臼田あさ美/浅田美代子
2015年/日本

 外国人監督と日本人スタッフのコミュニケーション不足について

 8年間行方不明ということで、失踪宣告を受けた父親の負債を肩代わりして石川県能登半島の奥能登にある父親の船小屋を改築して焙煎珈琲店を始めた主人公の吉田岬が店の名前を「ヨダカ珈琲」としたのは自分が宮沢賢治の童話『よだかの星』のよだかだからだと説明し、それを聞いて山崎有沙は違うと否定する。確かに岬が「よだか」であるという具体的な描写はなく、これは根拠に欠ける。
 やがて8年前に父親が乗船していた船が発見され、岬の父親の死が確実視される中、それを認めたくない岬は波の音を聞いていられないという理由で、店を畳んで去ってしまうのであるが、何故かしばらくして戻ってきてしまい「ハッピーエンド」となる。
 このように主人公の心理が全く伝わってこないのであるが、例えば、有沙が学校に給食費を払わなければならず、一度は母親の山崎絵里子に夕食時に給食費のことを伝えたように見えたが、携帯電話に夢中だったためなのか何故か絵里子は聞いておらず、給食費など払わなくてもいいと考えている「モンスターペアレント」の類なのかと思いきやそうでもなかったことにも驚かされる。台湾人監督と日本人スタッフと上手くコミュニケーションが取れていたのか疑問が残る。
 『幕が上がる』(本広克行監督 2015年)でも『銀河鉄道の夜』が取り上げられていたが、宮沢賢治は相変わらず根強い人気である。


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『幕が上がる』

2015-03-24 00:41:23 | goo映画レビュー

原題:『幕が上がる』
監督:本広克行
脚本:喜安浩平
撮影:佐光朗
出演:百田夏菜子/玉井詩織/高城れに/有安杏果/佐々木彩夏/黒木華/ムロツヨシ
2015年/日本

 ストーリーの軸を歪めるほどの脇役の存在感について

 県立富士ヶ丘高校の演劇部は3年生が抜けて、高橋さおりが部長として活動することになる。脚本をどうすればいいのか分からなかった高橋はとりあえずチェーホフではなくベケットでもなくシェークスピアの『ロミオとジュリエット』のエッセンスをまとめたようなものを書くのだが、生徒たちには見向きもされなかった。
 そのような時に新任で元学生演劇の女王だったという吉岡美佐子と出会い、高橋たちは顧問になってくれるように頼み込む。吉岡の提案で高橋たちは『肖像画』という自分たちの経験を元にしたオリジナルを披露して好感触を得ると、高橋は転校してきた中西悦子と共に演劇の現場を手伝った経験などから宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を演目に選び、全国高等学校演劇大会の地区予選に挑むのである。
 監督がどのような意図で演出したのか定かではないが、当初は「ももいろクローバーZ」の5人のメンバー間においての友情や葛藤を描くつもりだったのではないだろうか。ところがまるで田中裕子ばりのベテラン感を醸し出す黒木華の存在によって、ストーリーの軸は黒木が演じる吉田と百田夏菜子が演じる高橋の、演技を巡る「静かなる戦い」へと移ってしまったように見える。
 つまり本作においては肝心の『銀河鉄道の夜』は『肖像画』のように丁寧に描かれておらず、オリジナルと高橋の演出の違いが明確にならないと同時に、メンバー間の葛藤が薄まる分、吉田と高橋の2人の存在が目立つようになり、本作は良質の作品のはずだが物足りなさを感じてしまう。もちろん谷川俊太郎の詩「二十億光年の孤独」で言われているように、絶えず膨らんでいる宇宙の中でたどり着ける「ゴール」など存在しないも同然で、実際に富士ヶ丘高校は優勝できなかったのだから本作も、いわゆる「アイドル映画」というレベルは超えてはいるのだが、この「夢の途中」の物語は思わぬライバルに翻弄されているように見えるのである。


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『くちびるに歌を』

2015-03-23 00:02:51 | goo映画レビュー

原題:『くちびるに歌を』
監督:三木孝浩
脚本:持地佑季子/登米裕一
撮影:中山光一
出演:新垣結衣/木村文乃/桐谷健太/恒松祐里/井川比佐志/石田ひかり/木村多江
2015年/日本

「障碍者」たちの可能性と「一流」の苦悩について

 発達障害の兄の桑原アキオを生涯にわたって「保護する」ために両親が自分を産んだと思い込んでいる桑原サトルと、逆に自分を身ごもってしまったために嫌な相手と結婚するはめになった母親が心労で病気になり早世したと思い込んでいる仲村ナズナの「物語」はどちらも考え過ぎであるとしても当の本人たちにしてみればまぎれもない事実として幼い心に重くのしかかる。
 2人が通っている長崎県五島列島にある中学校の音楽の臨時教員として東京から赴任してきた柏木ユリも自分がプロのピアニストであったために恋人を交通事故で亡くしたと思い込んでピアノが弾けなくなっていた。
 校歌も弾けなかったユリがナズナが父親に2度も捨てられたという話を聞いたことをきっかけにベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』を弾き、合唱部の伴奏を担当するようになり、クライマックスにおいてはアキオの人並み外れた記憶によってナズナが癒されることになる。「障碍者」であっても才能を発揮する可能性を見せるからであるが、ラストでユリがどのような思いで東京に帰っていくのかがよく分からない。あくまでも合唱部として銀賞をとれたのであって、ピアニストとしてのユリが評価されたわけではないからである。もちろんユリは一流のピアニストであり、その点の評価は揺るぎないとしても、一流のピアニストであったがために彼女は恋人を失ったはずであり、だから船が出発する汽笛を聞いたユリが口にした「ドのシャープ」が彼女の心情のメタファーとして機能していないように思うのである。
 父親が帰ってきた時に、ナズナの祖父母が息子にも孫にも何も言わないということも不自然に感じた。


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アンリ=エドモン・クロスという名前

2015-03-22 23:55:57 | 美術


「農園、夕暮れ(The Farm : Evening)」(1893年)

 現在、東京都美術館において「新印象派」展が催されている。印象派展には度々足を運んで

いるので、だいたい分かったつもりになっていたが、アンリ=エドモン・クロス(Henri-Edmond Cross)

の存在に全く気がついていなかった。クロスはポール・シニャックの「サン=トロペの松林

(Pine Trees by the Sea at St. Tropez)」(1982年)と上の作品を交換したりする

ほど仲や良く、さらには野獣派のアンリ・マティスにも多大な影響を与えているのであるが、

何故か名前が挙がることがない。何故かと考えると、作品の問題ではなく、名前の問題なの

ではないかと思う。印象派の画家の名前は、マネ、モネ、ルノアールからゴッホ、ゴーギャン、

スーラ、シニャック、ピサロなど変な名前であるが故に覚えやすいのであるが、その中で

クロスという名前は地味であることが原因のような気がする。「印象派」という意味は奥深い。


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