MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

「Forbidden Colors」 Ryuichi Sakamoto & David Sylvian 和訳

2023-07-31 19:36:54 | 洋楽歌詞和訳

Ryuichi Sakamoto and David Sylvian - "Forbidden Colors" (Merry Christmas Mr. Lawrence OST)

 坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」にデヴィッド・シルヴィアンが

歌詞を付けて1983年にリリースされた「フォービッデン・カラーズ」

を和訳してみる。因みにタイトルは三島由紀夫の小説「禁色」から

取られているのだが、本作は同性愛を描いた映画というよりも、

ラストシーンにおいてハラ・ゲンゴ軍曹がジョン・ロレンス陸軍中佐に

向かって満面の笑みで「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」と

叫ぶように、それまで散々威張り散らしていた日本人が戦争に負けると急に

西洋人に媚びを売るようになり、慣れない英語を話そうとする有様が描かれ

ているのであるが、そのような西洋人に対して卑屈になる日本人の

コンプレックスは相変わらず下手な英語と共に今日においてもなお

受け継がれているということを告発しているのである。以下、和訳。

「Forbidden Colors」 Ryuichi Sakamoto & David Sylvian 日本語訳

君の両手の傷は治るようには全く見えない
僕に必要なことはただ信じることだと僕は思った

君から人生を奪った僕はここにいる
キリストの血なのか
あるいは鼓動なのか
僕の愛は禁じられた色をまとっている
僕の生命に迷いはない

非常識な年月が轟音をたてて過ぎて行く
何百万という人々が
喜んで君に人生を捧げる
頼れるものは何もないのか?

僕の中で芽生えた感情を上手く対処することを学び
土の中の僕の両手は僕自身の中に埋める
僕の愛は禁じられた色をまとっている
僕の生命はもう一度君を信じる

僕が踏みしめる大地を疑いながら
全てにおいて疑いようのない信条を示そうとする間は
僕は旋回して歩き回るだけだろう
君から人生を奪った僕はここにいる
キリストの血なのか
あるいは心境の変化なのか

僕の愛は禁じられた色をまとっている
僕の生命に迷いはない
僕の愛は禁じられた色をまとっている
僕の生命はもう一度君を信じる


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「Gone To Earth」 David Sylvian & Robert Fripp 和訳

2023-07-31 00:58:34 | 洋楽歌詞和訳

Sylvian / Fripp - Gone To Earth (Damage)

 デヴィッド・シルヴィアンとロバート・フリップが共作して1994年に

リリースしたアルバム『ダメージ(Damage)』に収録されている

「ゴーン・トゥ・アース」も和訳してみる。

「Gone To Earth」 David Sylvian & Robert Fripp 日本語訳

炎が灯ったロウソクと
神聖な物事が書かれた本
彼らは紐で両腕を縛られて
にわか雨に遭ったおまえを壁に投げつけるだろう
神々しい王様たちを束ねる俺たちの支配者
彼らはもたらされる古代の鐘が携わる環境の犠牲者たち
世界の全ての恐怖は
恥ずかしいほどにむき出しにされ
理由もなく俺たちの頭に入れられる

彼らには全員価値があると告げる声があるかもしれないが
地球に向かうために
アナウサギたちは自分たちの巣から飛び出していっている


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「The First Day」 David Sylvian & Robert Fripp 和訳

2023-07-30 12:57:08 | 洋楽歌詞和訳

Sylvian / Fripp - The First Day (Damage)

 デヴィッド・シルヴィアンとロバート・フリップが共作して1993年に

リリースしたアルバム『ザ・ファースト・デイ(The First Day)』には

何故かアルバムタイトル曲は収録されず、1994年にリリースされた

ライブアルバム『ダメージ(Damage)』に収録された。以下、和訳。

「The First Day」 David Sylvian & Robert Fripp 日本語訳

星々を持ち出すと
静寂へと消えて行く
心に決めさせて
それが生じるのを見てみよう

キスで騙され
翼に触れられて
盲目のまま取引するために
鐘を鳴らし合おう

影が落ちると
青白い月に浸された
部屋は水で満たされる

恋人がまた電話をする約束をして
彼女の名前を言いにやって来た
黒い海の中に浸かる黄金
彼女が俺を悩ませる
彼女が俺を悩ませる

着陸しないまま落ちていく方法を数えながら
飛行や降下や滑降をしくじる

石炭からダイヤモンドに変化する際に起こる
圧縮された音
言葉は縛られた和音と
緊密に結び付けられている

影が落ちると
青白い月に浸された
部屋は水で満たされる

恋人がまた電話をする約束をして
彼女の名前を言いにやって来た
黒い海の中に浸かる黄金
彼女が俺を悩ませる
彼女が俺を悩ませる

目で受け付けられ
言葉で信用され
急いでいるように見える
音が聞こえるならば
俺を落胆させないで欲しい

石で木を少しずつ削りながら
もしも境界線が崩壊するならば
もはや俺は一人ではない
俺を落胆させないで欲しい

星々を持ち出す
最初の日に
最初の日に


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「Damage」 David Sylvian & Robert Fripp 和訳

2023-07-30 00:58:42 | 洋楽歌詞和訳

Sylvian / Fripp - Damage (Damage)

 デヴィッド・シルヴィアンとロバート・フリップが共作して1994年に

リリースしたアルバム『ダメージ(Damage)』に収録されているアルバム

タイトル曲を和訳してみる。

「Damage」 David Sylvian & Robert Fripp 日本語訳

俺はおまえの声に導かれて
この道を見つけた
言うべきことはたくさんあるのに
言葉数は少ない
かつて選択肢があったので
俺はそれだけを持っている

俺はおまえにたくさん与えたのか?
おまえは俺にくれた
おまえは決して手放さない星々を
そして歌うための歌を俺にくれた
俺はただ愛されたいんだ
俺は傷つけ
ダメージを負った
おまえは俺に歌うための歌と
影と太陽と
大地に対する執着と星に夢中であることと
誰かに頼ることを与えた

何故俺は留まらなかったのか?
何故留まれなかったのか?
たくさんの人々とすれ違うのに
俺はただ去らなければならなかった
全てはなくなってしまう
全ては

そこで俺はおまえと会えるのか?
神はその場所を知っている
俺はおまえの手に触れて
おまえの頬にキスをするだろう
俺たちはただ愛されたいんだ
俺たちはただ愛されたいんだ
俺はただ愛されたいんだ
俺は傷つけ
ダメージを負った
おまえは俺に歌うための歌と
影と太陽と
大地に対する執着と星に夢中であることと
誰かに頼ることを与えた


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『夫のちんぽが入らない』は実話なのか?

2023-07-29 20:30:37 | Weblog

 今頃になってこだまのデビュー作『夫のちんぽが入らない』を読んでみた。「普通」にできない、「当たり前」に生きていけない人たちへのエールという捉え方に文句を言うつもりはなく、実際に同様な苦悩を抱えている人たちには励みとなる作品ではあるのだろうが、読み終えた今でも個人的には「これは本当の話なのだろうか?」という疑問を拭えないでいる。
 確かに文章は上手いし、深刻な私小説というだけでなく、エンタメ小説として読んでも面白いとは思うのだが、例えば、夫との実際の性交渉の場面を引用してみると、

「昨夜と同じ振動が始まった。強く、強く押されている。ぶつかっている。
『うーん、これより先に進まない』
『今どれくらい入っていますか』
『入っていない。当たっているだけ』
『当たって、いるだけ』」(p.43-p.44)

 ジョンソンベビーオイルを使えば半分くらいは入るようなのだが、痛みと出血が伴うらしい。

 精神分析学的には著者と母親の関係によって、愛すべき人間に非道な仕打ちを犯してしまうというコンプレックスが考えられるものの、もしも夫のちんぽだけが入らないというのであるならば、相手によって拒絶できる可能性を秘めた女性の膣において既にこの世に強姦は存在しないはずなのである。強姦されそうになれば入れないように閉めればいいのだから。

 これは決して本作を揶揄したり茶化したりする意図で書くのではないが、膣がダメならば肛門という手立てもなくはない。最初は痛いだろうが、慣れれば快感も芽生えてくるであろうし、もしも子供が欲しければ、人工授精という手段もある。つまり究極を突き詰めていくならば、結果的に「普通」に見えてくることはあるのである。

 夫の指なら入るのだろうかと様々な疑問が湧いてきて、とにかく本作だけでは納得できなかったということだけは記しておきたい。


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『街とその不確かな壁』と学生運動

2023-07-28 00:53:22 | Weblog

 ところで『対論 1968』で一番おどろいたのは村上春樹に関する部分だった。

「いずれにせよ村上春樹の小説は、そのつもりで読み直してみると腑に落ちるところがある。これまでの作品でほとんど唯一、単行本化されていない『街と、その不確かな壁』(『文學界』1980年9月号)という中編があって、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)の習作みたいなものなんだけど、たしかに本人も言っているように失敗作ではあるんです。しかしおそらくは、川口事件(川口大三郎事件、早稲田大学構内リンチ殺人事件)を引き起こすような早稲田の環境というものを、壁に囲まれてほとんど死んだようになっている〝壁〟に仮託して書いてるんじゃないか......というふうに読めるんだよね。あくまでも〝読める〟というにすぎませんが、『海辺のカフカ』では明確に川口事件について書いてるんだしさ。」(p.171)
「革マル派は一方で大学当局との交渉の回路を持ちつつ、革マル派以外の学生たちをムーゼルマンのように、何もできない、死者のような存在と化させるような形で支配している。」(p.173)

 ここで「そのつもりで読み直す」というのは〝革マル派批判〟的観点から読み直すという意味である。そういう読み方があるということは分かったが、試そうとは思わない。「当事者」じゃないから。

「これはもうダメだと思ったのは、竹田(青嗣)がちくま新書の『人間の未来』(2009年)で、『最悪の専制権力でもアナーキーよりましだ』と書いた時かな。もしも早稲田にまたバリケードが築かれたら、『全共闘のアナーキーより機動隊の秩序のほうがましだ』とか教授会で言うんだろう、もう向こうの側の人なんだと見切ったね。」(p.168)
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/nikkansports/nation/f-so-tp0-230418-202304180001406


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『対論 1968』

2023-07-27 00:59:12 | Weblog

 1968年頃の日本の学生運動に関してちょっと興味があり新書ということもあって、本書を手に取ってみたのであるが、「専門用語」だらけで何がなんだかよく分からない。巻末には「新左翼党派の系統図」が載せてあるものの、アニメにでもしてもらわないと覚えられないが、ここでは印象に残った話題を書き留めておきたい。

 日本の学生運動とは「自分探し」だったのか?

「つまり〝生きずらさ〟と言っても、別に〝差別されて辛い〟とか〝ブラック労働で辛い〟ということではなく、むしろそういう具体的な根拠を欠いた、抽象的でスカスカした、手応えのない辛さ......それを〝辛い〟と表現すること自体が正確なのかどうかという、そうした息苦しさ。これは対象化としての〝疎外〟ではないんだよ。何か〝正しい私〟あるいは〝本来あるべき私〟があって、それは現在の私のありようとは違っており、だからその〝本来の私〟を取り戻そう、回復しようというのが、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス的な自己対象化論としての疎外論だね。/しかし問題なのは〝疎外感〟であって〝疎外論〟ではない。」(p.71)

 ゲーデル的であれ郵便的であれ、脱構築と否定神学を対立させる東浩紀の発想がそもそもトンチンカン?

「〝メシアなきメシアニズム〟(ジャック・デリダ)
 〝神は存在しないと思いながら祈らなければならない〟(シモ―ヌ・ヴェイユ)」(p.76)

 岡本太郎は原発礼賛派?

「花田清輝あるいは武井昭夫さんの周辺にいた人たちの多くは、今でも岡本太郎をいいと思っているし、まして世間一般はそうでしょう。しかし『太陽の塔』って、あれは原発のことですよ(笑)。原発のシンボルなんです。日本初の商用原子炉である福井県の敦賀原発が稼働を始めて、その最初の電気を万博の開会式に送電するっていうイベントなんだからさ。」(p.78-p.79)

 〝転向論〟は日本にしかない?

「ヨーロッパ人ならば、コミュニズムが正しいのかファシズムが正しいのか、というのが重要な問題なのであって、〝立場を変えた〟こと自体は思想的主題にはなりませんよ。仮にファシズムが正しいんなら、むしろ立場を変える〝べき〟であって、逆にコミュニズムの方が正しいのであれば、立場を変える〝べき〟ではなかったということになる。それだけのことです。〝転向〟自体が問題だという思考は、ヨーロッパ人にはありません。例えば、ポール・ニザンが独ソ不可侵条約に激怒して共産党を脱党したことについて、〝裏切り者め!〟という話になることはあっても、〝なぜ彼は転向しえたのか?〟みたいな〝転向論〟の議論は起きない。〝なぜ〟って、〝独ソ不可侵条約に激怒したから〟でしょう(笑)/どういうわけで、日本にだけ〝転向論〟が生まれたのか? あの時代、思想転向そのものが日本に固有の現象だったからですね。ポール・ニザンの脱党は、権力の強制による思考転換という意味での転向ではない。」(p.129)

 上野千鶴子のフェミニズム

「80年代のフェミニズムというのは、上野千鶴子を典型として、最近だと〝リーン・イン・フェミニズム〟と呼ばれるような、つまりアッパー・クラスのインテリの、〝男と同等になるべきだ〟、それも要は社会の枢要な地位に就くことを可能にすべきだという、上層階級内部での〝不平等〟を問題にしてきた。これはいたしかたない面があるにせよ、全共闘を批判するとすれば、上野千鶴子のような〝リーン・イン・フェミニズム〟を大量に生み出したことをこそ批判するべきなんだ。」(p.143)
「そもそも特権的な立場の女が、〝ガラスの天井〟を突破しても、その恩恵が非正規・不安定層までトリクルダウンするなんてことはない。階級上昇にチャレンジしうる立場の女を主とするような、そんなフェミニズムではダメだということです。」(p.144)
「上野千鶴子みたいなフェミニストには、男であれ女であれ〝非正規〟労働者の存在が視野に入っていないし、そういう人たちは〝問題外〟として端的に排除されてしまう。それが最終的には、移民を排除して、かつての帝国主義本国の遺産を本国人だけで分配したいという排外主義に帰結していく。実際、上野千鶴子は、〝リーン・イン・フェミニスト〟の路線を純化して、〝排外フェミニズム〟へと見事な転換を遂げて、『移民を入れるな』と言い出したわけです。」(p.149-p.150)

 内ゲバの原因?

「表面的には、西欧と日本の状況はパラレルだったとも見えます。しかし決定的に違っていたのは、フランスやイタリアでは、親世代の共産主義者たちがファシズム体制への武装抵抗をやっていたこと。アルジェリアやベトナムのようにパルチザン戦争で侵略者を叩き出したわけではなく、アメリカ主導の連合軍の力で勝ったにすぎないとしても、それでも武器を取って闘ったという事実は決定的だった。政治的な威信や民衆からの支持は急速に拡大し、戦争直後のフランス共産党やイタリア共産党には、政権を獲得しかねないほどの勢いがあった。」(p.175-p.176)
「ところがユーロコミュニズムの本場では、新左翼の若者がいくら口先で威勢のいいことを言おうと、銃を持ってファシストと戦っていた親たちに鼻の先であしらわれてしまう(笑)。〝行動の急進性〟を競ってもかなわないんです。だから戦術問題として武装闘争の有効性を主張するとしても、暴力が活動家の存在理由になってしまうような傾向は希薄だった。その点、日本の新左翼は、戦後憲法の〝平和主義〟の問題と相俟って、〝戦争〟というものから疎外されていたんだね。だからこそ逆に〝戦争〟に向けて疎外されていく。」(p.177)

 フリーダムとリバティ

「では、〝68年〟以降の世界はどうなったか? 〝平等〟の要求が〝自由〟の要求に反転したわけだ。(中略)〝68年〟世代のある部分がネオリベ化していったことにも根拠はある。〝平等〟の要求が達成された結果としての抑圧的な社会への叛乱は、それを裏返した〝自由〟の要求を広範に生じさせた。/ところが日本語では同じ『自由』でも、〝68年〟のフリーダム要求がリバティにすり替えられてネオリベラリズムが支配的になっていく。」(p.182)

 呉智英は吉本主義者?

「呉智英の〝反・反差別〟って要は津村喬批判でしょう。吉本も津村の反差別論を『ナンセンスだ』と批判してきた。呉智英というより、そのバックボーンの吉本が、反差別論をすべて無効だと言いたてるようなネトウヨ的言説の源流だと思う。」(p.195-p.196)
「だけど呉智英も、笠井が言うように、小林よしのりや排外主義に流れていくんだよ。大月隆寛も〝新しい歴史教科書をつくる会〟に参加してたしさ。」(p.197)

 何かとマルクス頼み?

「斉藤幸平が言ってるのも、ブルジョア主義のエコロジーは不徹底なので、マルクスに即してもっとちゃんとやりましょう、という程度のこと。しかし支配層がやる以上のことなんかできないし、結局はその補完物になっていく言説にすぎない。本源的蓄積における収奪と奴隷化は資本主義の原罪=現罪で、たった今も貧困と従属は再生産され続けている。先進地帯の内側にさえ第三世界は存在します。その第三世界は地球温暖化なんか知ったことじゃない、飢えないための今日のパンをよこせと要求しているわけで、この難問を回避する限り、エコロジーと言っても地球市民の支配的富裕層による趣味の問題にすぎませんね。」(p.212)

 高橋源一郎は助けてくれない?

「国会前でいろいろ言ってるぶんには先生にもホメてもらえるけど、自分の大学で、〝安保法制反対〟のビラを仮に撒いたら、たぶん処分されますよね。で、処分されたとして、まず高橋源一郎が、学生側に立って当局と闘ってくれるとは思えない(笑)」(p.219)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/shueisha/trend/shueisha-92134


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『ショットとは何か』

2023-07-26 00:56:41 | Weblog

 ようやく蓮實重彦の『ショットとは何か』(講談社 2022.4.29)を読み終えて、ところでamazonのレビューではどのような評価をされているのか調べてみたところ、驚いたことに事実誤認があるとして批判されていたので、そのことを改めて検証してみようと思う。
 まず最初の批判として、蓮實の、アメリカの映画研究者デヴィッド・ボードウェルに対する批判が見当違いだとされている。

「著者はアメリカの映画研究者デヴィッド・ボードウェルの所説をきびしく批判していますが、そのすべてが、彼の主著 Classical Hollywood Cinema(1985年) や Narration in the Fiction Film(1985年) などをきちんと参照していれば絶対に出てこない批判ばかりです。ボードウェルらは、「180度ルール」のような古典的ハリウッド映画の映像技法が、アメリカ映画産業全体に結果として強くあらわれていると言っているにすぎなくて、著者が思い込んでいるように美学的規則が成立しているとは一言も述べていません。」

 本書で蓮實はボードウェルの『小津安二郎 : 映画の詩学(Ozu and the Poetics of Cinema)』(原著 1988 / 邦訳 1993)を引用している。

「古典的ハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した。これは、人物を向き合うように配置し、彼らの相互の関わり合いを示す様々なショットを、アクション軸の一方の側から撮ることを前提とした。」(p.209)

 その上で蓮實は自身の解釈を披露している。

「ちなみに、そこで『規則』と呼ばれているのは、原文では≪the rule≫の一語にあたっているのですから、一応『規則』という訳語は正しいといえるでしょう。しかし、著者はそれとは異なる場所では≪system≫(一八〇度のシステム)と書いており、そこでは若干のニュアンスの違いが見られます。『規則』なら、それに従わない場合はすべてが違反と見なされることになりますが、『システム』であるなら、それとは異なる『システム』を代置すればそれでよいということになるからです。」(p.210)と述べており、蓮實は「著者が思い込んでいるように美学的規則が成立している」とは一言も述べおらず、「しいていうなら、それはいわゆる『一八〇度の慣行』とでもいうにとどめておくべき語彙なのです。」(p.210)と断っているのだから、『「180度ルール」のような古典的ハリウッド映画の映像技法が、アメリカ映画産業全体に結果として強くあらわれている』と言っているらしいボードウェルと同意見なのである。

 蓮實が問題にしているのは「古典的ハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した。」と書いているボードウェルがどれほどの自信を持って書いているのかという点にある。本当に「神聖視していたの?」という話である。

 「ハリウッド映画の撮影・編集技術のほとんどをD・W・グリフィスが発明した」と蓮實が本書のどこで述べているのか確認できなかったのだが、「ショットという概念を映画に導入したのがグリフィスだと考えていいのでしょうか?」と問われた蓮實は以下のように述べている。

「それはいかにも微妙な問題です。確かに、グリフィスがショットを演出の基本概念として極度に洗練化したのは間違いありません。しかし、それ以前に、リュミエール兄弟の『シネマトグラフ』にもショットはまぎれもなく存在していたからです。」(p.133-p.134)
「グリフィスがクローズアップを巧みに画面にとりこんでいたのは確かな事実だとしても、『撮る』監督としての彼の真の偉大さは、ごく普通のショットをごく普通に撮って見せることにあったのだとわたくしは思っています。」(p.195)

 蓮實は決してグリフィスを「神聖視」してはいない。

 せっかくなので「ショットとは何か」という問いに対する蓮實の回答めいたものを引用しておきたい。

「例えば、『雨に唄えば』の驟雨の中のジーン・ケリーのソロなども、スキルの顕示といった側面が強く、それを映像的に表象しているだけといった印象が強い。それはパフォーマンスとして優れたものでありますが、それに対して映画の表象能力がかろうじて対抗しているといった気がしてならない。ところが、『バンド・ワゴン』のこのシーンには、その種のスキルの顕示といった曲芸性はまったく希薄で、しかも、往年のハリウッドのスターとこれから名声を得ようとしている若いバレリーナとが、初めて二人だけで歩調を合わせて踊るという、いわば身振りの一回性だけが持ちうる緊張感があたりにはりつめているのです。」(p.245)

 ジル・ドゥルーズの『シネマ1・2』を批判できる映画批評家も蓮實くらいであろう。評者は別に蓮實重彦の崇拝者ではなく、むしろボコボコに論破されている蓮實をいつかは見てみたいと心から願っているのだが、早くしないともうそんなに時間がないよ!
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/nikkangendai/entertainment/nikkangendai-932864


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『映画を追え』

2023-07-25 00:59:16 | Weblog

 当初本書の刊行は1990年末だったが、延びに延びて今年になって上梓され、直後に著者の山根貞夫が癌で亡くなったということはそういうことだったのだと思う。
 本書はフィルムコレクターに関する実話で、それ以外にもロシアの国立映画保存所ゴスフィルモフォンドの訪問記などバラエティーに富んでいるのだが、何と言っても生駒山麓の伝説のコレクターである阿部善重氏の話は秀逸で1990年の最初の出会いから2005年2月に阿部氏が亡くなってからその後、彼が所有していたフィルムの行方までのことが記されている。
 ところが不思議なことに阿部氏が所有していたと言っていたフィルムのほとんどが見つかっていないのである。終章で著者が2021年10月に阿部家のあった場所を訪れると、跡形もなく雑草が生い茂っていたらしい。自称「昭和の化け物屋敷」はまるで本物の化け物屋敷だったかのように消え去ったのである。(「生駒山麓を8年振りに訪れる」と書かれているが、18年振りの誤植だと思う。)
 著者の「神戸発掘映画祭 2021」の際の感想を引用してみる。

「『切られ興三』で喉の渇いた主人公が清水を飲む場面のように、映画のある部分、ある断片が、やはり一個の生き物としての輝きを放つことが十分にありうる。描写の優れた断片の力とでもいえようか。そんなことを神戸であらためて思い知らされた。」(p.286)

 本書は書籍版『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督 1988年)ではないだろうか。しかしこのような著書を物にする映画評論家は絶滅寸前であろう。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/entertainment/kyodo_nor-2023022201000839


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「All Things Must Pass」 George Harrison 和訳

2023-07-24 12:07:34 | 洋楽歌詞和訳

George Harrison - All Things Must Pass (2020 Mix / Audio) 

 ジョージ・ハリスンが1970年にリリースしたアルバム『オール・シングス・マスト・パス』

に収録されているアルバムタイトル曲を和訳してみたい。

「All Things Must Pass」 George Harrison 日本語訳

朝焼けが朝の間中続くことはない
土砂降りが一日中続くことはない
僕の愛は準備ができて
前兆なく君を置き去りにするように見える
いつもはこんな陰気な感じではないだろうけれど

全ては過ぎ去らざるを得ない
全ては遺物と化すしかないんだ

夕焼けが夕刻の間中続くことはない
その気になればあれらの雲を吹き飛ばすことはできる
結局、僕の愛は準備万端で去って行くに違いない
いつもはこんな陰気な感じではないだろうけれど

全ては過ぎ去らざるを得ない
全ては遺物と化すしかないんだ

全ては過ぎ去らざるを得ない
人生を織りなすどんな糸でさえ
いつまでも持ちこたえることはできないのだから
僕は自分の道に従って新たな日に対峙しなければならないんだ

今暗闇だけが夜間に留まっているけれど
朝になれば暗闇は消えて行く
日光は正しい時期に現れることを得意としている
いつもはこんな陰気な感じではないだろうけれど

全ては過ぎ去らざるを得ない
全ては遺物と化すしかないんだ
全ては過ぎ去らざるを得ない
全ては遺物と化すしかないんだ

Paul McCartney - All Things Must Pass (Live)


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