MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『シンデレラの罠』について

2023-09-12 00:59:37 | Weblog

 『シンデレラの罠(Piège pour Cendrillon)』(創元推理文庫 平岡敦訳 2012.2.29)はフランスの小説家であるセバスチアン・ジャプリゾ(Sébastien Japrisot)が1962年に上梓し、フランス推理小説大賞を獲得した作品である。
 訳者あとがきを読んで、本作の「オチ」に関していまだに議論が絶えないようで、ここでは私見を書いていこうと思うのでもちろんネタバレしていることをあらかじめ断っておきたい。
 本作で問題になっている箇所を訳者あとがきから引用してみる。

 それでは語り手の〈わたし〉は、ミとドのどちらだったのか? 結局、誰が誰を殺したのか? 「ジャンヌ・ミュルノによってくわだてられたドムニカ・ロイ殺しの共犯者として、懲役十年の刑を言い渡された」(二六六ページ)のだから、公式にはミのほうだとされているのは明らかだが、もちろんそれを鵜呑みにするわけにはいかない。もともと対外的には、生き残った娘は一貫してミだったのだし、遺言書は書き換えによってドを殺す動機がミにあったことも判明した。そして何よりも本人たちが認めている以上、司法当局にとって疑問の余地はなかったのだろうが、それはジャンヌと〈わたし〉のあいだであらかじめ取り決めていたことだった。(二五九ページ)。だから、〈わたし〉が本当はドだった可能性も残されている。
 けれども最後の最後になって、もうひとつの手がかりが示される。そう、オーデコロンの名前だ。記憶を回復した娘は、セルジュ・レッポがつけていたオーデコロンの名を知っていた。だとすれば、彼女はやはりミだったことになる。〈わたし〉がガレージでレッポと会ったとき、オーデコロンの名は告げられなかった(二四二ページ)。レッポからオーデコロンの名を聞く機会があったのは、ミのほうだけなのだから。そのように推理してみても、どこかしっくりこないものが残るのもまた事実だろう。ドはオーデコロンの名を知り得なかったからといって、ミが知っていたとは限らない。レッポがミにオーデコロンの名を教えたというのは、あくまで〈わたし〉の推測にすぎないのだ。もしかしたら、ミもまたオーデコロンの名を知らなかったかもしれない。《シンデレラの罠》というオーデコロンの名前自体が、実は虚構なのかも......(p.278-p.279)

 改めて簡単に説明すると、主人公で20歳のミシェル・イゾラ(=ミ、ミッキー)と幼馴染のドムニカ・ロイ(=ド)が一緒に過ごしていた別荘が火事になり、一人が亡くなり、もう一人は生き残ったものの誰だか判別できないほどの火傷を負い記憶も失っていたのである。この火災はドムニカと、ミの後見人のジャンヌ・ミュルノの計画的なものだったのであるが、この計画はミシェルも郵便局員のセルジュ・レッポを介して事前に知っていたということでややこしくなっているのである。

 読む上でのコツとして「わたしは殺したのです」の次の章は「わたしは殺してしまいました」の章というストーリーの流れで「p.212」から「p.236」へ飛ぶ。郵便局の係員の「フィレンツェにですか?」という発言が「p.180」と「p.227」に出てくるが、それぞれドムニカとミシェルの視点から同じシーンが描かれている。

 引用した通り、問題になっているのはオーデコロンである。最後の文章を引用してみる。

 警官にともなわれて法廷から出たとき、娘はもう落ち着きを取り戻したように見えた。娘は警官がアルジェリアで勤務していたことを言い当てた。彼が今使っている男性用オーデコロンが何かも言うことができた。娘はかつて、それを頭に振りかけている若者を知っていた。ある夏の夜、車のなかで、若者は彼女にオーデコロンの名前を教えた。センチメンタルで兵隊好みで、そのにおいと同じくらい胸が悪くなるような、《シンデレラの罠》という名前を。(p.266-p.267)

 この部分に対応するシーンを引用してみる。

 男はミッキーのほうに身を乗り出し、ダッシュボードの明かりで注意深くサインを確かめた。髪がぷんぷんにおうので、何をつけているのかとミッキーはたずねた。
「男性用のオーデコロンさ。アルジェリアでしか売っていない品でね。おれは向こうで兵役についてたんだ」(p.224-p.225)

 「男」とはセルジュ・レッポのことで、ミとドが火事に遭遇する前の会話であるが、次にミが火事に遭遇した後の会話を引用してみる。

 そのうえわたしには、胸が悪くなるようなオーデコロンのにおいが染みついていた。あの男が髪にたっぷりとふりかけていた安物のオーデコロン。ミッキーもそれに気づいていた。あんたのサインはとてもきれいだった、と彼は言った。おれはダッシュボードの光ですぐに確かめたんだ。そしたらあんたは、髪に何をつけているかたずねた。これはアルジェリアから取り寄せた特別な品なんだ。おれはあっちで兵役についていたからね。なあ、嘘じゃないだろ!
 おそらく彼はオーデコロンの名前も、ミッキーに教えたのだろう。けれどもさっきガレージのなかで、わたしには何も言わなかった ー それには名前がなかった。(p.242)

 「わたし」は自分自身がミかドか分からないくらいに記憶が混濁しているのであるが、最後に名前を思い出したということは「わたし」とはミだったと解釈するべきであろう。それならば何故オーデコロンの名前が「シンデレラの罠」だったのか? シンデレラという言葉が出てくる部分を引用してみる。

 ドは雑誌の写真で見る長い髪の王女様と同じく、二十歳になっていた。毎年クリスマスには、フィレンツェから手縫いの舞踏靴が届く。そのためだろうか、彼女は自分をシンデレラだと思っていた。(p.13)

 つまりここでシンデレラとはドを暗示させ、「シンデレラの罠(Piège pour Cendrillon)」とは「ドにとっての罠」という意味なのだから、罠にはまったのはドで、生存者はミと捉えることが自然であろう。つまり分かりやすく例えるならば、オーデコロンのにおいとはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の語り手にとってのマドレーヌの「戯画」と捉えるべきなのである。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/book_asahi/trend/book_asahi-14935913


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「アグネス論争」と幻想としての「アイドル」

2023-08-11 20:08:59 | Weblog

 かつて日本に「アグネス論争」というものが勃発した。1987年頃から約2年間続いたそうである。当事者である歌手のアグネス・チャンを中心に巻き起こった論争をコンパクトにまとめるのは容易ではないので、ここではアグネス・チャンと小説家の林真理子の議論を整理してみたいと思う。
 この議論が勃発する頃というのは1986年に日本において男女雇用機会均等法が施行されたことを忘れてはいけない。男女の不平等な労働のあり方について転換点だったのである。
 事の発端は1987年に、第一子を出産していたアグネス・チャンがその乳幼児を連れてテレビ番組の収録スタジオにやってきたことがマスコミに取り上げられたことである。当時の経緯をアグネス・チャンの著書『終わらない「アグネス論争」』(潮選書 2020.1.20)から引用してみる。

 「アグネス論争」は、私の「子連れ出勤」が発端となって、一九八七年に起きました。といっても、オフィスへの出勤ではなく、仕事先のテレビ局に赤ちゃんだった長男を連れて行ったことが問題視されたのです。
 これは当時、すごく誤解された点なのですが、子連れ出勤は私の個人的な事情から始まったことでした。「子連れ出勤が私のポリシー」というわけではなかったし、「働く女性の代表」のような顔をした覚えもありません。また、「女性たちよ、子連れ出勤しましょう」という運動を行ったわけでもないのです。
 「個人的な事情」とは、第一に、長男は初めての子どもで、私にとっては不慣れな育児だったこと。第二に、母乳育児だったため、子どもをそばに置いておきたかったこと。第三に、私の親や姉などはみな香港に住んでいたため、子育てに関して親たちを頼れなかったこと。
 そしてもう一つ、当時の私が十二本ものレギュラー、準レギュラー番組を抱えていて、長く育児休業しにくかったことが挙げられます。テレビ局側からは「できるだけ早く番組に復帰してほしい。局に赤ちゃんを連れてきてもいいから」と説得され、不安を感じながら復帰したのです。
 ですから、そのことが問題視されるとは思ってもみませんでした。ところが、私の子連れ出勤が新聞や雑誌などで紹介されると、少しずつ、反発・批判の声が現れ始めたのです。
 作家の林真理子さんやコラムニストの中野翠さんなどが急先鋒となって、「大人の世界に子どもを入れるな」「周囲の迷惑を考えていない」「プロとして甘えている」などという批判を浴びました。
 そうした言葉の一つひとつに、私は傷つきました。マスコミで報じられたことの中には誤解も少なくありません。私は一度だけ、「アグネス・バッシングなんかに負けない」という反論を雑誌に寄せ(『中央公論』八七年十月号)、その中で誤解については説明しました。(p.17-p.18)

 それ以降、批判派と擁護派が様々な立場から論陣をはって大論争に発展していったのだが、社会学者の上野千鶴子が『朝日新聞』の「論壇」の寄せた「働く母が失ってきたもの」(一九八八年五月十六日付)でとりあえず決着がついた形になったように令和の今なら見える。

 アグネスさんが世に示して見せたのは、「働く母親」の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れ歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に「ふつうの女たち」がせまられていることである。
 いったい男たちが「子連れ出勤」せずにすんでいるのは、だれのおかげであろうか。男たちも「働く父親」である。いったん父子家庭になれば、彼らもただちに女たちと同じ状況に追いこまれる。働く父親も働く母親も、あたかも子どもがないかのように職業人の顔でやりすごす。その背後で、子育てがタダではすまないことを、アグネスさんの「子連れ出勤」は目に見えるものにしてくれた。(p.19-p.20)

 全くの正論で、グーの音も出ないから日本の社会はこの方向で進んで行くはずだったのだが、保育所数が増えることはなく、まして付属の託児所を持つ企業などほんのごく一部であり、ついに2016年にはSNS上の「保育園落ちた日本死ね!!!」という投稿が話題となり、確実に日本の人口は減少しつつあるのが現状である。

 ということで「アグネス論争」はアグネス・チャンの圧勝ということになるのかと思ったらそうでもないということを今から書いてみようと思う。林真理子の「いい加減にしてよアグネス」は『余計なこと、大事なこと』というエッセイに収録されているので、検証してみようと思うのだが、林から見た当時の状況を林自身が『文藝春秋』(2022年6月号)で回顧しているので引用してみる。

 いったい何年前だろうとウィキペディアを開いたところ(全く便利な世の中になったものだ)一九八八年とある。今から三十四年前だ。
 タレントで歌手のアグネス・チャンさんは、あの頃ものすごい人気であった。憶えているのは、24時間テレビの司会をする彼女をグラビアでとりあげた『フォーカス』が、「善意の固まりみたいな」と表現していたことだ。驚いた。あの『フォーカス』がだ。そのくらいの存在だったということを知っていただきたい。
 そのアグネスが長男を生み、テレビ局や講演会に連れていくようになった。それを朝日新聞が誉めたたえる。私はげんなりした気分になったものだ。コラムニストの中野翠さんも同じ思いで、舌鋒鋭くあれこれ書いた。
 もし彼女が、
「迷惑なのはわかっている。だけど私はこの子と別れたくない。ずっと一緒にいたい」
 と言うのであれば、私はああ、そうですか、と引き下がったであろう。しかし彼女の、
「赤ん坊を連れていくと、仕事場がなごやかな気分になるって皆に喜ばれます」
 という文章を読んだ時、かなり強い反ぱつが生まれた。こういう鈍感さにかなうものは何もない、と私は思う。当時私は結婚もしていなかったし子どももいなかったが、赤ん坊を持つ母親の独特の価値観がやりきれなかった。
 私の可愛い赤ん坊は、誰にとっても可愛いはず。どこに連れていっても喜ばれるはず。
 アグネスさんには、マネージャーだの付き人だのが常時数人つき添っていたという。その中の一人に、うちでベビーシッターを頼めばいいではないかと思うのは私だけではないようで、週刊誌でも意地悪な記事が出始めていた。そして私の『文藝春秋』における「いい加減にしてよアグネス」になるわけだ。
 この長文を出した当時は、世間からは「よく言ってくれた」という反応が多かったと記憶している。そこへ上野千鶴子さんの、朝日新聞での反論となるわけだ。
「『働く母親』の背後には子どもがいる」
「女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった」
 これに世論の針が大きく傾く。
 そして論争の火蓋が切られたわけだ。(p.290-p.291)

 この文章に付け加えておきたい文章を引用しておく。

 さて、国会でも話題になった「中央公論の記事」というのは、昨年六月に行われた彼女の講演料に端を発する。この時、『フォーカス』と『週刊朝日』が、彼女の講演料が百七十万円という高額であること、子どもにベビーシッターを含め六人連れでやってくることなどをすっぱぬいたのである。その後の彼女の強い抗議によって「百七十万円は百万円」「六人はいつもは四人」と訂正されたのであるが、それにしてもかなりの優遇である。これほどまでに恵まれている女性が、どうして全国の働く女性の苦悩を一身に背負ったようにふるまうのか、どうしても合点がいかぬと『週刊文春』に私は書いた。(『余計なこと、大事なこと』文藝春秋 p.17)

 林は「いい加減にしてよアグネス」の最後を以下の引用で締めくくっている。

 最後に締めくくりを、曾野綾子さんのこの文章でさせていただきたい。いまから二年ちょっと前、アグネスはエチオピアの難民キャンプを訪ねた(注:24時間テレビの取材)。その時見たものを、彼女はまた例の調子で書いたわけだ。
「私が出会った人はみんな礼儀正しかった。いい人たちばかりだった。無表情で感謝の心がないと書いた曾野綾子さんは、いったい何を見てきたんですか」
 曾野さんの文章から、
「私が外国の紀行文を書く時のルールは、たった一つです。それは、ある日、私がそこにいた時、こうだった、と書くだけです。それがその国の普遍的な状況だという言い方は、私はしないことにしています。私は学者ではないので、普遍化ができないのです。しかし私は、自分の目に映ったことを、あなたから違うと言われると『ああそうですね、違っていました』と言うわけにもいきません。あなたは私の書いたものが、自分の見聞きしたものと違う、と非難しておいでですが、私は違う方が当然だと思います。僅かな時の差、運命に似て出会う人々が違うこと、それを見る人の心や眼や、それらすべてが違うのですから、見えるものが違うのも当然でしょう。(中略)しかし『どこそこの人は皆いい人です』という式の言い分は、あなたがおっしゃる分には少しもかまわないのですが、大人は少し困ります。なぜなら、そういうことはこの世にないからです」(『余計なこと、大事なこと』 p.30-p.31)

 以上のことを踏まえた上で、冒頭で引用したアグネス・チャンの言い分を改めて検証してみるならば、少々首をかしげたくなる部分が散見される。例えば、テレビ局側から「できるだけ早く番組に復帰してほしい。局に赤ちゃんを連れてきてもいいから」と説得されたと書いているが、急に12本のレギュラー番組を休まれても困るから内心嫌々ながらでもアグネスの機嫌を取って出演を要請するのがテレビ局の立場であろう。どうもそこがアグネスには分かっていないように見える。
 あるいは「私の親や姉などはみな香港に住んでいたため、子育てに関して親たちを頼れなかった」と書いているが、ところで夫の親には頼れなかったのだろうかとも思う。
 そもそもアグネス・チャンが「子連れ出勤が私のポリシー」で「働く女性の代表」で「女性たちよ、子連れ出勤しましょう」という社会運動家であったのならばこのような不毛な論争にはならず、まだ景気は良かったからもしかしたら今の日本の人口は増えていたかもしれないのだが、アグネス・チャンは香港出身のイギリス人だから日本に対してそのような義理はないのである。

 ここからは私見なのだが、アグネス・チャンは1987年3月31日をもって大手芸能プロダクションの渡辺プロダクションから独立して個人事務所「トマス・アンド・アグネス」を設立している。ちょうど「アグネス論争」が勃発した頃なのである。つまりアグネス・チャンは仕事を失うことを恐れて休めなかったという可能性は高いと思う。どのような経緯で事務所を辞めたのかは分からない。円満退社だったのかタレントとマネージャーがつるんで退社したのか。しかし個人事務所の社員が新規に募集した人たちだらけだったとしたら自分の子どもを任せられなかったと思うのである。

 しかしアグネス・チャンは林が既に指摘しているように、そのようなネガティブな発言は決してしないし、それは個人事務所「トマス・アンド・アグネス」がかつて怪しい健康食品を売っていて、批判されるとアグネス本人が自信を持って体に良いものだと喧伝していながら、薬事法に抵触することを知ると販売中止にしてしまった経緯を見てもアグネスは職業病かもしれないが自分の「負」の部分を決して明かそうとしない。「アグネス論争」とは「事実」を明らかにしない人(つまりアイドル)をどこまで信用できるのかという問題だったのだと思う。いまではガチのアイドルおたく界隈に事情をよく知らない人たちが介入してしか起こらないような議論を当時は日本人がこぞってやっていたのである。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/dot/nation/dot-198398


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『夫のちんぽが入らない』は実話なのか?

2023-07-29 20:30:37 | Weblog

 今頃になってこだまのデビュー作『夫のちんぽが入らない』を読んでみた。「普通」にできない、「当たり前」に生きていけない人たちへのエールという捉え方に文句を言うつもりはなく、実際に同様な苦悩を抱えている人たちには励みとなる作品ではあるのだろうが、読み終えた今でも個人的には「これは本当の話なのだろうか?」という疑問を拭えないでいる。
 確かに文章は上手いし、深刻な私小説というだけでなく、エンタメ小説として読んでも面白いとは思うのだが、例えば、夫との実際の性交渉の場面を引用してみると、

「昨夜と同じ振動が始まった。強く、強く押されている。ぶつかっている。
『うーん、これより先に進まない』
『今どれくらい入っていますか』
『入っていない。当たっているだけ』
『当たって、いるだけ』」(p.43-p.44)

 ジョンソンベビーオイルを使えば半分くらいは入るようなのだが、痛みと出血が伴うらしい。

 精神分析学的には著者と母親の関係によって、愛すべき人間に非道な仕打ちを犯してしまうというコンプレックスが考えられるものの、もしも夫のちんぽだけが入らないというのであるならば、相手によって拒絶できる可能性を秘めた女性の膣において既にこの世に強姦は存在しないはずなのである。強姦されそうになれば入れないように閉めればいいのだから。

 これは決して本作を揶揄したり茶化したりする意図で書くのではないが、膣がダメならば肛門という手立てもなくはない。最初は痛いだろうが、慣れれば快感も芽生えてくるであろうし、もしも子供が欲しければ、人工授精という手段もある。つまり究極を突き詰めていくならば、結果的に「普通」に見えてくることはあるのである。

 夫の指なら入るのだろうかと様々な疑問が湧いてきて、とにかく本作だけでは納得できなかったということだけは記しておきたい。


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『街とその不確かな壁』と学生運動

2023-07-28 00:53:22 | Weblog

 ところで『対論 1968』で一番おどろいたのは村上春樹に関する部分だった。

「いずれにせよ村上春樹の小説は、そのつもりで読み直してみると腑に落ちるところがある。これまでの作品でほとんど唯一、単行本化されていない『街と、その不確かな壁』(『文學界』1980年9月号)という中編があって、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)の習作みたいなものなんだけど、たしかに本人も言っているように失敗作ではあるんです。しかしおそらくは、川口事件(川口大三郎事件、早稲田大学構内リンチ殺人事件)を引き起こすような早稲田の環境というものを、壁に囲まれてほとんど死んだようになっている〝壁〟に仮託して書いてるんじゃないか......というふうに読めるんだよね。あくまでも〝読める〟というにすぎませんが、『海辺のカフカ』では明確に川口事件について書いてるんだしさ。」(p.171)
「革マル派は一方で大学当局との交渉の回路を持ちつつ、革マル派以外の学生たちをムーゼルマンのように、何もできない、死者のような存在と化させるような形で支配している。」(p.173)

 ここで「そのつもりで読み直す」というのは〝革マル派批判〟的観点から読み直すという意味である。そういう読み方があるということは分かったが、試そうとは思わない。「当事者」じゃないから。

「これはもうダメだと思ったのは、竹田(青嗣)がちくま新書の『人間の未来』(2009年)で、『最悪の専制権力でもアナーキーよりましだ』と書いた時かな。もしも早稲田にまたバリケードが築かれたら、『全共闘のアナーキーより機動隊の秩序のほうがましだ』とか教授会で言うんだろう、もう向こうの側の人なんだと見切ったね。」(p.168)
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/nikkansports/nation/f-so-tp0-230418-202304180001406


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『対論 1968』

2023-07-27 00:59:12 | Weblog

 1968年頃の日本の学生運動に関してちょっと興味があり新書ということもあって、本書を手に取ってみたのであるが、「専門用語」だらけで何がなんだかよく分からない。巻末には「新左翼党派の系統図」が載せてあるものの、アニメにでもしてもらわないと覚えられないが、ここでは印象に残った話題を書き留めておきたい。

 日本の学生運動とは「自分探し」だったのか?

「つまり〝生きずらさ〟と言っても、別に〝差別されて辛い〟とか〝ブラック労働で辛い〟ということではなく、むしろそういう具体的な根拠を欠いた、抽象的でスカスカした、手応えのない辛さ......それを〝辛い〟と表現すること自体が正確なのかどうかという、そうした息苦しさ。これは対象化としての〝疎外〟ではないんだよ。何か〝正しい私〟あるいは〝本来あるべき私〟があって、それは現在の私のありようとは違っており、だからその〝本来の私〟を取り戻そう、回復しようというのが、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス的な自己対象化論としての疎外論だね。/しかし問題なのは〝疎外感〟であって〝疎外論〟ではない。」(p.71)

 ゲーデル的であれ郵便的であれ、脱構築と否定神学を対立させる東浩紀の発想がそもそもトンチンカン?

「〝メシアなきメシアニズム〟(ジャック・デリダ)
 〝神は存在しないと思いながら祈らなければならない〟(シモ―ヌ・ヴェイユ)」(p.76)

 岡本太郎は原発礼賛派?

「花田清輝あるいは武井昭夫さんの周辺にいた人たちの多くは、今でも岡本太郎をいいと思っているし、まして世間一般はそうでしょう。しかし『太陽の塔』って、あれは原発のことですよ(笑)。原発のシンボルなんです。日本初の商用原子炉である福井県の敦賀原発が稼働を始めて、その最初の電気を万博の開会式に送電するっていうイベントなんだからさ。」(p.78-p.79)

 〝転向論〟は日本にしかない?

「ヨーロッパ人ならば、コミュニズムが正しいのかファシズムが正しいのか、というのが重要な問題なのであって、〝立場を変えた〟こと自体は思想的主題にはなりませんよ。仮にファシズムが正しいんなら、むしろ立場を変える〝べき〟であって、逆にコミュニズムの方が正しいのであれば、立場を変える〝べき〟ではなかったということになる。それだけのことです。〝転向〟自体が問題だという思考は、ヨーロッパ人にはありません。例えば、ポール・ニザンが独ソ不可侵条約に激怒して共産党を脱党したことについて、〝裏切り者め!〟という話になることはあっても、〝なぜ彼は転向しえたのか?〟みたいな〝転向論〟の議論は起きない。〝なぜ〟って、〝独ソ不可侵条約に激怒したから〟でしょう(笑)/どういうわけで、日本にだけ〝転向論〟が生まれたのか? あの時代、思想転向そのものが日本に固有の現象だったからですね。ポール・ニザンの脱党は、権力の強制による思考転換という意味での転向ではない。」(p.129)

 上野千鶴子のフェミニズム

「80年代のフェミニズムというのは、上野千鶴子を典型として、最近だと〝リーン・イン・フェミニズム〟と呼ばれるような、つまりアッパー・クラスのインテリの、〝男と同等になるべきだ〟、それも要は社会の枢要な地位に就くことを可能にすべきだという、上層階級内部での〝不平等〟を問題にしてきた。これはいたしかたない面があるにせよ、全共闘を批判するとすれば、上野千鶴子のような〝リーン・イン・フェミニズム〟を大量に生み出したことをこそ批判するべきなんだ。」(p.143)
「そもそも特権的な立場の女が、〝ガラスの天井〟を突破しても、その恩恵が非正規・不安定層までトリクルダウンするなんてことはない。階級上昇にチャレンジしうる立場の女を主とするような、そんなフェミニズムではダメだということです。」(p.144)
「上野千鶴子みたいなフェミニストには、男であれ女であれ〝非正規〟労働者の存在が視野に入っていないし、そういう人たちは〝問題外〟として端的に排除されてしまう。それが最終的には、移民を排除して、かつての帝国主義本国の遺産を本国人だけで分配したいという排外主義に帰結していく。実際、上野千鶴子は、〝リーン・イン・フェミニスト〟の路線を純化して、〝排外フェミニズム〟へと見事な転換を遂げて、『移民を入れるな』と言い出したわけです。」(p.149-p.150)

 内ゲバの原因?

「表面的には、西欧と日本の状況はパラレルだったとも見えます。しかし決定的に違っていたのは、フランスやイタリアでは、親世代の共産主義者たちがファシズム体制への武装抵抗をやっていたこと。アルジェリアやベトナムのようにパルチザン戦争で侵略者を叩き出したわけではなく、アメリカ主導の連合軍の力で勝ったにすぎないとしても、それでも武器を取って闘ったという事実は決定的だった。政治的な威信や民衆からの支持は急速に拡大し、戦争直後のフランス共産党やイタリア共産党には、政権を獲得しかねないほどの勢いがあった。」(p.175-p.176)
「ところがユーロコミュニズムの本場では、新左翼の若者がいくら口先で威勢のいいことを言おうと、銃を持ってファシストと戦っていた親たちに鼻の先であしらわれてしまう(笑)。〝行動の急進性〟を競ってもかなわないんです。だから戦術問題として武装闘争の有効性を主張するとしても、暴力が活動家の存在理由になってしまうような傾向は希薄だった。その点、日本の新左翼は、戦後憲法の〝平和主義〟の問題と相俟って、〝戦争〟というものから疎外されていたんだね。だからこそ逆に〝戦争〟に向けて疎外されていく。」(p.177)

 フリーダムとリバティ

「では、〝68年〟以降の世界はどうなったか? 〝平等〟の要求が〝自由〟の要求に反転したわけだ。(中略)〝68年〟世代のある部分がネオリベ化していったことにも根拠はある。〝平等〟の要求が達成された結果としての抑圧的な社会への叛乱は、それを裏返した〝自由〟の要求を広範に生じさせた。/ところが日本語では同じ『自由』でも、〝68年〟のフリーダム要求がリバティにすり替えられてネオリベラリズムが支配的になっていく。」(p.182)

 呉智英は吉本主義者?

「呉智英の〝反・反差別〟って要は津村喬批判でしょう。吉本も津村の反差別論を『ナンセンスだ』と批判してきた。呉智英というより、そのバックボーンの吉本が、反差別論をすべて無効だと言いたてるようなネトウヨ的言説の源流だと思う。」(p.195-p.196)
「だけど呉智英も、笠井が言うように、小林よしのりや排外主義に流れていくんだよ。大月隆寛も〝新しい歴史教科書をつくる会〟に参加してたしさ。」(p.197)

 何かとマルクス頼み?

「斉藤幸平が言ってるのも、ブルジョア主義のエコロジーは不徹底なので、マルクスに即してもっとちゃんとやりましょう、という程度のこと。しかし支配層がやる以上のことなんかできないし、結局はその補完物になっていく言説にすぎない。本源的蓄積における収奪と奴隷化は資本主義の原罪=現罪で、たった今も貧困と従属は再生産され続けている。先進地帯の内側にさえ第三世界は存在します。その第三世界は地球温暖化なんか知ったことじゃない、飢えないための今日のパンをよこせと要求しているわけで、この難問を回避する限り、エコロジーと言っても地球市民の支配的富裕層による趣味の問題にすぎませんね。」(p.212)

 高橋源一郎は助けてくれない?

「国会前でいろいろ言ってるぶんには先生にもホメてもらえるけど、自分の大学で、〝安保法制反対〟のビラを仮に撒いたら、たぶん処分されますよね。で、処分されたとして、まず高橋源一郎が、学生側に立って当局と闘ってくれるとは思えない(笑)」(p.219)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/shueisha/trend/shueisha-92134


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『ショットとは何か』

2023-07-26 00:56:41 | Weblog

 ようやく蓮實重彦の『ショットとは何か』(講談社 2022.4.29)を読み終えて、ところでamazonのレビューではどのような評価をされているのか調べてみたところ、驚いたことに事実誤認があるとして批判されていたので、そのことを改めて検証してみようと思う。
 まず最初の批判として、蓮實の、アメリカの映画研究者デヴィッド・ボードウェルに対する批判が見当違いだとされている。

「著者はアメリカの映画研究者デヴィッド・ボードウェルの所説をきびしく批判していますが、そのすべてが、彼の主著 Classical Hollywood Cinema(1985年) や Narration in the Fiction Film(1985年) などをきちんと参照していれば絶対に出てこない批判ばかりです。ボードウェルらは、「180度ルール」のような古典的ハリウッド映画の映像技法が、アメリカ映画産業全体に結果として強くあらわれていると言っているにすぎなくて、著者が思い込んでいるように美学的規則が成立しているとは一言も述べていません。」

 本書で蓮實はボードウェルの『小津安二郎 : 映画の詩学(Ozu and the Poetics of Cinema)』(原著 1988 / 邦訳 1993)を引用している。

「古典的ハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した。これは、人物を向き合うように配置し、彼らの相互の関わり合いを示す様々なショットを、アクション軸の一方の側から撮ることを前提とした。」(p.209)

 その上で蓮實は自身の解釈を披露している。

「ちなみに、そこで『規則』と呼ばれているのは、原文では≪the rule≫の一語にあたっているのですから、一応『規則』という訳語は正しいといえるでしょう。しかし、著者はそれとは異なる場所では≪system≫(一八〇度のシステム)と書いており、そこでは若干のニュアンスの違いが見られます。『規則』なら、それに従わない場合はすべてが違反と見なされることになりますが、『システム』であるなら、それとは異なる『システム』を代置すればそれでよいということになるからです。」(p.210)と述べており、蓮實は「著者が思い込んでいるように美学的規則が成立している」とは一言も述べおらず、「しいていうなら、それはいわゆる『一八〇度の慣行』とでもいうにとどめておくべき語彙なのです。」(p.210)と断っているのだから、『「180度ルール」のような古典的ハリウッド映画の映像技法が、アメリカ映画産業全体に結果として強くあらわれている』と言っているらしいボードウェルと同意見なのである。

 蓮實が問題にしているのは「古典的ハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した。」と書いているボードウェルがどれほどの自信を持って書いているのかという点にある。本当に「神聖視していたの?」という話である。

 「ハリウッド映画の撮影・編集技術のほとんどをD・W・グリフィスが発明した」と蓮實が本書のどこで述べているのか確認できなかったのだが、「ショットという概念を映画に導入したのがグリフィスだと考えていいのでしょうか?」と問われた蓮實は以下のように述べている。

「それはいかにも微妙な問題です。確かに、グリフィスがショットを演出の基本概念として極度に洗練化したのは間違いありません。しかし、それ以前に、リュミエール兄弟の『シネマトグラフ』にもショットはまぎれもなく存在していたからです。」(p.133-p.134)
「グリフィスがクローズアップを巧みに画面にとりこんでいたのは確かな事実だとしても、『撮る』監督としての彼の真の偉大さは、ごく普通のショットをごく普通に撮って見せることにあったのだとわたくしは思っています。」(p.195)

 蓮實は決してグリフィスを「神聖視」してはいない。

 せっかくなので「ショットとは何か」という問いに対する蓮實の回答めいたものを引用しておきたい。

「例えば、『雨に唄えば』の驟雨の中のジーン・ケリーのソロなども、スキルの顕示といった側面が強く、それを映像的に表象しているだけといった印象が強い。それはパフォーマンスとして優れたものでありますが、それに対して映画の表象能力がかろうじて対抗しているといった気がしてならない。ところが、『バンド・ワゴン』のこのシーンには、その種のスキルの顕示といった曲芸性はまったく希薄で、しかも、往年のハリウッドのスターとこれから名声を得ようとしている若いバレリーナとが、初めて二人だけで歩調を合わせて踊るという、いわば身振りの一回性だけが持ちうる緊張感があたりにはりつめているのです。」(p.245)

 ジル・ドゥルーズの『シネマ1・2』を批判できる映画批評家も蓮實くらいであろう。評者は別に蓮實重彦の崇拝者ではなく、むしろボコボコに論破されている蓮實をいつかは見てみたいと心から願っているのだが、早くしないともうそんなに時間がないよ!
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https://news.goo.ne.jp/article/nikkangendai/entertainment/nikkangendai-932864


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『映画を追え』

2023-07-25 00:59:16 | Weblog

 当初本書の刊行は1990年末だったが、延びに延びて今年になって上梓され、直後に著者の山根貞夫が癌で亡くなったということはそういうことだったのだと思う。
 本書はフィルムコレクターに関する実話で、それ以外にもロシアの国立映画保存所ゴスフィルモフォンドの訪問記などバラエティーに富んでいるのだが、何と言っても生駒山麓の伝説のコレクターである阿部善重氏の話は秀逸で1990年の最初の出会いから2005年2月に阿部氏が亡くなってからその後、彼が所有していたフィルムの行方までのことが記されている。
 ところが不思議なことに阿部氏が所有していたと言っていたフィルムのほとんどが見つかっていないのである。終章で著者が2021年10月に阿部家のあった場所を訪れると、跡形もなく雑草が生い茂っていたらしい。自称「昭和の化け物屋敷」はまるで本物の化け物屋敷だったかのように消え去ったのである。(「生駒山麓を8年振りに訪れる」と書かれているが、18年振りの誤植だと思う。)
 著者の「神戸発掘映画祭 2021」の際の感想を引用してみる。

「『切られ興三』で喉の渇いた主人公が清水を飲む場面のように、映画のある部分、ある断片が、やはり一個の生き物としての輝きを放つことが十分にありうる。描写の優れた断片の力とでもいえようか。そんなことを神戸であらためて思い知らされた。」(p.286)

 本書は書籍版『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督 1988年)ではないだろうか。しかしこのような著書を物にする映画評論家は絶滅寸前であろう。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/entertainment/kyodo_nor-2023022201000839


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大江健三郎と村上春樹の関係について

2023-06-27 00:56:56 | Weblog

 『大江健三郎の「義」』(尾崎真理子著 講談社 2022.10.18)には驚いた。大江健三郎の小説は平田篤胤と柳田国男と島崎藤村に多大に影響を受けているというのである。全く気がつかなかった、というか平田篤胤と柳田国男など全く読んでいないのだから仕方がないのだが、今まで大江作品の何を読んできたのかという思いしか残らない。しかし例えば「昭和五十四年の長編『同時代ゲーム』は肯定と否定を含めてさまざまに評価されながらもその真価が認められることはほとんどなかった。一方で十万部を越すという文学作品としては稀な『実力』を示しながらもこの文学史に残るべき傑作は日本の文学風土からかけ離れていたため、伝統とのつながりを見出すことのできなかった人びとによって誤解され、それはこの作品にとって名誉なことであったかもしれないが、あいにくそれらの誤解が文学の衰弱に拍車をかけた。」(「新しい自己照射の試み」 筒井康隆『文學界』1986年3月 『ダンヌンツィオに夢中』収録)という文章も残っているように、当時は誰も大江の小説と平田、柳田、藤村との関係を見出していないようなのである。

 ところでやはり気になるのは大江健三郎と村上春樹の作風の違いなのだが、例えば、尾崎は大江作品を以下のように端的に説明している。

「大江は、篤胤の幽冥思想や柳田の固有信仰と、ダンテ、ブレイク、イェーツ......選び抜いた西欧文学の巨人にして神秘主義者たちがそれぞれの作品の中に描き残した霊魂の世界とを、それがキリスト教の信仰に基づくものであるにしろ、何とか地続きの、人類共通の死生観としてつないでみることを試みた。それが大江の言っていた『魂のこと』という仕事であり、これこそ独創的な、『想像力の組み替え』ではなかっただろうか。」(p.268-p.269)

 尾崎は村上春樹の作品に関しても以下のように説明している。

「『懐かしい年への手紙』と同じ一九八七年に発表された村上春樹の『ノルウェイの森』、吉本ばななの『キッチン』は、今を生きる自分と仲間だけで完結する物語で、登場人物たちは都市伝説はリアルに語っても、先祖どころか親からも、職場や学校といった集団からも切れ、ましてや国への帰属意識など持つはずもなく街を漂っていた。その疎外感、所在なさが欧米でも共感を得て、途方もない部数が刷られ続けた。」(p.113-p.114)

 個人的に思うことは、晩年の大江の小説の主人公の名前が「長江古義人」とあるように、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我在り)」(p.236)を引くまでもなく、大江が描写する登場人物は自分の存在そのものは疑っていないが、村上が描写する登場人物は「井戸=イド(id)」という自我そのものにこだわっているところである。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/entertainment/kyodo_nor-2023031301000617


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文学としての「透明人間」

2023-06-26 00:57:56 | Weblog

 江戸川乱歩はG・K・チェスタトンの短編集『ブラウン神父の童心/ブラウン神父の無心(The Innocence of Father Brown)』に収録されている「透明人間(The Invisible Man)」(1911年)に関して「おそらくポーのこの作品(「盗まれた手紙」)から着想を得たのだろう」としているが、チェスタトンの「透明人間」は、アーサー・コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」(1892年)やモーリス・ルブランの『金三角(Le triangle d'or)』(1917年)とはレベルが違うと思う。それはチェスタトンの「透明人間」はH・G・ウェルズの『透明人間』(1897年)とはレベルが違うという意味でもある。
 ドイルやルブランやウェルズは場面を「再現」することでストーリーを紡いでいるのだが、チェスタトンは叙述トリックを駆使し、敢えて書かないことで人物を「透明」にしており、これは修辞技法によるものだからである。
 「透明人間」に限らず、「サラディン公の罪(The Sins Of Prince Saradine)」においても叙述トリックが使われていると言ってもいいように思う。例えば、「アントネッリの眠そうな鳶色の目は、アントニー夫人の眠そうな鳶色の目であり、神父にはたちまちにして事情が半分見えて来たのである。」(『ブラウン神父の無心』 ちくま文庫 p.239)と、サラディン公爵の女中頭と、突然船に乗って6人の従者たちと現れた赤いチョッキを着た褐色の顔の若者との血縁関係を見破っておきながら、サラディン公爵本人に関する詳細は最後まで明かさない著述の仕方も「後出しじゃんけん」であろう。

 以上の観点から三人の作風を一言で表しておくと

  モーリス・ルブラン ー エンタメ
  コナン・ドイル   ー 私小説
  G・K・チェスタトン  ー 文学

 似たような作品として筒井康隆の『ロートレック荘事件』(1990年)を挙げておきたい。
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https://news.goo.ne.jp/article/rodo/nation/rodo-143220


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アーサー・コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞」

2023-06-25 00:58:47 | Weblog

 モーリス・ルブランの『金三角(Le triangle d'or)』(1917年)は本文でも言及されているように、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙(The Purloined Letter)』(1845年)に着想を得て書かれたものであるが、アーサー・コナン・ドイルの『ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)』(1891年)は探しているものが手紙か写真かの違いだけで、ストーリーはほぼ『盗まれた手紙』をなぞっていると言っても過言ではないほどである。
 ウィキペディア日本語版の「盗まれた手紙」に拠れば、江戸川乱歩は『ボヘミアの醜聞』に関して「これはほとんど『盗まれた手紙』を模して書かれたもので、しかし面白さにおいても文学的価値においても『格段の違いがあり、模して及ばざるのはなはだしきものであろう』」と評しているらしい。確かに乱歩の言う通りではあろうが、『盗まれた手紙』の理屈っぽさに比べるならば、『ボヘミアの醜聞』は読みやすいという点は評価しても良いと思う。
 ところで驚いたのは訳者あとがきで、簡単に要点を書くならば、ドイルの父親のチャールズ・アルタモント・ドイルはエディンバラ市に勤める設計技師であり日曜画家だったが、アルコール依存症を患い、1879年に精神病に入院し、1893年に退院することなく亡くなっている。一方で、母親のメアリは、1875年からドイル家に下宿していたドイルの6歳年上の先輩医師であるブライアン・チャールズ・ウォ―ラーと恋愛関係になったらしい。1882年に、ウォ―ラーが故郷のマッソンギル村に戻ると、後を追うようにメアリとドイルの3人の妹たちがウォ―ラーの家の隣に引っ越して1917年まで暮らしたということなのだが、ドイルとしては納得できる話ではなかったようで、その複雑な私生活が小説に反映されており、つまり「シャーロック・ホームズ」シリーズはドイルの「私小説」として読める可能性があるというのである。

 「ドイルにとっては非常に大切なはずの第一作の表題が『ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)』というのも気になる。ドイルの頭のなかには、いつも母のスキャンダルのことが渦巻いていたのかもしれない。『スキャンダルが公になることは大変だ』と言ってびくびくしていたのは、作中の人物ボヘミア王ではなく、実は著者ドイルだったのである。」(『シャーロック・ホームズの冒険』 アーサー・コナン・ドイル著 小林司/東山あかね訳 河出文庫 2014.3.20 p.727)

 としか『ボヘミアの醜聞』に関しては書かれていないが、単純にドイル本人をシャーロック・ホームズ、父親をボヘミア王、母親をアイリーン・アドラー(いわゆる「あの女(The woman)」)、ウォ―ラーをアイリーンの結婚相手のゴドフリー・ノートンとして捉えるならば、辻褄が合う話ではないだろうか。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/book_asahi/trend/book_asahi-14872537


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