パーフェクト・ワールド
1993年/アメリカ
2つの弾丸
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100点
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この作品を「脱獄犯と人質の少年との交流、そして男を追う警察署長の苦悩を描いた犯罪ドラマ」として観てしまうとこの作品の良さは理解できないと思う。何故ならこの作品は明らかにロード・ムービーだからだ。
脱獄犯ブッチ・へインズがフィリップの家へ押し入り、フィリップに拳銃を持たせて自分に銃口を向けさせて「手を上げろ」と言わせた時、ブッチは「パーフェクト」と言う。
そしてそれは世話になった黒人の家の中で現実となりブッチは撃たれてしまう。ただの脅し(threat)を現実(fact)に出来るまでのフィリップの心の成長が皮肉を込めて描かれる。
ここではこのように‘息子’の心の成長だけではなく‘娘’の心の成長も同時に描かれている。
レッド・ガーネット署長はサリー・ガーバーという犯罪学者と車に乗ってブッチを追いかける。勉強の成果を駆使するサリーはしばしばレッドと意見が衝突する。しかしレッドの判断が正しかったにもかかわらず、ブッチが銃殺されてしまったことに衝撃を受け、理論(theory)を凌駕する現実(fact)を学ぶことになる。
この作品が感動的なのはこの2人の心の成長に多大な貢献をしたのが、偉人でも尊敬されている人間でもない、むしろ社会的には軽蔑され愛されることのないただ一人の脱獄犯の無残な死であるということなのだ。
ベニスに死す ニュープリント版
1971年/イタリア=フランス
「ベニス」の意味
総合
100点
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ミュンヘンに住む初老の作曲家グスタフ・アシェンバッハは病気療養のためヴェネチアのリド島へ行く。彼は幼い娘と死に別れ、新曲は観客たちの酷評を受けたりと精神的にも疲れ切っていた。彼は現実が堕落をもたらし、自分の音楽で英知や真理や人間的尊厳を創造しようと考えていたが、彼の友人のアルフレッドは天才は天から与えられた狂気であり、自然が贈った罪深いひらめきなのだから、邪悪は必要だと説く。気を紛らすために売春宿に行ったが、邪悪さに嫌悪を感じている彼は結局何も出来なかった。
グスタフは同じ頃バカンスでヴェネチアに家族と一緒に来ていた美少年のフランス人タージオ・モールズを見て、そのあまりの美しさに魅せられてしまう。グスタフはヴェネチアにアジアコレラが流行っていることを知り、ミュンヘンに帰ろうとしたがタージオを忘れることが出来ず、リド島に戻ってしまう。恋愛に目覚めたグスタフはタージオと対面してもおかしくない様に髪を黒く染めて、口紅やファンデーション、アイシャドーを塗り、タージオの後を追いかけるが結局一言も声をかけられないでいた。タージオと関係を持つことは美を汚すことになるからだ。グスタフにとってタージオはまさに彼が創造したかった真理や美だったが、追いかけても声をかけられなかったということは結局人間には真理や美は手の届かないものであり、それを人間が手にした瞬間に真理や美でなくなってしまうということなのだ。
ラストシーンで、黒い染料で汚れるグスタフの美しく化粧を施された顔と、コレラに侵されるベニス(=ヴィーナス、美と愛の女神)が重なり合い涙を誘う。グスタフは‘美’に死ぬのだ。
グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち
1997年/アメリカ
「Good Will Hunting」とは?
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100点
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「ウィル・ハンティング」をただ主人公の名前だと思ってこの作品を観賞したとしても、親の虐待で心を閉ざした天才青年が周囲にいる人々の理解でもって心を開いていくまでの物語として楽しむことは出来るのだが、敢えて視点を変えることで‘別の物語’も見えてくるのではないのか。
「グッド・ウィル・ハンティング」を字義通りに解釈すると、「良い(=Good)意志(=Will)探し(=Hunting)」となり、これは主人公ウィルだけのことではなく、ウィルの才能を見出したランボー教授や、ウィルのカウンセリングを担当したショーン・マクガイアにも当てはまることになる。つまりお互いが関わりあう中で自分にとっての「良い意志」とは何なのかをそれぞれが探していることになるのだ。そしてこの「良い意志探し」は彼らにとって誰でもいいわけではない。例えばウィルはショーンに出会うまでに2人のセラピストにカウンセリングを受けるのだが、彼らとは反りが合わない。彼らのカウンセリングは型通りのまま、つまり「本から得た知識」のままで、内から湧き出る柔軟な才能(=意志)ではなかったのだ(勿論、意志は意思ではなくこころざしである)。
それを示す象徴的なエピソードがある。ウィルが怒って、難解な問題を解いた解答用紙を燃やした時、ランボー教授が慌てて消した時の教授の以下のセリフだ。
「ここまで高度だと君と私の差をわかる人間も少ない。私にはわかる。君に出会わなければ夜も眠れて才能の差に苦しむこともなかった。君の堕落も見ずにすんだ」
教授は他人にはほとんど理解できないウィルの才能を理解できる以上、嫉妬以上に敬意が心から湧いてきて見捨てることが出来ない。あらゆる手を尽くして彼を助けようとする。これは正に「良い意志探し」ではないのか。それぞれがお互いに尊敬できる才能を見出せるから必然的に自分の「良い意志」を探すことになるのだ。
ラストシーンでウィルが全てを捨てて恋人のスカイラーのもとへ行ったのも、相手の自分に対する無償の「アイ・ラヴ・ユー」に答えることが、一番の「良い意志探し」だからであろう。
いちご白書
1970年/アメリカ
Not terrific, not fantastic, but nice!
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80点
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このアメリカの学生運動を描いた映画が日本においてどのように受け止められているのかを確かめる時、荒井由実作詞作曲の「『いちご白書』をもう一度」を聴く限り、若者たちの権力に対する反抗と挫折のような平凡な物語として受容されているような印象を受けるのだが、ただそれだけの話なのだろうか。
「いちご白書」とは学部長が学生の声明に対して、いちごについて語っているようなレベルと評したことから付けられたもので、実際ここで描かれる学生運動はそのように展開する。
主人公のサイモン・ジェームズはボート部に所属していたノンポリの学生だったのだが、だんだんと学生運動にのめり込んでいく。しかしそののめり込み方は、決して学校側や学生たちとの議論が深まっていった結果ではない。そののめり込み方は、例えば他の学生に殴られたとか、8ミリカメラを壊されたとか、友人が怪我をさせられたなど、学生運動の主題とは全く関係ないことでのめり込んでいく。要するにサイモンにとって学生運動は本来の意味合いから外れ、ただストレス発散の道具と化しており、正に‘いちご’(=甘い)なのだ。
だから監督のこの作品の意図は体制批判ではなく学生批判である。それでなければ、ラストシーンでサイモンが警官に飛びかかろうとした時、ストップモーションにして「昨日、ある子供が外に出て...」というようなほのぼのとした(バカにしたような?)曲を流す訳がないのだ。
当事学生だった人たちは(少なくとも日本では)未だにそのようなことにも気が付かずにこの反「反体制」映画を観てノスタルジーに浸っているのだろうか?
『いちご白書』をもう一度!
一夜かぎり
1989年/スウェーデン
‘貴族的’な演出の是非について
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40点
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1939年のイングリッド・バーグマン出演のスウェーデン映画である。移動動物園で働く主人公のヴァルデマールは貴族の私生児であることが分かり、父親と一緒に貴族として暮らすようになる。父親の期待に沿えるようにヴァルデマールは、父親が後見役をしていて一緒に暮らしているエヴァに気に入られるように努力するが、エヴァはあくまで庶民ではなく、貴族としてのヴァルデマールを求める。努力の甲斐あって、ある晩ようやくヴァルデマールはエヴァに認められて、婚約することになる。しかし同じ晩、父親に報告した後エヴァの部屋に一緒にいたヴァルデマールがエヴァの体を求めると、エヴァは彼を拒絶して、婚約も破棄となり、ヴァルデマールは屋敷を後にする。
エヴァが彼を拒絶した理由は、貴族的ではないということなのだが、貴族的な体の求め方というものが想像し難い。何かの儀式以外にありえないのではないのか? 貴族的にしないから‘萌える’と思うのだが貴族ではないからよく分からない。
問題は作品の内容だけではない。内容に引きずられるように映像表現自体も‘お高くとまっている’ような印象を受ける。きれいに纏まり過ぎていて、それぞれのキャラクターの気持ちがうまく伝わってこない。第6回ヴェネチア国際映画祭で芸術メダルを獲得したそうだが、バーグマンが出演していなければ観る価値はないと思う。
どっこい!人間節 寿・自由労働者の街
1975年/日本
雪の降る町を
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50点
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横浜にある‘どや街‘に集う労働者たちと暮らしを共にしながらインタヴューを試みた作品である。合同葬儀から始まり、暮れも正月が終わっても仕事が無く、酒を飲んでは体を壊している人々の話は聞いていて辛くなるだけなのだが、唯一驚いたシーンがあった。
病気で体の不自由な秋田県出身の労働者に生い立ちを尋ねた時、彼はいきなり「雪の降る町を」を口ずさんだのだ。この曲はフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの1992年の作品『ラヴィ・ド・ボエーム』のラストでも使われている。その時も不意を衝かれて感動したのだが、カウリスマキの作品は‘計算’されたものである。しかしこの作品はドキュメンタリーなのだ。いずれにしても時代や国境を越える「雪の降る町を」という歌の力(=人間節!)に感動してしまった。
クレージー作戦 くたばれ! 無責任
1963年/日本
恐るべき‘無責任’
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100点
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植木等の偉大さは普通の‘無責任’ではなく、究極の‘無責任性’にある。
例えば、『ニッポン無責任時代』で平均を、『ニッポン無責任野郎』で源等という無責任な主役を演じておきながら、次の年に「くたばれ! 無責任」などというタイトルのついた作品の主役をするということは無責任甚だしい。
その無責任性は本作品の内容に関しても言える。
植木等が演じる田中太郎は無気力な社員だ。それは映像の紺のモノトーンで表される。しかし彼の商社が開発した新商品「ハッスルコーラ」を飲んで元気になる。それは映像がモノトーンからカラーになることで表される。これは決して彼が元気だからカラーになるわけではないことは、彼が落ち込んだ時に映像がモノトーンにならないことで証明される。つまり映像の変化は「ハッスルコーラ」を飲んでいるかいないかで決まっており、後半、映像がずっとカラーなのは田中太郎が「ハッスルコーラ」を飲み続けていることになる。
「ハッスルコーラ」の販売に当たって、会社は役所から許可を得ようとしたが、興奮剤が入っているという理由で許可が下りなかった。専務は社長に興奮剤を入れずに販売をするといったのだが、これは専務のウソだと思う。それでなければわざわざ別会社を作って売り出す必要などない。興奮剤が入っているのがバレた時にその子会社に責任を全てなすりつけられるようにするために別会社を作ったのだ。それに興奮剤が入っていなければ本社を超えるほどの売り上げになるはずはなく、安全銀行の年老いた頭取が‘ハッスル’出来るはずがないからだ。
結論を言えば、この作品は観客に気付かれないように描いてはいるが、前代未聞の‘ドラッグ’推進映画なのだ。こんな映画に主役で出演するなんて無責任も甚だしいのだが、もちろんこの作品はこのように分析して観るアートシアター系の作品ではなくただの娯楽作品なのだから、ここに書かれていることは全て冗談と受け取ってもらってかまわない、無責任だけど...
デジャヴ
2006年/アメリカ
‘FATE’と‘DESTINY’の違い
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100点
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この映画のテーマは「デジャヴ」よりも‘FATE’と‘DESTINY’の2つの運命だろう。
この作品においてダグが口にする‘FATE’が個人的で自分の努力で作り出すものであるとするならば、犯人が口にする‘DESTINY’は神のみが支配できるものだ。だからダグが様々なアプローチで事件を回避しようと努力しても‘DESTINY’には勝てないし、過去は変わらない。
しかしダグはどうしてもクレアを助けたい一心で、命がけで過去にタイムスリップしてクレアを助けようとするが、ダグの見るものは全て既に見たもの(=デジャヴ)であり、やはり過去は変わらないのかとダグは焦りだす。
ではラストで何故過去は変わったのか? ラストの船上でダグは犯人に、取調べで既に聴取していた犯人の犯行動機と信念を犯人に向かって言い放つ。その時点で誰も知りえない自分の信条を的確に言われた犯人は怯んだ。ダグの中に神を見たに違いない。自分の努力(=愛)で‘FATE’が‘DESTINY’に変わった瞬間、ダグは‘神’に変わり、過去を変えることができた。「デジャヴ」というタイトルの作品ではあるが、私たちはその見たことがない‘瞬間’に感動を覚えるのだ。
もしこの世に神がいるとするならば、それはその本人自身も自分が神であることに気がついていないという意味のラストシーンも超クール!!!
アメリカン・ビューティー
1999年/アメリカ
‘アメリカン・ビューティー’と‘ビューティー’の違い
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100点
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普段はうだつの上がらない主人公のレスターは、キャリアウーマンである妻のキャロリンの尻にしかれっぱなしだった。ある日18歳の娘ジェーンの友人であるアンジェラの魅惑に‘萌え’て、それまでの世間体を気にしながら生きていた自分に見切りをつけて、妻の言うことも聞かずに、自分から会社を辞めて、アンジェラを抱くことを夢見ながら体を鍛え始めた。
レスターとキャロリンの考え方の違いは、例えばカウチを巡っての言い争いに典型的に表れる。キャロリンは4000ドルもするカウチをレスターに汚されたくないのだが、レスターにしてみればいくらしようともカウチは所詮ただのカウチなのだ。レスターはもう世間が作る価値観を信じなくなり、自分の内心から沸き起こってくる‘価値観=自由’を信じるようになったということだ。
レスターは自由を得たと観客に思わせておいて、物語は意外な方向に向かう。レスターはアンジェラを抱くチャンスを得たのだが、実は彼女に男性経験が無いことを知ると、行為を止めてしまう。隣人の、統制や規則に厳格だが、実はゲイであるフィッツ大佐に誤解されて体を求められても、当然ゲイではないレスターは丁寧に断り、そのため最後に大佐に銃殺されてしまうのだ。
レスターは自分が自由になったつもりになっているが、‘はみ出す’ことがない。姦淫をするわけでもなく、男色に挑むわけでもない。ドラッグでさえ質の良い(体に良い?)ものを日常生活に支障を来たさないように取っている。彼は自由になったのではなく、ただ単に‘健康的’になっただけなのだ。この作品のタイトルが『ビューティー』ではなく『アメリカン・ビューティー(=健康美)』になった理由がここにある。アンジェラの美は生娘ゆえであり、レスターの美も鍛え上げた筋肉だけだからだ。
では‘ビューティー’はどこにあるのか? フィッツ大佐の息子リッキーの言葉が印象的だ。「凍死寸前の悲しげなホームレスをビデオで撮影して見直すと、神の視線を感じて‘ビューティー’が見える」と。
レスターが目を開けて、生きているように死んでいるのを見たリッキーは感動していた。死んだレスターは、何気ない思い出(草原に寝そべり流れ星を見る自分、近所の並木道の紅葉したカエデなど)、まるで‘死んだ’ビニール袋が‘生きているように’風で舞うようなだけのシーンを幸せそうに語っている。
そうなのだ。この‘生きた’作品は最初から最後まで‘死んだ’レスターによって語られている。生と死の狭間に‘ビューティー’が宿っている。