MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ミニー&モスコウィッツ』

2017-05-31 01:53:01 | goo映画レビュー

原題:『Minnie and Moskowitz』
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:アーサー・J・オニッツ/アルリック・エデンス/マイケル・D・マルグリーズ
出演:ジーナ・ローランズ/シーモア・カッセル/ヴァル・エイヴァリー/エルジー・エイムス
1971年/アメリカ

映画的にはならない燃え上がる愛の「狂気さ」について

 主人公でレストランの駐車場で客の車の管理をするアルバイトをしていたシーモア・モスコウィッツとロサンゼルス・カウンティ美術館の学芸員であるミニー・ムーアの出会いは突然だった。ミニーは自宅で浮気相手と密会した翌日に、友人のフローレンスに紹介された男と食事を共にしたものの、男の機嫌が悪くなり男から駐車場で暴力を受けていた時にシーモアに助けられたのであるが、シーモアとの関係も決して順調とは言えない。
 終始男女の喧嘩が描かれる本作を退屈せずに観る際の重要なポイントは「ハンフリー・ボガート」であろう。シーモアは映画館で『マルタの鷹』(ジョン・ヒューストン監督 1941年)を観ており、サム・スペードを演じたハンフリー・ボガートに「初めて会ったときから、運命の人だと思っていた」と告白するブリジッド・オショーネシーを演じたメアリー・アスターの言葉をまるで自分が言われたように受け止める。
 一方、ミニーはフローレンスと『カサブランカ』(マイケル・カーティス監督 1942年)を観た後に、ハンフリー・ボガートのような男性の「理想像」が映画によって実在すると自分たちは思い込まされていると悲観している。「ハンフリー・ボガート」を巡るシーモアとミニーの対照的な価値観が2人を翻弄するのである。
 出会って4日で結婚を決める2人の前に立ちはだかった「最後の壁」がマザコンの2人の母親であるのだが、無事結婚式までたどり着く。しかしその時の神父がとる奇妙な行動の意味は理解できなかった。


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『ちょっと今から仕事やめてくる』

2017-05-30 01:19:40 | goo映画レビュー

原題:『ちょっと今から仕事やめてくる』
監督:成島出
脚本:成島出/多和田久美
撮影:藤澤順一
出演:工藤阿須加/福士蒼汰/黒木華/小池栄子/吉田鋼太郎/池田成志/森口瑤子
2017年/日本

百害あって一利なしの「夢物語」について

 2016年7月頃、ブラック企業の営業職に就いていた主人公の青山隆は厳しいノルマと月150時間を超える残業で心が折れて三宅坂駅のホームに進入してくる電車に体が持っていかれそうになった瞬間に、幼なじみの「ヤマモト」と名乗る男に助けられた。
 しかし本物の幼なじみの「ヤマモト」はニューヨークにおり、そのことを問いただすと偽の「ヤマモト」はあっさりと別人であることを認め、関西のノリで何となく付き合うようになり、その後は、隆と会社社長の山上守と上司の五十嵐美紀とのこじれた関係と、「ヤマモト」の正体が徐々に描かれることになる。
 原作に沿ったストーリーまでは良かったのであるが、映画オリジナルのラストの展開は納得しかねる。隆は「ヤマモト」が暮らしているバヌアツ共和国まで行ってボランティアから始めて一緒に暮らすというのである。これではいわゆる「自分探し」というオカルトまがいの怪しいエコロジーである。隆の「正しい振る舞い」は父親が営むブドウ園の手伝いであろう。何でも外国に行けば「自分」が見つかるわけではなく、こういう時こそ家族の元に戻って一から始めるべきなのである。こんな「夢物語」では隆と同じ境遇で苦しんでいる人に何の役にも立たないであろう。


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『美しい星』

2017-05-29 01:55:03 | goo映画レビュー

原題:『美しい星』
監督:吉田大八
脚本:吉田大八/甲斐聖太郎
撮影:近藤龍人
出演:リリー・フランキー/亀梨和也/橋本愛/中嶋朋子/佐々木蔵之介/羽場裕一/友利恵
2017年/日本

宇宙人という「素人」について

 三島由紀夫の有名なSF小説を原作とし、吉田大八が監督を務めるならば面白くない訳がないと思い観に行ったのではあるが、なかなか微妙な出来だった。
 SF小説が原作なのだから、例えば、番組ディレクターを無視して事前に自前のテロップを用意して自説を説く、主人公で気象予報士の大杉重一郎がすぐにクビにならないような細かい設定のおかしさをあげつらうつもりはない。
 あるいは重一郎と自友党の参議院議員の鷹森紀一郎の意見は「地球温暖化」という問題点においては一致しているのだが、何故か重一郎は鷹森の急かせている。しかし鷹森はソーラーパネルの設置など自然エネルギーに関する具体策を講じており、首相でも大臣でもない一議員にはそれ以上を求めても仕方がないのである。ここは原作においては「核戦争の危機」を問題視していた重一郎が映画版では「地球温暖化」に問題意識を移したことに対する齟齬が生じているようにも見えるが、そもそも重一郎は「地球温暖化」にさえ関心がなかったようにも見える。
 それでは重一郎がテレビで大騒ぎしていた理由は何かと勘案するならば、作品冒頭で描かれているレストランの誕生日会のように自分の家族がバラバラで、なおかつ黒木克己という謎の男に騙された息子の大杉一雄、竹宮薫という謎のストリートミュージシャンに孕ませられた娘の大杉暁子、そして出所の分からない和歌山の「美しい水」を騙されて売らされていた妻の大杉伊余子たちを自身の最期までに立ち直らせて絆を取り戻そうという試みだったのではなかったのか。
 だから「あの世」に向かう直前に重一郎は4人の絆が取り戻せているかどうか確認したかったのであろうが、それまで重一郎の「グダグダ」な有様が上手くはまっていたリリー・フランキーの演技に切迫感が感じられない。テレビドラマ『怪奇大作戦』の岸田森を彷彿とさせる佐々木蔵之介のクールな演技とつい比較してしまうと、やはり「素人」俳優の限界を感じるのである。ラストはキメて欲しかったがカルト作品であることは間違いない。


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『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

2017-05-28 01:44:47 | goo映画レビュー

原題:『Manchester by the Sea』
監督:ケネス・ローナガン
脚本:ケネス・ローナガン
撮影:ジョディ・リー・ライプス
出演:ケイシー・アフレック/カイル・チャンドラー/ルーカス・ヘッジズ/ミシェル・ウィリアムズ
2016年/アメリカ

お互いの「歯車」が嚙み合わないもどかしさについて

 2015年、主人公のリー・チャンドラーはアメリカのボストンで便利屋として働いている。有能ではあるが性格に難があり、たびたび客と揉め事を起こしてしまうのだが、それだけではなくバーで飲んでいる時も客の喧嘩を吹っかける有様である。
 何故このような性格になったのかは、やがて故郷のマサチューセッツ州の「マンチェスター・バイ・ザ・シー」に住んでいる兄のジョーが持病の心臓病が原因で突然亡くなったことでリーが帰郷したあたりから徐々に明かされていく。
 ジョーには16歳になるパトリックという息子がおり妻のエリスと別れた後に一人で育てていたのであるが、遺言書にパトリックの養育をリーに託す旨が書かれており、それを知ったリーは酷く動揺する。リーは故郷で生活したくない深刻な理由があったのである。
 しかしそのことは敢えて伏せておこう。本作で肝心なことは、とにかくお互いの「歯車」が嚙み合わないところである。例えば、リーが車で高校まで行ってパトリックを迎えにいき、ジョーがいる病院に行くかどうか訊ねた際に、曖昧な返事をしたパトリックは病院に行かないものだと誤解したリーが車を動かそうとして車から降りようとしていたパトリックを危うく車で轢きそうになったり、リーの妻のランディが救急車で運ばれる際に、ストレッチャーの車輪がなかなか収まらず救急車が発車できないという細かな齟齬の連なりを観客は噛みしめなければならなくなるだろうが、それこそ「生き抜く」という本作のメッセージなのではないだろうか。だからラストで下手なりにもリーとパトリックがキャッチボールをする姿は明るい未来を予感させるのである。


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全米デビューできないという「未成熟」

2017-05-27 01:15:23 | 邦楽

 矢野利裕の『ジャニーズと日本』(講談社現代新書 2016.12.20)を読んだ。ジャニーズの歴史を知るぶんにはとても分かりやすいものだと思うが、個人的に知りたかったことに関しては分からないままだった。

 例えば、ジャニーズ事務所から1972年にデビューした郷ひろみが1975年にバーニングプロダクションに移籍になった経緯である。

「郷は一九七五年にバーニングプロダクションに移籍する。郷がなぜ移籍をしたのかは定かではない。(p.76)」

「実は、郷ひろみが移籍したのちの一九七〇年代後半は、『ジャニーズ冬の時代』とも言うべき不遇の時代が訪れた。(p.99)」と書かれているように、郷の事務所移籍は昨今のSMAPの独立騒動以上にジャニーズ事務所にとっては深刻な事態だったはずなのである。今ならば他に売れているグループはいくらでもいるのだからSMAPが独立したとしても事務所の運営に支障が生じることはないが、郷の移籍は当時かなりのダメージを事務所に与えたにも関わらず、郷はペナルティを受けることもなく芸能活動ができたことが不思議でならない。

 アメリカ出身のジャニー喜多川ならば日本で成功したように母国アメリカでも成功を収めたかったはずである。ジャニーには2回のチャンスがあった。一回目は、あおい輝彦、真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良の4人で1962年にデビューした初代ジャニーズに、ジャニーの旧知だったドン・アドリシとディック・アドリシ兄弟(Don Addrisi&Dick Addrisi)が「かなわぬ恋(Never My Love)」という楽曲を提供した時である。

「初代ジャニーズは、レコーディング・スタジオまで決まっていながら、この曲を吹き込むことができなかった。レコーディングが頓挫した原因は、メンバーの一人だった真家ひろみが独立を画策したからなどの憶測があるが、真相はわからない。(p.51)」

 「Never My Love」はアメリカのバンド、アソシエイション(The Association)によって歌われ1967年10月にキャッシュボックスチャートにおいて全米ナンバー1になる。

 2度目は、錦織一清、植草克秀、東山紀之の3人で結成された少年隊のデビュー時に訪れる。

「一九八三~八四年、少年隊はレコードデビューまえのテレビ出演の時点で、マイケル・ジャクソン『スリラー』(一九八三)の振り付けも担当したというマイケル・ピーターズ(Michael Douglas Peters)の目に留まり、アメリカに呼び寄せられている。ジャニー喜多川も少年隊に対する期待は大きく、一九八六年七月二四日の『夕刊フジ』の記事では、『日本で、やっとやりやすくなった。今こそチャンス』と発言している。錦織も同記事で、『アイドルということばを塗りかえて大きなエンターテイナーに』と意気込みを語っており、最初からアメリカの水準に合わせられていることがうかがえる。(p.88-89)」と書かれているが、何故かその後、アメリカデビューが頓挫した経緯が書かれていない。(「一九八六年」は書かれているママ)

 少年隊が全米デビューできなかった原因は何となく分かる。例えば、動画サイトで1984年9月12日に放送されたマーヴ・グリフィン(Merv Griffin)がホストを務める「マーヴ・グリフィン・ショー」に少年隊が出演した際の様子を見てみればいい。パフォーマンス終了後、最初に年齢を訊かれて答えるところまではよかったのだが、名前を訊かれて日本人の名前を聞きとれなかったマーヴにもう一度名前を訊かれた東山が自分が言った自分の名前が通じなかったことに完全にパニックになって訳が分からなくなっているのである。無惨としか言いようがない。錦織は正式契約後の1985年2月にロサンゼルスで全曲英語詞の世界発売用のデビューアルバムを録音すると語っているのだが、いつの間にか世界デビューの話はなくなり、1985年12月12日に少年隊は「仮面舞踏会」で日本でレコードデビューすることになるのである。この時、ジャニー喜多川は54歳。諦めたと思う。ジャニーはブライアン・エプスタインにはなれなかったのである。

 本書にはアイドルの「未成熟」問題も取り上げられている。

「『50代』のパフォーマーにエンタテイメントの真髄を見るジャニーには、若さを特別視したり、反対に老いを悲観的に捉えたりするような態度はない。また、未熟なパフォーマンスを見守るような態度もない。追求するのはあくまで、プロフェッショナルなエンタテインメントである。ジャニーの理念は、パフォーマンスを磨いてステージに出れば年齢や立場に関係なく輝くことができる、というものだ。(p.227)」

 理念は立派なものではあるが、それでは何故ジャニーズ事務所所属のタレントは結婚しにくかったり、付き合っている女性の存在さえ隠そうとするのか分からない。パフォーマンスが一流であるならば「立場」に関係なく輝くことができるはずではないのか。つまり「アイドル」として売り出す以上、そこには必然的に「甘さ」が生じるためジャニーズ事務所所属のタレントは日本の女性アイドルたちと大差はないのである。


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「ズブズブ」で「まあいいじゃん」

2017-05-26 01:38:15 | Weblog

 2017年5月21日の毎日新聞の「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムには「安倍首相の国会答弁 あまりに下品で不誠実で幼稚」というタイトルが付いていた。

「民進党の福島伸亨衆院議員が、まさに安倍昭恵氏と森友学園のズブズブの関係について質したのに対し、安倍晋三総理大臣が『ズブズブの関係とか、そういう品の悪い言葉を使うのはやめたほうがいい。それが民進党の支持率に出ている』とまたぞろ、まるで答えにならない答弁をした。自身が夫婦ぐるみで不適切な関係であったことを何とか隠し通したいという焦りから出た抗弁なのだろうけれども、これはあまりにも下品ではないか。
 第一、中身に正面から答えず、言葉尻を捕まえてなじることで時間を消費して答弁したふりをしているだけで、あまりにも不誠実だ。『ズブズブ』が『品の悪い言葉』だということは初めて聞いたが、公の場で相手を『品が悪い』と表明することのほうが、よほど下品だと思う。その語句に、異常な後ろめたさや恐怖を感じるからこその過剰反応であることは想像に難くない。
 さて、その安倍総理は昨年の北海道5区の補欠選挙について、『民進党と共産党がこんなズブズブの関係になった選挙は初めて』と語っていたが、自分は使っている言葉も、野党の議員が使うのは品が悪いという、いつも通りの矛盾したその場凌ぎだ。」

 安倍首相が「品の悪い言葉」を使うことはもはや日常茶飯事で、例えとして、2015年8月22日の毎日新聞の記事から引用してみたい。

「参院平和安全法制特別委員会の安全保障関連法案審議で21日、安倍晋三首相が、中谷元防衛相を追求する民主党の蓮舫氏に対し、『まあいいじゃん。そういうことは』とやじを飛ばし、直後に撤回する一幕があった。
 中谷氏は、他国軍を後方支援できる事例をまとめた『野呂田6類型』を誤って『大森6事例』と答弁。蓮舫氏が『大森と野呂田が一緒になっている』と議事の停止を要求した際、首相が自席からやじを飛ばした。
 憤った蓮舫氏から答弁を求められた首相は『本質とは関わりがないことだから申し上げた』と強調したが、鴻池祥肇委員長から『自席での発言は控えていただきたい』と注意され、『撤回します』と応じた。
 (・・・)首相は5月28日の法案審議でも民主党議員に『早く質問しろよ』とやじを飛ばし、同党が抗議。謝罪に追い込まれた。」

 一国のトップが「まあいいじゃん」という「若者言葉」を公の場で使ったことに衝撃を受けてもう2年も経とうとしているのだが、安倍首相の発言の幼稚さに変化がない、というより注意する人もいなくなりむしろさらに幼稚さに拍車がかかっている。しかし慣れというものは恐ろしいもので、もはや違和感がない。


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山下美月の「塩対応」

2017-05-25 01:15:21 | Weblog


(撮影:松田忠雄)

 5月22日にテレビ東京で放送された「乃木坂工事中」をたまたま見ていたら、三期生の

山下美月というメンバーが自身の食生活の話をしていたのであるが、これが驚くべきものだった。

山下は普段からごはんに塩か醤油をかけて食べるというのである。スタジオでは笑い話になって

いたのだが、これは笑えない話である。おそらく山下のご両親も若いからまだ自覚はないので

あろうが、このような塩分の取り過ぎは遅かれ早かれ大病を患う可能性が大きいからである。

エナジードリンクもよく飲んでいるらしいのだが、きちんとした食事をしていれば17歳で

栄養ドリンクを愛飲する必要はないのである。

 山下は風呂に入る時に、椅子を使わないようなのだが、これも良くない。特に女性の場合は

感染症を防ぐ意味で洗い場では椅子を使った方がいいのである。

 とにかく食事に関しては友達がアドバイスするよりも家族包みで栄養管理士の指導の下に

食生活を見直した方がいいと思うのだが、とりあえず同じテレビ東京系列で放送されている

「主治医が見つかる診療所」に出演して医師団に「怒られて」みるのもいいかもしれない。

 しかしたまたま見た番組なので、番組を盛り上げるための「ネタ」だったとするならば、

ここに書かれていることに全く意味はなく、寧ろそうあって欲しいと祈る次第である。


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『サクラダリセット 後篇』

2017-05-24 01:27:53 | goo映画レビュー

原題:『サクラダリセット 後篇』
監督:深川栄洋
脚本:深川栄洋
撮影:清久素延
出演:野村周平/黒島結菜/平祐奈/玉城ティナ/恒松祐里/岡本玲/八木亜希子/及川光博
2017年/日本

現代の「サクラダ」を巡って

 本作の前篇で「石」を巡る考察があったように後編においては「板」を巡る考察が展開される。後篇では咲良田という街の超能力の存在に関して、主人公の浅井恵(ケイ)と街の管理局対策室室長の浦地正宗の攻防が始まるのであるが、超能力の一掃を企んでいる浦地に対してケイは同級生の相麻菫の、身を賭した活躍も手伝って、超能力の保護を試みる。その時、ケイと浦地の間で「カルネアデスの板(Plank of Carneades)」に関するパラドックスの解釈が問題になるのである。
 難破した船から生き残った男が壊れた船の板切れに掴まっていると、もう一人の男が同じ板に掴まろうとし、二人で掴まったら板が沈むと思った男は後から来た男を突き飛ばして水死させてしまったのだが、その後、救助されたその男は殺人罪では問われなかったのである。当然浦地はこの男の正当性を主張するのだが、ケイは2人共助かる可能性を模索するべきなのだと提案するのである。
 例えば、浦地と、浦地に電話をしてきた菫を中心に2人の周囲を回るカメラワークやカラオケボックス内でのケイと浦地との会話を聞く索引さんの眼球の動きなど思い切った演出も悪くはない。時折、登場人物のセリフをこれほどはっきりと左右に振り分けて流す音声の演出面も特筆すべきものだと思うのであるが、浦地と加賀谷の超能力によって浦地の両親の身に起こった不幸な出来事や、咲良田に引っ越してきた時にケイの両親に起こった不幸な出来事の描写が不十分で、浦地とケイの悲壮感がいまいち力強く伝わってこない。
 『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 2016年)がハリウッドの知的SF作品の雛形であるならば、本作は日本の知的SF作品の金字塔のはずだった。驚くべきことに前篇を観に行った映画館で後編が上映されておらず、わざわざ遠出して観に行ったほど客が入っていない。実際に、観に行った上映館でも3人しか観客がいなかったのだが、本作は例えば、米軍基地を巡る日本と沖縄の関係の問題提起でもあるはずで、本作に対する関心の低さが、そのまま日本人の沖縄問題への関心の反映でもあるように思うのである。


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『メッセージ』

2017-05-23 00:31:19 | goo映画レビュー

原題:『Arrival』
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本:エリック・ハイセラー
撮影:ブラッドフォード・ヤング
出演:エイミー・アダムス/ジェレミー・レナー/フォレスト・ウィテカー/マイケル・スタールバーグ
2016年/アメリカ

「達観」することの覚悟について

 まるで『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督 1977年)の大衆性と『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督 1972年)の思想性を合わせ持ったような作品である。
 本作はオチを知らないで観賞することを勧めるのだが、ラストにおいて数学者のイアン・ドネリーが主人公で言語学者のルイーズ・バンクスに愛の告白する時に、もう一つのイアンの願いに対して「未来」のルイーズは頷くものの、「今」のルイーズは何も返答していない。しかしルイーズに未来を止める力はないのである。原題の「アライヴァル(Arrival)」には宇宙人の「出現」という意味と同時にルイーズの精神的な「到達」という意味も含まれていると思う。


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『夜に生きる』

2017-05-22 00:18:40 | goo映画レビュー

原題:『Live By Night』
監督:ベン・アフレック
脚本:ベン・アフレック
撮影:ロバート・リチャードソン
出演:ベン・アフレック/エル・ファニング/ブレンダン・グリーソン/クリス・メッシーナ/シエナ・ミラー
2017年/アメリカ

「自由な生き方」を巡って

 若くして第一次世界大戦に従軍後、ボストン警察の警視正を父親に持つ主人公のジョー・コグリンは友人のディオンとパオロのバルトロ兄弟と共に街の2大勢力と化していたギャング団に属さないまま強盗を繰り返していた。従軍の経験からジョーは組織のルールに縛られることが嫌だったのであるが、その一方のギャング団の長であるアルバート・ホワイトの情婦であるエマ・グールドと恋に落ち、それが見つかって1927年に殺されたエマの復讐を果たすためにジョーは1933年に出所後にもう一方のギャング団の長であるマソ・ペスカトーレと組んでフロリダ州マイアミのホワイトの縄張りを荒らして殺害することを決心する。
 ネタバレをしてしまうが、実はエマは車で拉致された後に、背後から拳銃で運転手を撃ち、河に落ちた車から脱出して生き残っていたのである。再会したエマにそのような話を聞かされたジョーは呆然としたまま立ち去っていく。エマのような自由な生き方をジョーは望んでいたからなのだが、だからと言ってエマが必ずしも幸せそうには見えないところが本作の肝ではあろう。
 ところが演出が上手くいっているように見えない。例えば、娘のロレッタが自殺した後に、家に籠っている父親のアーヴィング・フィギスが「レペント」と呪文のように唱えているシーンは、その後のシーンを考えると不必要であろうし、逆に観客の意表を突き損なっているように思う。
 ジョーが息子のトーマスと映画館に行った時、第二次世界大戦が始まる直前のナチスに関するニュースリールと共に2人が観た映画はモンゴメリー・クイン(Montgomery Quinn)監督の『Riders of the Eastern Ridge』という西部劇である。ジョーの兄が脚本を書いているからということなのだが、この作品は実在するものではなく、わざわざアフレックが本作のために撮った作品のようである。ここまで作り込んで興行的に大失敗してしまったのは気の毒ではある。


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