R.E.M. は長いあいだ僕のいちばん愛好するロック・バンドだったし、今でもそうだ。僕がこのバンドを好きになった理由は、ひとことで言えば「腹持ちの良さ」だと思う。このバンドの作り出す音楽には常にしっかりとした「核(コア)」のようなものがあり、たとえ微妙にスタイルが変化していっても、そのコアが変質したり移動したりすることはない。その音楽はいつも背筋がしっかりとして、聴き終えると「何かしっかりしたものを食べたな」というような不思議な実感がある。強い力で握られたおむすびを食べたときのように。新しいCDが出るたびに買って、聴き続けているけれど、がっかりしたという記憶がほとんどない。 彼らの音楽は、多くのインディ出身オルタナ系バンドの音楽がそうであるように、歌詞の内容がファジーというか、意味を正確には把握しがたいところがある。いくぶん難解で、いくぶん思わせぶりである。「歌詞なんて、適当に言葉をかさねて流れていればそれでいいじゃないか」という感覚的なところもある。はっきり言えば不親切な歌詞だ。こんな風に言い切ってしまっていいかどうかわからないけれど、アメリカ人のオーディエンスにだって、彼らが何を歌っているのかよく理解できていないのではあるまいか。リーダーのマイケル・スタイプも、おそらくは意図的に、自分たちの歌っている歌のリリックを明文化しないという突き放した態度を近年までずっと貫いてきた。だからこの人たちがいったいどういう内容の歌を歌っているのか、僕にも長いあいだよくわからなかった。 これは、考えてみれば、歌詞の内容をより具体的に、より先鋭的にしていくラップ・ミュージックとは実に対照的なスタンスのように見える。言い換えれば、アメリカ中産階級の白人の若者には、このような抽象的な、比喩的な、示唆的な言語様式でしか自らの世界を語ることができないということなのだろうか。 でもありがたいことに(というべきだろう)最近の彼らのCDには、やっと歌詞が掲載されるようになった。というわけで、僕の好きな「人生のイミテーション」の訳詞をここにお届けすることができたわけだ。僕がハワイに滞在していたときに、この曲がヒットしていて、車のラジオでよく聴いた。 Thats sugarcane that tasted good Thats cinnamon thats hollywood というリフの部分が好きで、いつもラジオに合わせて合唱していた。意味のよくわからないままに。そうか、こういう全体の意味だったんだ、と今ではわかったけど。(p20-25)
「僕は怖くないね/大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない」という部分のオリジナル歌詞は「I'm not afraid. C'mon c'mon no one can see me cry」だから「泣いている僕の姿は誰にも見えない」が正しいのであるが、このような些末な間違いはここではどうでもいい(その後、村上春樹翻訳ライブラリーとして2010年11月に再版されたのであるが、驚くべきことにここのフレーズの翻訳は直されていなかった。本人や編集者が気づかなくてもかなりの読者を抱えているはずなのに誰も村上に指摘しないのであろうか? おそらく村上春樹の作品を好むような読者はロックに興味が無いのであろう)。
『村上ソングズ』の中でこの曲だけが2000年代のもので妙に浮いているように思う。村上は初期の頃からR.E.M.が好きだったようで、だから「Losing My Religion」でもよかったはずなのだが、何故「Imitation of Life」を選んだのか勘案するならば、村上が以下の文章を目にしたからではないのかと思う。
「本書のタイトルに含まれている『ポップ・スキル』という耳慣れない言葉は、アメリカのロックバンド『R.E.M.』がニ〇〇一年にリリースしたアルバム『Reveal』から引用したものである。この言葉が登場するヒットチューン『Imitation Of Life』は、タイトル通り、日常のまがいもの性を指摘したとおぼしき楽曲である。ただし、彼らの歌の常として、きわめてアンビギュアスで難解な歌詞であるため、私の引用が正確である自信はない。何か特殊な意味のある慣用句であるならご教示願いたいが、ここでは単純に、解離がさまざまな表現領域で多用され、まさにポップ表現のための技術(スキル)として無意識的に導入されつつある状況一般を指して用いた。」(『解離のポップ・スキル』 斎藤環著 勁草書房 p.342 2004.1.15)
斎藤が村上の熱心な読者であると同時に、村上も斎藤の熱心な読者のように思える理由は、斎藤とおぼしきキャラクターが村上の小説の中に登場するからで、斎藤が村上の「Imitation Of Life」の訳詞に満足しているのかどうか寡聞にして知らないが、村上も斎藤も意味を把握しきれていないように思う。確かに「意味(meaning)」を捉えることはなかなか難しいのであるが、歌詞を書く以上は何がしかの「意図(intention)」はあるのである。だからここでは敢えて大胆に意訳してみたい。
原題:『Every Thing Will Be Fine』 監督:ヴィム・ヴェンダース 脚本:ビョルン・オラフ・ヨハンセン 撮影:ブノア・デビエ 出演:ジェームズ・フランコ/レイチェル・マクアダムス/シャルロット・ゲンズブール 2015年/ドイツ・フランス・カナダ・ノルウェー・スウェーデン・アメリカ
さすらわされる主人公のについて
久しぶりにヴィム・ヴェンダース監督作品を観てみたら、主人公が相変わらず「さすらう男性」だったことで、初期の作品から全く変わっていないことに驚いた。聞いた話ではヴェンダースはノルウェーの作家であるビョルン・オラフ・ヨハンセンのオリジナル脚本をノルウェー語から英語にわざわざ書き換えて撮るほど気にいったようで、要するにヴェンダースは「さすらう男」が好きなのである。 主人公のトーマス・エルダンは『Nowhere Man』や『Luck』などの小説を発表している作家なのであるが、どうもトーマスの感情が掴み切れない理由として、そもそも自分が運転していた車で子供を轢いたことに体感で気が付かないのだろうかと疑問を持ってしまうからである。亡くなったニコラスという子供とクリストファーという2人の息子を持つケイトも不思議な存在で、おそらくフォークナーの小説でも読んでいたのだろうが、読書に夢中になって子供から目を離していたから事故が起こったのであるが、下の息子を亡くした後でも風景画を描くことに夢中になってまだ幼いクリストファーから目を離しているのである。 トーマスの元カノであるサラと喧嘩をしていた原因もよく分からないし、トーマスが結婚したアンが、遊園地で事故に遭遇した際の怪我人に対するトーマスの対処の冷静さに文句を言う理由も、自動車事故から11年後にトーマスの前に現われる16歳のクリストファーの振る舞いの奇矯さも理解しにくく、原題「Every Thing Will Be Fine(全ては上手くいく)」の真意がよく分からなかったのであるが、子供に対するトーマスの「距離感」が描かれていると捉えるならば、ニコラスを死なせてしまい、サラとの間には子供が出来ず、アンの連れ子であるミナに翻弄され、大きくなったクリストファーには「寝小便」をされ、実子がいないにも関わらず子供たちと関わらざるを得ない男の新手の「さすらい」が物悲しくはあるし、もう少し「母親」の方も頑張ってくれというトーマスの心の叫び声が聞こえなくはない。
例えば、『SING/シング』(ガース・ジェニングス監督 2016年)同様に幼いモアナを海に誘う波の「柔らかさ」や、ラストの「グリーン」の鮮やかさなど映像に関しては文句のつけようがないのであるが、クライマックスにおいて一度はモアナを見放したマウイが戻って来てモアナを手助けするようになった動機がいまいちよく分からなかった。 一番最後でひっくり返っているヤシガニのタマトヨが「僕がセバスチャンだったらアリエルは助けてくれるのに」と嘆いているのだが、これは同じ監督によって制作された『リトル・マーメイド(The Little Mermaid)』(1989年)のキャラクターで、セバスチャンとはジャマイカガニなのだが、これはカニの種類の問題ではなく、あくまでも性格の問題ではあろう。