MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』

2017-01-31 00:53:16 | goo映画レビュー

原題:『Les Héritiers(継承者たち)』
監督:マリー・カスティーユ・マンシオン・シャール
脚本:マリー・カスティーユ・マンシオン・シャール/アハメッド・ドゥラメ
撮影:ミリアム・ヴィノクール
出演:アリアンヌ・アスカリッド/アハメッド・ドゥラメ/ノエミ・メルラン/ステファン・バック
2014年/フランス

 いつまでも把握しきれないホロコーストの恐ろしさについて

 パリ郊外にあるレオン・ブルム高校のアート系のクラスは外国語コースなどに受からなかった落ちこぼれのクラスである。担任を任された歴史教師のアンヌ・ゲゲンは教員歴20年のベテランで、生徒の身なりには厳しく授業態度に対しても徹底しているが、進学できそうにない「予備軍」が多数存在することに変わりはない。さらにゲゲンの母親が亡くなり一日だけ代行の女性教師がクラスを受け持ったのだが、生徒たちにからかわれるだけで授業が成立しなかった。業を煮やしたゲゲンが生徒たちに提案したのが「国民抵抗と国外追放に関する全国コンクール(Le Concours National de la Résistance et de la Déportation)」への参加なのであるが、もっと揉めるかと思いきや意外と生徒たちが素直に同意したことにストーリー展開のぎこちなさを感じた。
 アート系のクラスという利点を活かして生徒たちが当時の資料が収集されている博物館へ赴き、当時の様子が描かれた映像や漫画を詳細に検討している点は興味深い。
 しかし本作において個人的に最も驚いた点はシモ―ヌ・ヴェイユのことである。女生徒のメラニーが国から表彰されてインタビューに応えているシモ―ヌ・ヴェイユをテレビで見ているシーンがある。最初は哲学者のシモ―ヌ・ヴェイユ(Simone Weil)かと思って違和感があったのであるが、後で調べたら彼女はフランスの政治家で強制収容所に収容された経験を持つシモ―ヌ・ヴェイユ(Simone Veil)だったのである。アウシュヴィッツの生存者のレオン・ズィゲル(Léon Zyguel)の存在まで知っている必要はないとは思うが、ホロコーストを知るぶんには観て損はないであろう。


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『五日物語 ―3つの王国と3人の女―』

2017-01-30 00:27:08 | goo映画レビュー

原題:『Il racconto dei racconti』 英題:『Tale of Tales』
監督:マッテオ・ガローネ
脚本:エドゥアルド・アルビナティ/ウーゴ・キーティ/マッテオ・ガローネ/マッシモ・ガウディオソ
撮影:ピーター・サシツキー
出演:サルマ・ハエック/ヴァンサン・カッセル/トビー・ジョーンズ/シャーリー・ヘンダーソン
2015年/イタリア・フランス・イギリス

「オムニバス」と「ヨーロッパ」の親和性について

 3話から成るオムニバスドラマはそれぞれ「誕生(The Queen)」「若さ(The Flea)」「老い(The Two Old Women)」の3つのテーマがラストで交錯する構成になっている。このようなオムニバス映画は、例えば、『巷の恋』(フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、カルロ・リッツァーニ、ディーノ・リージ、フランチェスコ・マゼッリ、チェーザレ・ザヴァッティーニ、アルベルト・ラットゥアーダ共同監督 1953年)や『ロゴパグ』(ロベルト・ロッセリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ウーゴ・グレゴレッティ共同監督 1963年)や『世にも怪奇な物語』(ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ共同監督 1968年)など昔はよく撮られていたような気もするが、何故かそのほとんどはヨーロッパ作品(ほとんどイタリア)で、本作もその流れで製作された作品であろう。
 結局、人生はどちらに転ぶか最期まで分からないということは、ラストで上空で燃える綱の上を渡る曲芸師によって暗示されている。


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「学問のすゝめ」を巡って

2017-01-29 00:56:10 | Weblog

 小谷野敦の『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』(新潮新書)を読んでいたら、初っ端で「上げ底された明治の偉人」として福沢諭吉が取り上げられている。

「『学問のすすめ』も『西国立志篇』も、いわば自己啓発書のはしりである。特に前者は、徳川時代は身分制度があったけれど、これからは誰でも努力次第で立身出世できるということを言ったもので、それが『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり』という有名な冒頭部なのである。だが出世のためには、これからは学問をせよ、ということである。何のことはない、近代社会ではたいていの人が知っていることである。それで今日にいたるまで、みないい大学へ行こうと勉強しているわけである。ところが福沢も、当時はまだ個人の先天的能力差ということまで考え及ばなかったか、それを書いておかなかったから、能力のない者まで無理して勉強して大学へ行き、そのためにABCから教える大学ができるという惨状を生み出したのだから、今でもやたら出ている『誰でも勉強ができるようになる』とか『お父さんがこうすれば子供は東大へ行ける』式の罪深い本のはじまりと言えるかもしれない。」(p.16-17)

 この文章に違和感を覚えた理由は、その前に橋本治の『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』(幻冬舎)を読んでいたからである。

 

 橋本は「『学問のすゝめ』が当時最大級の啓蒙書で、福沢諭吉自身が『近代最大の啓蒙思想家』である」(p.126)、「近代になったばかりの日本に登場した『学問のすゝめ』は、『近代に向かう日本人が学問をするための前提』を説いた本で、『これからの日本はこうなるから、こういうことを知っておけば大丈夫』というようなことを語る、ノウハウ本ではないのです。」(p.201)と解釈しており、小谷野が『学問のすすめ』を「自己啓発書のはしり」と見なしていることに違和感を持ったのである。

 橋本は「『啓蒙』に似たような言葉で『啓発』があります。『蒙』は『バカ』ですが、『発』は『弓を射ること』で、つまりは『当たってなにかが生まれる』です。『啓』は『開く』で『発』は『当たり』ですから、『開いて分かった』です。『啓発』は『すぐ分かる』の人で、バカじゃなくてもОKです。それで、『自己啓発本』と言って、『自己啓蒙本』とは言わないのでしょう。自分を『バカ』という前提に立たせるのは、いやなもんなんでしょうね。」(p.139)と、「啓蒙」と「啓発」の違いを的確に示している。

 橋本はキリスト教が禁じられ、徳川幕府がなくなり、かと言って明治維新政府は出来たばかりで議会がまだない明治5年の日本において「『学問のすゝめ』は明快には教えません。ある所まで『分かった』と思っても、その次のつながり方がよく分からないから、考えざるをえないのです。『むずかしい文章』ではなく、『分かりやすい文章』であるからこそ『あれ、なんか分からないな?』が見えて来て、考えざるをえなくなるのです。そうさせるのが、『蒙を啓く』の啓蒙です。それを意図的にやったのか、それとも結果として、『読者に考えさせる』になったのか、私には分かりません。でも、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が啓蒙の本になっていることだけは確かです。」(p.149)と捉えるのである。

 不思議なことは『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』は2016年10月20日に出版されているのであるが、『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』は2016年6月10日に出版されていることで、さらに同書で小谷野は平賀源内の項で「その頃、『江戸ブーム』で、田中優子が、平賀源内と言っていて、『ユリイカ』でも特集を組んだのだが、そこで橋本治が、源内なんて全然面白くない、と書いていて、わが意を得たりの感があったし、源内特集なのにそんなことを書いてしまう橋本が、かっこいい、と思ったものだ。」(p.171)と書いており、橋本治を知らないわけではないのに、何故小谷野は橋本の著書を無視してしまうのか理解出来ないのである。

 あるいはただたんに橋本の著書の存在をたまたま知らなかったとしたら、同じ東京大学を卒業した者でもそれぞれが持つ読解力にはピンからキリまであるということを自ら証明してしまったのかもしれず、結果的に小谷野の『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』こそ「罪深い本」になっていないのだろうか?

 もっとも、両書共にたいして売れていないという悲しい現実はあるのだが、「ポスト真実」と言われる風潮の中で、橋本のように細かく論を練っていくよりも小谷野のような「感情論」の方がウケはいいのかもしれないが、どちらが信用できるかとなると言わずもがなであろう。


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『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

2017-01-28 00:54:30 | goo映画レビュー

原題:『Fantastic Beasts and Where to Find Them
監督:デヴィッド・イェーツ
脚本:J・K・ローリング
撮影:フィリップ・ルースロ
出演:エディ・レッドメイン/キャサリン・ウォーターストン/ダン・フォグラー/アリソン・スドル
2016年/イギリス・アメリカ

魔法使いの「見分け方」について

 主人公のニュート・スキャマンダーをエディ・レッドメインに演じさせた時点で既に成功が約束されたようなものである。若いのか老いているのかだけでなく(因みに当時33歳)、『リリーのすべて』(トム・フーパー監督 2015年)の好演により性別も超越してしまったレッドメインほど正に「魔法使い」として適役な役者は見当たらないと思うからである。(だからまだ未見ではあるが、レッドメインの向こうを張ったように見える荻上直子監督の『彼らが本気で編むときは、』の主人公のリンコを演じた生田斗真の佇まいがスベっていなければいいなと祈るのみである)。
 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(ギャレス・エドワーズ監督 2016年)や『スター・トレック BEYOND』(ジャスティン・リン監督 2016年)が「崩壊の美学」を描いたとするならば、魔法使いたちが破壊してしまった「ノー・マジ(人間)」の世界を元に戻す過程を描く本作は「修復の美学」が描かれている。
 しかしパーシバル・グレイブズが、モデスティ・ベアボーンが「オブスキュラス」だと信じ込み、彼女の兄のクリーデンス・ベアボーンが魔法使いであることを見抜けなかったことだけはどうも納得しかねる。


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『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

2017-01-27 00:30:09 | goo映画レビュー

原題:『Rogue One: A Star Wars Story』
監督:ギャレス・エドワーズ
脚本:クリス・ワイツ/トニー・ギルロイ
撮影:グレッグ・フレイザー
出演:フェリシティ・ジョーンズ/ディエゴ・ルナ/フォレスト・ウィテカー/マッツ・ミケルセン
2016年/アメリカ

観客が密かに期待する「悪夢」について

 前年に公開された『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督 2015年)の主人公がデイジー・リドリーが演じたレイという女性だったように本作のフェリシティ・ジョーンが演じる主人公のジン・アーソはこの流行に乗った女性戦士であるところは的を射ていると思うし、何よりも主要メンバーたちが「決死隊」として活躍できる「スピンオフ」作品ならでは可能な特性が上手く活かされていると思う。それは例えば『スター・トレック BEYOND(Star Trek Beyond)』(ジャスティン・リン監督 2016年)において主力艦である「U.S.S.エンタープライズ NCC-1701」号が敵に破壊される様子が詳細に描かれたシーンを観る快感と似ているような気がする。


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『バイオハザード:ザ・ファイナル』

2017-01-26 00:28:45 | goo映画レビュー

原題:『Resident Evil: The Final Chapter
監督:ポール・W・S・アンダーソン
脚本:ポール・W・S・アンダーソン
撮影:グレン・マクファーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ/アリ・ラーター/ショーン・ロバーツ/ルビー・ローズ/イアン・グレン
2016年/イギリス・ドイツ・カナダ・フランス

「客寄せパンダ」の「寿命」の短さについて

 全編旦那のポール・W・S・アンダーソンによって撮られた、ほぼ主人公のアリスを演じるミラ・ジョヴォヴィッチの「一人芝居」と断言してもいい。もちろんローラの出演は日本人観客に対する「サービス」であることは分かってはいたが、その「客寄せパンダ」の「寿命」が余りにも短いことには驚かされた。これはあくまでも想像の域を出ないが、監督が期待していたほどローラの演技に冴えがなかったのかもしれない。
 その慌ただしい映像は明らかに3D用に撮られたもので、ストーリーそのものに驚きはなかったが、あれほど頑張って敵を倒したアリスのラストシーンが結局冒頭のシーンと同じになってしまうというアイロニーは効いていると思う。


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『天使にショパンの歌声を』

2017-01-25 00:34:16 | goo映画レビュー

原題:『La Passion d'Augustine(=オーギュスティーヌの情熱)
監督:レア・プール
脚本:レア・プール/マリー・ヴィエン
撮影:ダニエル・ジョビン
出演:セリーヌ・ボニエ/ライサンダー・メナード/ディアーヌ・ラヴァリー/ヴァレリー・ブレイズ
2015年/カナダ

伝統や歴史に立ち向かう「姿勢」について

 作品内で流れる音楽そのものは悪くない。主人公のアリスを演じたライサンダー・メナードはプロのピアニストだけあってバッハやショパンの「別れの曲」など演奏には文句のつけようがないのだが、物語には問題がある。
 その修道院の寄宿学校は音楽コンクールで入賞者を輩出するなど、実績があるにも関わらず採算が取れないという理由で閉鎖されようとしている。校長のオーギュスティーヌは光熱費など節約することで存続を求めようとしている時に、彼女の姉が現われトロントで音楽の教師をするために娘のアリスを預かって欲しいと頼まれ引き受ける。アリスはピアノに関して驚くべき才能を示すのだが、独学のためにそれ以上才能が伸びないと感じたオーギュスティーヌは楽譜に正確に練習するようにアドバイスをする。
 ところが話はだんだんと雑になり、教師に叱責されたアリスが友人と寮を脱走してクラブで男性と密会したり、アリスの母親が不治の病を患って亡くなったり、異動させられることになったオーギュスティーヌが辞職後すぐに自身の音楽学校を設立出来てラストでアリスがコンクールで優勝したりと話がせわしなくとっ散らかっており、寄宿学校にいたその他の修道女たちがどうなったのかもよく分からずストーリーは消化不良のまま終わってしまっている。そもそも教室の黒板の板書から1月から4月頃の話であることは分かるが、正確な時代さえよく分からない。
 しかしそれはともかくとしてオーギュスティーヌを演じたセリーヌ・ボニエが50歳というのは驚きだ。


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『島々清しゃ』

2017-01-24 00:27:19 | goo映画レビュー

原題:『島々清しゃ(しまじまかいしゃ)』
監督:新藤風
脚本:磯田健一郎
撮影:山崎裕
出演:伊東蒼/金城実/安藤サクラ/山田真歩/渋川清彦/角替和枝/でんでん
2016年/日本

アメリカ軍が引き起こす「轟音」を理解するために

 ヴァイオリニストの北川祐子がコンサートを開催するために沖縄県の慶良間諸島の座間味村を訪れたのは2015年9月頃だろうか。そこで彼女は絶対音感のような耳の持ち主で、余りの耳の良さに米軍の飛行機のエンジン音の不調を聞き分け海に墜落することを当ててしまい地元の新聞に載った小学生の花島うみと出会う。
 ところがその耳の良さが災いして微妙な音のズレも気になってしまい、学校の吹奏楽部員たちが鳴らす楽器の音にも、エレキギターの音にも我慢できずにトラブルになっていたのだが、祖父の花島昌栄が弾く三線の音には深みを見いだせる。もちろんここには「地元の音」と「洋楽」、つまりアメリカ軍が引き起こす轟音の対照性が仄めかされているであろう。そこにやって来た祐子が奏でるヴァイオリンの音にうみが心地よさを感じるとするならば、それは日本人に解釈され、「フィルター」を通されたものだからだと思う。だから調律が微妙に狂っていることもたいして気にせずにピアノを弾かれるとうみは我慢できないのである。
 うみは祐子のように解釈することで「洋楽」を理解したいのである。だから事前にフルートを練習した上で吹奏楽部に入部しようと目論むのであるが、そんな矢先に祖父が亡くなってしまい、10月18日の吹奏楽部のコンサートは中止になってしまう。祐子が東京に戻るために船に乗ろうとする直前に、うみたちが集まって演奏を始める。その時、うみは頭にしていた耳当てを外す。那覇で踊りのレッスンを受けていた母親の花島さんごは「ダンス」を上手く習得できなかったが、うみは「洋楽」を極める決心をするのである。それは幼いながらもこのまま何もしなければ沖縄は良くならないという彼女の覚悟の現れではないだろうか? それに対して祐子は妊娠しているお腹をさすりながら島を後にする。「大和人(やまとんちゅう)」に対する皮肉に見えなくもない。


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『ピートと秘密の友達』

2017-01-23 00:03:06 | goo映画レビュー

原題:『Pete's Dragon』
監督:デヴィッド・ロウリー
脚本:デヴィッド・ロウリー/トビー・ハルブルックス
撮影:ボジョン・バッゼリ
出演:オークス・フェグリー/ブライス・ダラス・ハワード/ウーナ・ローレンス/ロバート・レッドフォード
2016年/アメリカ

年月が経つ速さについて

 交通事故により両親を失い、自身も森の中に迷い込んでしまった主人公の5歳のピートはその後6年間、人と関わることなくドラゴンのエリオットと暮していたのだが、ナタリーや森林警備員のグレースやグレースの父親のミーチャムとの出会いにより再び人間と暮すきっかけを掴む。しかしエリオットを巡って諍いが生じ、ピートはエリオットを守るために再び森の戻る決心をする。そこで重要となるアイテムがピートが亡くなった両親にプレゼントされていた絵本『Elliot Gets Lost(迷子になったエリオット)』である。
 そこに描かれていたことは自分と同じように森の中で迷っていた子犬のエリオットが家族と再会する話なのであるが、それだけならばピートは心を動かされることはなかったであろう。ピートが感動した部分はその絵本に彼の両親がピートのことを愛しているというメッセージが残されていたからなのであるが、何故かそこが字幕で翻訳されていないから分かりにくい。
 ピートが新しい家族と暮すことになるのは分かるものの、ラストにおいてドラゴンのエリオットも新しい仲間を見つけて暮らしていることは都合が良すぎるとは思うが、ディズニー作品だから仕方がないのかもしれない。
 しかし吹き替え版を観て驚いたことは、ミーチャムを演じたロバート・レッドフォードの声が完全な老人の声だったことで、吹き替えは勝部演之という78歳の声優なのだが、ロバート・レッドフォードは80歳なので文句の言いようがなく、若いイメージしかなかったロバート・レッドフォードの想像以上の「老い」に驚かされた次第である。


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『ブルーに生まれついて』

2017-01-22 00:04:20 | goo映画レビュー

原題:『Born to Be Blue』
監督:ロバート・バドロー
脚本:ロバート・バドロー
撮影:スティーヴ・コーセンス
出演:イーサン・ホーク/カーメン・エジョーゴ/カラム・キース・レニー/ダン・レット
2015年/アメリカ・カナダ・イギリス

「陰鬱に生まれた」男の人生について

 冒頭は何故かチェット・ベイカーは1966年のイタリアに滞在しており、道端に倒れていたところを警察に保護されている。そこにハリウッドの映画監督が訪れ、ベイカーをロサンゼルスに連れて帰るとベイカー自身に本人役をやらせて1954年頃の人気チャート1位で絶好調だったベイカーの半自伝的作品を撮るのだが、完成前に麻薬に絡んだいざこざで3人の暴漢に襲われ瀕死の重傷を負い、映画製作が中止になってしまう。しかし映画製作の部分はフィクションで、前歯を折られながらも痛みに耐えながら地道に練習を積みドラッグを断ち切り復活するまでがエレインという架空の女優志願の女性を通じて描かれることになる。
 ベイカーのリハビリの過程は見せるものがあるものの、ラストのオチに納得しかねる。ベイカーが漸く復帰を賭けたワンナイトライブの開催にこぎつけ、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピーらが見守る中、出番に備えているのだが、よりによってベイカーはヘロイン中毒者が治療薬として使うメタドンを2日間飲んでいなかった。リチャード・ボックに渡されたメタドンとヘロインを机の上に並べて思案しているところにエレインがライブにやって来る。ステージに現われたベイカーが最初に演奏した曲は「I've Never Been In Love Before」だった。以下、和訳してみる。

「I've Never Been In Love Before」 Ethan Hawke 日本語訳

僕はこんなに人を愛したことはなかった
いきなり今君が現われ、今後永久に君だけなんだ
僕はこんなに人を愛したことはなかった
僕の心は危なげないと思っていたし
僕は心の内情を知っていると思っていたけれど
余りにも不慣れで強烈なワインで
僕は愚かな曲に取り巻かれているから
僕の歌があふれ出るに違いない
だからどうかこの救いようのない靄の中にいる僕を赦して欲しい
僕はこんなに人を愛したことはなかったんだ

 この曲を聴いたエレインはベイカーがヘロインに手を出したことを察してベイカーからもらった指輪をボックに託してライブハウスから出て行ってしまうのだが、エレインがこの曲を聴いただけで「赦せなくなった」ことが現実的には考えにくいのである。しかしこうして和訳してみて「ワイン(wine)」を「酔わせるもの」と解釈してヘロインの暗示であるならば、分からないこともない。


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