MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ハイ・ヌーン』

2015-11-30 00:59:17 | goo映画レビュー

原題:『ハイ・ヌーン』
監督:坂本太郎
脚本:神戸一彦
出演:玉置浩二/ベンガル/角替和枝/六平直政/家富ヨウジ/青嶋達也
1992年/日本

奇妙な「ゲーム」の雰囲気の作り方について

 フジテレビで放送されたテレビドラマ『世にも奇妙な物語』の中の本作を久しぶりに観た。2015年版のリメイクと比較してみるならば、リメイクにおいては、ラストで主人公の男が大衆食堂のメニューを一通り注文した後に、再び壁に貼られたメニューの一番左に書かれていた「親子丼」を注文したことで店内にいた「観客たち」が一斉にブーイングをして、この「ゲーム」の「ルール」を忖度しろという、空気が読めない「男」に対する反感で終わるが、オリジナルでは店内の状況は静止画で処理され、その後「今日の第三試合はまったく何が起きるか全然予想がつきません。大会5日目、本大会初の延長戦に入りました」というナレーションが入り、ずっと店内で流れているラジオの高校野球の実況が効果的に使われており、「けだるい夏の日の午後」の雰囲気が上手く描かれている。
 しかし何よりも驚くことは主役を演じた若き玉置浩二のヴィジュアルの気持ち悪さで、それはリメイク版で主役を演じた和田アキ子が男に扮してもはるかに凌駕している。


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『リトルプリンス 星の王子さまと私』

2015-11-29 00:41:14 | goo映画レビュー

原題:『The Little Prince』
監督:マーク・オズボーン
脚本:イリーナ・ブリヌル/ボブ・パーシケッティ
撮影:クリス・カップ
出演:ジェフ・ブリッジス/マッケンジー・フォイ/レイチェル・マクアダムス/ジェームズ・フランコ
2015年/フランス

「Werth」が「Worth」でない理由について

 主人公の女の子と彼女の母親の2人がワース・アカデミー(Werth Academy)の入試に失敗した原因は、彼女たちが予想していた質問と違うことを選考委員に訊ねられたためなのであるが、その「What will you be when you grow up?(大きくなったら何になりたい?)」という質問は何故か2人が待っている廊下の壁に書かれており、その模範解答である「Essential(不可欠な人間)」まで書かれている。その前に、冒頭で主人公の女の子が住んでいる街並みが上空から映し出されるのであるが、その配電盤のような精確性や、その後、女の子の母親が娘のために作ったスケジュールボードの「美しさ」に無駄なものを徹底的に排除しようとする社会の傾向を感じる。
 ではその「無駄」なものとは何かと考えると、例えば、女の子の隣に住んでいる老飛行士だったり、彼のポンコツの飛行機だったり、動物のキツネだったり、いずれ枯れてしまうバラだったり、何よりもまだ社会の役に立たない女の子自身が役立てるようになるために学校に行くのである。
 「大切なものは目に見えない」という有名な言葉の真意は、人は社会をより良くしようと目に見えるものを改善して価値を高めていくのであるが、そこには必ずふるいにかけられ捨てられてしまうものが出てくる。しかしそれは目に見えないため人は気がつかないまま見逃してしまうのである。
 老飛行士が語った物語の悲しい結末に納得できなかった女の子が飛行機でたどり着いた場所は「大人の星」であり、そこには大人になってしまっていた星の王子が清掃員として大人にびくびくしながら働いていた。女の子は星の王子と、ビジネスマンが一人で貯めこんでいた星々を解放する。星の王子が愛したバラは枯れたものの、太陽の中でバラのイメージを見いだした星の王子は再び子供に戻る。
 そしてラストは女の子がワース・アカデミーで学んでいる姿が映される。既に質問と答えが壁に書かれてあったように実は全ての受験生に門戸は開かれていたのである。「Werth」が「Worth(価値)」の「なり損ない」であるとするならば、女の子は「無駄」なものを学んでいることになり、「Essential」とは「不可欠な無駄なもの」と捉えられ、そのストーリーのひねり方が上手いと思うのである。


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『FOUJITA』

2015-11-28 00:32:36 | goo映画レビュー

原題:『FOUJITA』
監督:小栗康平
脚本:小栗康平
撮影:町田博
出演:オダギリジョー/中谷美紀/アナ・ジラルド/アンジェル・ユモー/加瀬亮/りりィ/岸部一徳
2015年/日本・フランス

「藤田」が「FOUJITA」になる理由について

 かつて『眠る男』(1996年)を観ていて、観ていたこっちが爆睡してしまった苦い経験を持つ者として小栗康平監督作品を観ることはためらわれたのであるが、藤田嗣治の作品が好きなこともあり、覚悟をして観に行った。結果的にはそれほど悪い作品ではないが、小栗監督は相変わらず独特の作風で、藤田の人生を時系列に描いたような親切なものではなかった。
 しかし例えば、藤田が友人たちとカフェでくつろいでいた時に、友人の一人が高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読する。その時、隣の席に座っていたフランス人女性2人が歩いてきて「さっきから何故ジロジロ私を見ているのか」と文句を言われた藤田がいつの間にか描いていた彼女の似顔絵を彼女に渡し、逆に喜ばせてしまうのである。高村の「憧れ」が藤田にとっての「日常」であるという対照性が興味深い。おそらく藤田はフランス語が堪能で、言葉に困ることはなかったのであろう。
 後半になって藤田の『アッツ島玉砕』を見て泣き崩れた女性を見て画家としてこの上ない幸せを感じたのもつかの間、藤田の戦争画に「真実」が描かれているとして藤田は軍から睨まれ、戦後も藤田の戦争画に「真実」が描かれているとして藤田は戦争の加担者として非難されることになる。ラストは魚の塩漬けを売っている女性と藤田が言葉を交わす。女性は昔からの仕事を生業にしていると言うのであるが、それは藤田の「画」も同じなはずである。しかし日本と西洋の「折衷」のような彼の「乳白色の肌」はなかなか日本においては「正統」として認められず、それは日本人形とフランス人形が並んで置かれていたシーンにも表れている。日本人の「憧れ」を「日常」にしてしまった藤田は日本人の妬みもあってもはや「日本人」として認められず、本人の意思に反して「フランス人」と見なされてしまった藤田のフランスへの帰化はそれに応えた行動だったように見える。このような傾向はいまだに日本で見かけるものではないだろうか。


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『ダイナマイトどんどん』

2015-11-27 00:18:03 | goo映画レビュー

原題:『ダイナマイトどんどん』
監督:岡本喜八
脚本:井手雅人/古田求
撮影:村井博
出演:菅原文太/宮下順子/北大路欣也/嵐寛寿郎/金子信雄/岸田森/フランキー堺
1978年/日本

「ぶっ壊れた」野球映画の意図について

 本作が「野球映画」であるかどうかは微妙なところで、主人公の遠賀川の加助は野球経験が無いにも関わらず、いつの間にか「岡源組ダイナマイト」の4番を任されており、クライマックスの「橋伝組カンニバルス」との決勝戦もデッドボールの応酬から乱闘に発展し、バックネット裏から観戦していた米軍司令官に「This is not baseball. This is murder.(これは野球ではなく殺し合いだ)」と言われる始末である。
 しかしさすがアメリカ人で、これは慧眼というべきであろう。そもそも昭和25年の盛夏、小倉を中心としたヤクザ組織の抗争のエスカレートを防ぐために、北九州方面米軍司令官の指導の下に「民主的な喧嘩」として野球の試合が催されたのであり、組員たちは本気で野球などする気はないのである。
 ここでラストの五味徳右衛門の思い出話しを思い出してみよう。昭和19年の夏、プロ野球のセネタースとイーグルスの優勝を賭けた最後の一戦で、9回裏、セネタースのピッチャーだった五味はイーグルスの4番打者の榊原をバッターに迎えていた。1対〇で一塁にランナーを抱えた五味はここでホームランを打たれるとサヨナラ負けとなる状況なのだが、五味は敢えて榊原に打ちやすい球を投げてホームランを打たれる。この試合の後、榊原が出征することを五味は知っていたからである。不幸にも榊原はレイテ沖で戦死するのであるが、ここまで聞いた加助は自分が橘銀次の「魔球」を打てた理由が分かる。
 その時、橋伝組から決闘の申し込みを受けた岡源組はその申し込みを受けることにする。2組は残骸の中で落ち合うと、一緒に別の場所へと歩いていく。自分たちを沖縄の強制労働に駆りだした相手こそ彼らの本当の「対戦相手」だったのである。


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『劇場霊』

2015-11-26 00:58:25 | goo映画レビュー

原題:『劇場霊』
監督:中田秀夫
脚本:加藤淳也/三宅隆太
出演:島崎遥香/足立梨花/高田里穂/町田啓太/中村育二/小市慢太郎/柳憂怜
2015年/日本

3つの物語の緊密具合について

 事件の発端は20年前。3姉妹の父親は人形作りを生業にしていたが、ある日、長女が豪雨の中でクルマを運転中に崖崩れに遭遇し、亡くなってしまう。長女の亡骸の状態が余りにも酷かったために父親は長女とそっくりの人形を制作して、きれいな体で棺に納めて送り出そうとしたのであるが、その人形が生命を宿し、2人の妹を殺してしまう。父親はその人形を担いで自分の部屋に連れていき、体をぶつ切りにした後に、灯油を撒いて火を放とうとしようとしたところを駆けつけてきた警察に取り押さえられ、連行されてしまい、辛うじて生き残った人形の「頭」が20年後に再び事件を起こすのである。
 主人公の沙羅は、若さを保つために少女たちの鮮血を浴びていた実在の貴族エリザベート(=エリーザベト・バートリ?)の生涯を描く新作舞台『鮮血の呼び声』で端役を得たのであるが、人形の「頭」が使われていた球体関節人形が女性美術スタッフや主役を演じるはずだった葵など次々と殺していく。
 基軸となるストーリーはおそらく、父親の代わりに舞台監督を、2人の妹の代わりに葵と香織を殺した長女が沙羅に乗り移って生きていくというものであろうが、クライマックスにおいて警察も巻き込んだ大量死により物語の輪郭がぼやけてしまっており、もう少しストーリーに深みを持たせるために人形師の家族の設定とエリザベートの物語と舞台演劇を密に寄せるべきだったように思うが、主演を演じた島崎遥香は健闘していると個人的には思う。


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『レインツリーの国』

2015-11-25 00:41:16 | goo映画レビュー

原題:『レインツリーの国』
監督:三宅喜重
脚本:渡辺千穂
撮影:柳田裕男
出演:玉森裕太/西内まりや/森カンナ/阿部丈二/山崎樹範/麻生祐未/高畑淳子
2015年/日本

障害を楽々と克服してしまうはずの美貌について

 主人公の向坂伸行に共感しづらい。向坂は「レインツリーの国」というタイトルのブログを見つけてその管理人に連絡をとり、自分から会いたいという旨を伝えて人見利香と青山ブックセンターで会った以上、例え彼女がどのような性格であろうとも初対面なのだからある程度の覚悟を持った上であくまでも優しく丁寧に最後まで接するべきだったと思うのだが、同僚のミサコに「恋愛偏差値」が低いと指摘され、向坂本人も納得しているようで、それならば観ている方も納得するしかない。
 利香が社内では「無口」であるために「騙された」委託の男の話があるのに、何故か利香が感音性難聴であることは予告編でバラされており、そのため委託の男のように観客が驚けないことはもったいないように思う。
 クリスマスツリー前で起こった向坂と利香の唐突なシーンには感動を覚える。しかしミサコと向坂がたまたま腕を組んで会社から出てくるところを目撃してしまった利香がブログを休止してしまうのであるが、利香の誤解を解くシーンがないことには違和感を持つ。


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『起終点駅 ターミナル』

2015-11-24 00:32:41 | goo映画レビュー

原題:『起終点駅 ターミナル』
監督:篠原哲雄
脚本:長谷川康夫
出演:佐藤浩市/本田翼/中村獅童/和田正人/音尾琢真/泉谷しげる/尾野真千子
2015年/日本

本田翼の「クール」な演技について

 単身赴任で北海道の旭川で裁判官を務めていた鷲田完治は学生時代の恋人だった結城冴子と偶然再会したことをきっかけに関係が再燃し、異動と共に家族を捨てて冴子と駆け落ちするつもりだった鷲田の目の前で冴子は自殺してしまう。微笑みを浮かべながら自死する冴子と、そのような行動を全く予期しておらず慌てふためく鷲田が対照的に描かれているのであるが、これは個人的な問題ではなく、男と女の差ではないだろうか。実際に、その後釧路で弁護士として一人で生きていくことになる鷲田の隣の家に住む大村は既に妻を亡くしているようで、雨の中で花壇に水をやっていたり、鷲田の先輩である南達三は好々爺になっており、釧路地方裁判所で新人の判事補として赴任してきた森山卓志は廊下を走っている時に、注意を受けて持っていた書類を廊下にばらまいてしまうなど、本作に登場する男性たちはとにかく「落ち着き」がない。
 一方、冴子のクールさを受け継ぐように鷲田の目の前に現れた椎名敦子もクールで、約10年ぶりに戻った実家は既に廃屋同然で父親と母親と兄の子供が同じ平成18年12月7日に亡くなっていることにそれほど驚きもせず、実家の納屋で覚醒剤の作用で意識がもうろうとしていた恋人を発見しても鷲田のように介抱することもなく寧ろ死んで欲しいと願っていたりする。このような「冷酷」な女性の振る舞いに男性はあたふたするしかないのである。


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『コードネーム U.N.C.L.E.』

2015-11-23 00:12:03 | goo映画レビュー

原題:『The Man from U.N.C.L.E.』
監督:ガイ・リッチー
脚本:ガイ・リッチー/ライオネル・ウィグラム
撮影:ジョン・マシソン
出演:ヘンリー・カヴィル/アーミー・ハマー/アリシア・ヴィキャンデル/エリザベス・デビッキ
2015年/イギリス・アメリカ

 「キングスマン」と「ナポレオン・ソロ」の描き方の違いについて

 日本において同時期に公開された『キングスマン』(マシュー・ヴォーン監督 2014年)と本作を比較してみると同じスパイ映画でありながらテイストの違いがよく分かると思う。『キングスマン』においては個々のエピソードがメインストーリーを形作っていったのであるが、本作は、個々のエピソードが、主人公でCIA所属のナポレオン・ソロとKGB所属のイリヤ・クリヤキンに加えて、実はMI6所属のガブリエラ・”ギャビー”・テラーの、メインストーリーを逸脱した「愛憎劇」であるために、そこに面白みを見いだせなければ退屈かもしれない。
 ところで日本人にとって非常に興味深いものがあった。敵の追跡を逃れてソロとクリヤキンがボートで逃走を試みるのであるが、途中でソロがボートから海へ振り落とされ、岸にたどり着きトラックに乗ってワインを飲みサンドイッチを頬張りながらクリヤキンが一人で敵から逃げ回る様子をしばらく観察した後に、乗っていたトラックごと海に飛び込んでいって海底に沈んでいこうとしているクリヤキンを救出するまでにBGMとして流れている曲である。聞き間違いでなければ、それはペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)の「ガラスの部屋(Che Vuole Questa Musica Stasera)」で、お笑い芸人のヒロシがネタのBGMとして使っている曲である。つまりこの感情過多の名曲が今の日本人だけでなく西洋人にも「お笑い」のネタとして受け入れられ、まるでコブクロの「永遠にともに」がお笑い芸人の陣内智則と女優の高畑充希によって「お笑い」のネタにされているような感じで興味深いと思ったのであるが、この曲が使用されている『ガラスの部屋(Plagio)』(セルジオ・カポーニャ監督 1969年)では2人の男性が一人の女性を巡る葛藤が描かれているので、意外と真面目に引用されているのかもしれない。以下、和訳。

「Che Vuole Questa Musica Stasera」 Peppino Gagliardi 日本語訳

今夜、この曲を求めているのは誰なのだろうか?
この曲は僕にほんの些細な過去を思い出させる
月が僕の相手をしてくれるようだ
曲は僕に君のことを思い出させる
僕のものだった君を
僕だけのものだった君を

君は僕のそばにずっといてくれるはずだった
僕たちの間に障害となるようなものは今はないはずなのに
僕にはまだ君の柔らかくて甘い声が聞こえる
今は君がそのような言葉を発しても僕にはもはや何も感じないとしても

世界中を回っても君が僕にくれたような幸せは存在しない
今、僕は分かった
いつでもどんな時でも
君はもはや君ではないんだ

今夜、この曲を求めているのは誰なのだろうか?
この曲は僕にほんの些細な過去を思い出させるし
ほんの些細な愛を思い出させ
君の面影を思い出させる

今、僕は分かった
いつでもどんな時でも
君はもはや君ではないんだ

今夜、この曲を求めているのは誰なのだろうか?
この曲は僕にほんの些細な過去を思い出させるし
ほんの些細な愛を思い出させ
君の面影を思い出させる
君の面影を

PEPPINO GAGLIARDIさん『Che Vuole Questa Musica Stasera』の歌詞
ガラスノヘヤ
words by ガエタノロベルト
music by ガエタノロベルト
Performed by ペピーノガリアルディ

Peppino Gagliardi - Che vuole questa musica stasera - Musica Italiana, Italian Music


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『プール』

2015-11-22 00:05:50 | goo映画レビュー

原題:『プール』
監督:大森美香
脚本:大森美香
撮影:谷峰登
出演:小林聡美/伽奈/加瀬亮/シッティチャイ・コンピラ/もたいまさこ
2009年/日本

すれ違う「気持ち」と「編集」について

 母親の京子が祖母と娘のさよを置き去りにしてタイのチェンマイで暮らすことにした理由を「そうしたいからそうする」と説明する。もちろん、夫との関係などここでは語れなかった理由もあるのだろうが、母親と一緒に暮らしたかったという娘の告白にけっこう驚いていた京子が娘の気持ちを察した上で、それでも敢えて自身の自由の方を選んだだけの覚悟が本当にあったのかどうかは疑問である。
 演出にも疑問が残る。京子、さよ、ビーと一緒に食事をしようとした時に、市尾がビーの母親が見つかったという連絡を受けて、ビーを連れていくのであるが、市尾とビーがワーンと名乗る母親という女性と面会するシーンの間に、翌日の、ドラム式洗濯機と市尾が一人で庭に水を撒くシーンが挿入されているのである。『ラスト・ナイツ』(紀里谷和明監督 2015年)で指摘したようなショットの「つなぎ間違い」というよりも、何か意図したものではあるのだろうが、どのような効果を期待しての編集なのかはよくわからない。


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『ラスト・ナイツ』

2015-11-21 00:45:19 | goo映画レビュー

原題:『Last Knights』
監督:紀里谷和明
脚本:マイケル・コニーベス/ドブ・サスマン
撮影:アントニオ・リエストラ
出演:モーガン・フリーマン/クライヴ・オーウェン/アクセル・ヘニー/伊原剛志
2015年/アメリカ

内容が無いストーリーの利点について

 前作『GOEMON』(2009年)から6年の間に紀里谷監督が学んで良かったことの一つに、脚本は他人に任せるということがあるだろうが、忠臣蔵をベースにしたその脚本は設定が緩すぎて、物語はあって無きがごとく、結局『CASSHERN』(2004年)、『GOEMON』と同様にただの「戦隊もの」となっている。しかし皮肉なことにストーリーに内容がないために今までのような物語の破たんはなく、そういう意味では安心して観ていられると思っていたのであるが、さすが紀里谷監督、ラストシーンはとんでもない結末が用意されていた。
 宿敵のギザ・モットを討った後に、主人公のライデンが妻のナオミに会うために家に帰る。ナオミはライデンに対して、敵を欺くための芝居は辛くはなかったが、ずっとライデンの身を案じていることが辛かったと告白する。当然ナオミはライデンが無事でいられると思って安心していたはずなのであるが、その次のシーンはライデンが処刑されるシーンで、ナオミの想いを処理しないままのシーンのつなぎ方は唐突すぎると思う。戦闘シーンには力を入れるのに、それ以外のシーンは本気になれない監督のいつもの癖が出てしまっている。本国アメリカでヴィデオスル―になった理由が分かる。


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