原題:『The Little Prince』 監督:マーク・オズボーン 脚本:イリーナ・ブリヌル/ボブ・パーシケッティ 撮影:クリス・カップ 出演:ジェフ・ブリッジス/マッケンジー・フォイ/レイチェル・マクアダムス/ジェームズ・フランコ 2015年/フランス
「Werth」が「Worth」でない理由について
主人公の女の子と彼女の母親の2人がワース・アカデミー(Werth Academy)の入試に失敗した原因は、彼女たちが予想していた質問と違うことを選考委員に訊ねられたためなのであるが、その「What will you be when you grow up?(大きくなったら何になりたい?)」という質問は何故か2人が待っている廊下の壁に書かれており、その模範解答である「Essential(不可欠な人間)」まで書かれている。その前に、冒頭で主人公の女の子が住んでいる街並みが上空から映し出されるのであるが、その配電盤のような精確性や、その後、女の子の母親が娘のために作ったスケジュールボードの「美しさ」に無駄なものを徹底的に排除しようとする社会の傾向を感じる。 ではその「無駄」なものとは何かと考えると、例えば、女の子の隣に住んでいる老飛行士だったり、彼のポンコツの飛行機だったり、動物のキツネだったり、いずれ枯れてしまうバラだったり、何よりもまだ社会の役に立たない女の子自身が役立てるようになるために学校に行くのである。 「大切なものは目に見えない」という有名な言葉の真意は、人は社会をより良くしようと目に見えるものを改善して価値を高めていくのであるが、そこには必ずふるいにかけられ捨てられてしまうものが出てくる。しかしそれは目に見えないため人は気がつかないまま見逃してしまうのである。 老飛行士が語った物語の悲しい結末に納得できなかった女の子が飛行機でたどり着いた場所は「大人の星」であり、そこには大人になってしまっていた星の王子が清掃員として大人にびくびくしながら働いていた。女の子は星の王子と、ビジネスマンが一人で貯めこんでいた星々を解放する。星の王子が愛したバラは枯れたものの、太陽の中でバラのイメージを見いだした星の王子は再び子供に戻る。 そしてラストは女の子がワース・アカデミーで学んでいる姿が映される。既に質問と答えが壁に書かれてあったように実は全ての受験生に門戸は開かれていたのである。「Werth」が「Worth(価値)」の「なり損ない」であるとするならば、女の子は「無駄」なものを学んでいることになり、「Essential」とは「不可欠な無駄なもの」と捉えられ、そのストーリーのひねり方が上手いと思うのである。
本作が「野球映画」であるかどうかは微妙なところで、主人公の遠賀川の加助は野球経験が無いにも関わらず、いつの間にか「岡源組ダイナマイト」の4番を任されており、クライマックスの「橋伝組カンニバルス」との決勝戦もデッドボールの応酬から乱闘に発展し、バックネット裏から観戦していた米軍司令官に「This is not baseball. This is murder.(これは野球ではなく殺し合いだ)」と言われる始末である。 しかしさすがアメリカ人で、これは慧眼というべきであろう。そもそも昭和25年の盛夏、小倉を中心としたヤクザ組織の抗争のエスカレートを防ぐために、北九州方面米軍司令官の指導の下に「民主的な喧嘩」として野球の試合が催されたのであり、組員たちは本気で野球などする気はないのである。 ここでラストの五味徳右衛門の思い出話しを思い出してみよう。昭和19年の夏、プロ野球のセネタースとイーグルスの優勝を賭けた最後の一戦で、9回裏、セネタースのピッチャーだった五味はイーグルスの4番打者の榊原をバッターに迎えていた。1対〇で一塁にランナーを抱えた五味はここでホームランを打たれるとサヨナラ負けとなる状況なのだが、五味は敢えて榊原に打ちやすい球を投げてホームランを打たれる。この試合の後、榊原が出征することを五味は知っていたからである。不幸にも榊原はレイテ沖で戦死するのであるが、ここまで聞いた加助は自分が橘銀次の「魔球」を打てた理由が分かる。 その時、橋伝組から決闘の申し込みを受けた岡源組はその申し込みを受けることにする。2組は残骸の中で落ち合うと、一緒に別の場所へと歩いていく。自分たちを沖縄の強制労働に駆りだした相手こそ彼らの本当の「対戦相手」だったのである。
原題:『The Man from U.N.C.L.E.』 監督:ガイ・リッチー 脚本:ガイ・リッチー/ライオネル・ウィグラム 撮影:ジョン・マシソン 出演:ヘンリー・カヴィル/アーミー・ハマー/アリシア・ヴィキャンデル/エリザベス・デビッキ 2015年/イギリス・アメリカ
「キングスマン」と「ナポレオン・ソロ」の描き方の違いについて
日本において同時期に公開された『キングスマン』(マシュー・ヴォーン監督 2014年)と本作を比較してみると同じスパイ映画でありながらテイストの違いがよく分かると思う。『キングスマン』においては個々のエピソードがメインストーリーを形作っていったのであるが、本作は、個々のエピソードが、主人公でCIA所属のナポレオン・ソロとKGB所属のイリヤ・クリヤキンに加えて、実はMI6所属のガブリエラ・”ギャビー”・テラーの、メインストーリーを逸脱した「愛憎劇」であるために、そこに面白みを見いだせなければ退屈かもしれない。 ところで日本人にとって非常に興味深いものがあった。敵の追跡を逃れてソロとクリヤキンがボートで逃走を試みるのであるが、途中でソロがボートから海へ振り落とされ、岸にたどり着きトラックに乗ってワインを飲みサンドイッチを頬張りながらクリヤキンが一人で敵から逃げ回る様子をしばらく観察した後に、乗っていたトラックごと海に飛び込んでいって海底に沈んでいこうとしているクリヤキンを救出するまでにBGMとして流れている曲である。聞き間違いでなければ、それはペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)の「ガラスの部屋(Che Vuole Questa Musica Stasera)」で、お笑い芸人のヒロシがネタのBGMとして使っている曲である。つまりこの感情過多の名曲が今の日本人だけでなく西洋人にも「お笑い」のネタとして受け入れられ、まるでコブクロの「永遠にともに」がお笑い芸人の陣内智則と女優の高畑充希によって「お笑い」のネタにされているような感じで興味深いと思ったのであるが、この曲が使用されている『ガラスの部屋(Plagio)』(セルジオ・カポーニャ監督 1969年)では2人の男性が一人の女性を巡る葛藤が描かれているので、意外と真面目に引用されているのかもしれない。以下、和訳。
「Che Vuole Questa Musica Stasera」 Peppino Gagliardi 日本語訳