MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『幻影都市のトポロジー』の版画について

2023-06-22 00:58:06 | 美術


「女神ヴァナデの廃墟と化した神殿の構築
(Construction d'un temple en ruine à la déesse Vanadé)」(1975年)

 フランスの小説家のアラン・ロブグリエがベルギーの画家のポール・デルヴォー(Paul Delvaux)と組んで作った画集が『女神ヴァナデの廃墟と化した神殿の構築』で、その後、同テキストはロブグリエが加筆修正して他のテクストと組み合わせて『幻影都市のトポロジー(Topologie d'une cité fantôme)』(1976年)として上梓されることになる。
 ということで、上の版画は画集に収録された11の作品の内の一つなのだが、この作品に関する部分を引用してみる。

「書割から第一印象でここは監獄のように思われるのだが、というのは見えている四つの窓がいかにも高いところにあるため、室内の娘たちには手が届かないほどで、たとえなかのふたりがテーブルのひとつに乗っておまけに肩車をしてすら、依然手が届かないほどだからである(L'impression immédiate donnée par le décor laisse imaginer que l'on est ici dans une prison, car les quatre fenêtres visibles ont été placées si haut qu'elles demeurent hors de portée pour les filles qui se trouvent à l'intérieur, même dans le cas où deux d'entre elles monteraient sur l'une des tables et se feraient par surcroît la courte échelle.)。」(p.16)

「トランプ遊びの一組はしたがって部屋の右手の部分に位置している。中央の、だがもっと奥のほうによって、第二の一組が控えている。すなわち、あの髪のながいブロンドの娘をモデルにつかいながら、仲間の女絵かきが、腰掛けて、やっぱりはだかのままで、ながい絵筆を右手にもち、縦が横の二倍くらいあるカンヴァスを固定した画架にむかっている。画家の姿勢(組んだ足首、太腿のあわいにやすめた左手、少々のけぞらせた上体)や、その身体のむき(斜めうしろを左よりから見せている)や、腰をおろしたエナメル塗の木製の椅子までなら、前景で顔を右へめぐらせて壁の日射の斑紋を眺めているトランプ遊びの娘の場合と、まったく瓜ふたつである(Le groupe des joueuses est donc situé dans la partie droite de la pièce. Au centre, mais plus vers le fond, se tient un second groupe : celui où la fille à longs cheveux blonds sert de modèle à une compagne peintre, assise, nue aussi, un long pinceau dans la main droite, devant un chevalet où se trouve fixée une toile rectangulaire, deux fois plus haute que large environ ; la posture de l'artiste (les chevilles croisées, la main gauche reposant entre les cuisses, le buste un peu rejeté en arrière), son orientation (elle est vue de trois quarts dos, du côté gauche), sa chaise de bois laqué, sont exactement semblables à celles de la joueuse de cartes qui, au premier plan, regarde la tache de soleil sur le mur, la tête tournée vers la droite ;)。」(p.18)

「そのふたりはやや引きさがり、ぴたりとよりそって立っているが、なかで年下のなにも着ていないほうの娘が、もっと背丈があり、もっと威厳があり、高々と巻髪に結いあげ、波形の襞があちこち床まで垂れる古代風の白いトーガをまとった女の、腰と片方の乳房にしどけなく凭れかかっている(; ces deux dernières se tiennent un peu en retrait, debout l'une contre l'autre, la moins âgée dévêtue, s'appuyant avec mollesse sur la hanche et le sein d'une femme plus grande, plus majestueuse, coiffée d'un haut chignon et habillée d'une sorte de toge blanche à la mode antique dont les plis drapés retombent par endroit jusq'à terre.)。」(p.19)

 作品とテキストが合っているようで合っていないのであるが、どうしてこうなったのか調べていたら、最初にロブグリエがテキストを書いて、それを読んでインスピレーションを得たデルヴォーが作品を制作したからなのである。一般的には最初に絵があって、その絵を作家が文章で描写するものだが、それにも関わらず作品とテキストが合ってない理由を勘案するならば、ロブグリエの文章にデルヴォーの筆致が追い付かなかったのか、敢えてデルヴォーが「崩した」のか、『幻影都市のトポロジー』に収録する際にロブグリエが文章を変えたのかよく分からない。ロブグリエは1985年や1996年にも来日しているのだから、これくらいは本人に直接訊いて訳者あとがきに書いておいて欲しかった。


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世界的名画の宿命について

2021-05-06 00:59:10 | 美術


(2021年4月29日付毎日新聞朝刊)

 中国外務省副報道局長の趙立堅(ジャオ・リージエン)報道官が葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(1831年-33年)をパロディ化した中国人のイラストレーターの風刺画を「もし葛飾北斎が今生きていたら、彼も日本の放射性廃水問題に大いに関心を持っただろう」というコメントと共にTwitter上で紹介したことに、茂木敏充外相は28日の衆院外務委員会で、「中国に対して厳重に抗議する」と述べ、「心ない書き込みは、あってはならない」とも指摘し、平沢勝栄復興相は30日の記者会見で、「(処理水が海を)汚染させる感じに事実を歪曲し、名画を冒涜する形で報道したのは極めて遺憾だ」と批判し、中国側に強く抗議する考えを示したのだが、この人たちは普段美術館に行かないという教養の無さを自ら吐露したことにしかなっていないと思う。
 例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』(1500年代初期)はマルセル・デュシャンの『L.H.O.O.Q.』(1919年)を始めとして散々イジられており、寧ろイジり倒されてこそ「なんぼ」なのである。だから茂木も平沢も文句を言うのならば、不本意ではあろうが自分たちが推進したエネルギー政策の陥穽をつくきっかけを作った北斎に文句を言わなければならないのである。


(『微笑(Le rire)』ウジェーヌ・バタイユ(Eugène Bataille))(1883年)

 印象派の父と呼ばれているエドゥアール・マネ(Édouard Manet)には『オランピア(Olympia)』(1863年)という作品がある。

 この作品はイタリアの画家のティツィアーノ(Tiziano)の『ウルビーノのヴィーナス(Venere di Urbino)』(1538年)を茶化したものであり、「心ない書き込み」とか「名画を冒涜」とかいう甘っちょろい感傷などあったものではないのである。


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/recordchina/world/recordchina-RC_875522


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和田彩花『乙女の絵画案内』

2021-03-20 00:56:22 | 美術

 ハロー!プロジェクトのアイドルグループであるアンジュルムの元メンバーで初代リーダーの和田彩花が2014年4月1日に刊行した本書は、西洋美術やクラシック音楽の案内書にありがちな堅苦しさがなく、「初心者」の視線をベースにした分かりやすい良書だと思う。
 しかし本書に名画に紛れて挿入されている和田本人の3葉のスナップショットは東京の三菱一号館美術館で撮影されたものであるが、あまりにも芸が無さすぎると思う。せめて森村泰昌の「セルフ・ポートレート」のように取り上げた作品を自ら被写体になって「コピー」してみる試みがあってもよかったように思うのだが、予算がなかったのだろうか?
 ところで和田がキュレーターとして出演し、日曜日の早朝に放送されている『キャラダチミュージアム~MoCA~』は名画と共に様々な映像が流されているが、結局一番の見所は和田本人の美しさだと思う。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/dwango/entertainment/dwango-59360


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ジャン=フランソワ・ミレー『鵞鳥番の少女』の行方

2021-03-19 00:50:51 | 美術

筒井康隆の『着想の技術』(新潮文庫 平成元年九月二十五日)を読んでいたら驚くべきことが書かれていた。「藝術新潮」の昭和五十五年八月号に掲載された「鵞鳥番の少女(La Gardeuse d'oies)」というエッセイで筒井がこのジャン=フランソワ・ミレーの作品を購入したというのである。

「貯金はすべておろし、ロマジン(Mikhail Romadin ロシアの画家)も手離した。勿論それでも足りないから残りは月賦だが、それとて並たいていではない。出版社二社から前借りもした。払い終ったのは一年と数ヵ月後である。ぼくは数キロ痩せた。」(p.203)

 ということで筒井は「鵞鳥番の少女」を応接室に飾っていたのであるが、これで話は終わらない。『笑犬樓の逆襲』(新潮文庫 平成十九年八月一日)を読んでいたら「噂の真相」の2001年8月号に掲載された「ミレー『鵞鳥番の少女』を手放した」というエッセイが書かれていたのである。断筆宣言をした上に書物が売れなくなってきて、それでも税金は払わなければならない状況に追い込まれている。

「そうこうしているうちに、以前からの生活を改める気など毛頭ないものだから、貯金が底をつきはじめた。わしは税金の支払いと収入の、バランスすれすれの綱渡りが面白くなくもなかったのだが、家人が不安に駆られ、なんとかしろと言い出した。考えてみればわしも六十六歳になる。今まで通りに仕事ができると思っているのは自分だけで、一般にはいつ急死してもおかしくない歳である。少しでも家計を楽にしておいた方がいいかもしれぬと思い、しかたなく、ついに家宝として所持していた、ミレー後期の傑作とされる『鵞鳥番の少女』を手放した。さいわい買ったときの金額とさほど変わらぬ値段で売れたのだが、これも銀行に返すべき金の半分以下に過ぎない。」(p.193)

 ということで現在『鵞鳥番の少女』は東京富士美術館に所蔵されている。


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本物の「美術館女子」について

2020-07-03 00:54:28 | 美術


(2020年6月24日付毎日新聞夕刊)

 全国の公立美術館約150館が加盟する美術館連絡協議会(美連協)と読売新聞のプロジェクトだったのだが、事実上の中止になった。
 このプロジェクトの問題は第一に美術館に携わっているキュレーターに世界レベルの作品を扱っているという矜恃がなかったことで、第二にはアイドルに詳しくない人がとっくに旬を過ぎたAKB48の「チーム8」を売り出そうという邪心があったことだと思う(個人的には小栗有衣は嫌いではないけれど)。
 例えば、ハロプロの「アンジュルム」の元メンバーだった和田彩花は大学院で美術の勉強をしているし、乃木坂46の元メンバーの若月佑美は何度も「二科展」で入選しており、欅坂46のメンバーである佐藤詩織は武蔵野美術大学を卒業してコロナ禍で叶わなかったが美術を勉強しに留学しようとしていたくらいで、要するに美術を語れるアイドルがいないわけではないのである。
 どこの広告代理店が企んだプロジェクトかは分からないが、美術にもアイドルにも無知な人たちが企画したとしか思えないのだが、このプロジェクトに関わった人たちは本当に「美」に興味があるのだろうか?

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASN6X4J6XN6XPTFC008


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『乃木坂46セカンド写真集 1時間遅れのI love you』について

2020-06-21 00:39:35 | 美術

 『乃木坂46セカンド写真集 1時間遅れのI love you』は2016年8月に出版されている。この写真集に納まっている気になる一葉の写真について書いておきたい。

 この写真に写っている手を繋いでいるメンバーが誰なのか普通に想像するならば、その前ページに掲載されている齋藤飛鳥と西野七瀬だと判断しがちである。

 確かに右の齋藤飛鳥はその通りなのだが、着ている水着が違うから左は西野七瀬ではないのである。それではもう一人のメンバーが誰なのか水着を頼りに探してみるも、同じ水着を着たメンバーは見当たらないのである。
 実は「答え」はネットにあって、この写真集のプロモーションとして使われたアナザーカットに同じ水着を着たメンバーがいて、それが2期生の伊藤純奈だったのである。そもそも出題されていない「問題」を見つけ出して解くということが写真集を見る醍醐味であるならば、この写真集もまた良いものだと思う。
 例えば、80年代に新進気鋭のソングライターたちがアイドルの楽曲制作に携わることで、名曲を量産したように、アイドルの写真集でも同様のことが行なわれていたとしてもおかしくはないと思うのだが、「アイドルファン」と「写真ファン」が重なることはほぼゼロだろうから、誰がこの写真集に真価を見いだすのかという問題は残ったままである。


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西野七瀬ファースト写真集『普段着』について

2020-06-20 00:56:12 | 美術

 いまだに写真集をどのような観点から評価するべきなのかが分からない。
 例えば、乃木坂46というアイドルグループのメンバーだった西野七瀬が2015年2月に出版したファースト写真集『普段着』の、アイドルの写真集として評判が良くない理由は、モノクロ写真が多用されたり、不必要と思われる余白をわざわざ入れたり、見開きで顔のアップの写真を載せているために折り目で顔が割れてしまっていたりするからである。
 しかし撮影を担った藤代冥砂はベテランのカメラマンで、アイドルの写真集の撮り方を知らないわけではない。

 例えば、白石美帆が2002年3月に出版した『白石美帆写真集 dear HONEY!!』はグラビアの写真集として見本のような出来で、藤代冥砂が携わっている。

 ところが藤代冥砂の全ての写真集をチェックしているわけではないのだが2003年5月に出版されたMEGUMIの『Pétunia』から急に作風が変わり、『普段着』と同じような写真構成で、2004年8月に出版された白石美帆の『Transit』も同様な作風である(それにしても白石に右腕を上げさせてMEGUMIに左腕を上げさせているところは藤代の意図を感じる)。

 それでは『普段着』が写真集として出来が良くないのかというとそうでもないと思える理由は、例えば、西野七瀬が漫画喫茶の個室で寝そべっているカットが写真集の最初と最後にあり、ちょうど写真集の真ん中でアパートの一室で同じポーズで西野が寝そべっており、前半が関西で、後半が関東で撮られた写真が掲載されていたり、あるいは同じカットが並べられても、片方の写真では西野が目をつぶっていたりする。
 つまり何度も見返して新しい発見がある写真集が良いものだと判断するのならば、写真家の「企み」が秘められた『普段着』は良い写真集だと思うのである。

 西野七瀬は1年半後の2016年9月にセカンド写真集『風を着替えて』を出版している。

 『普段着』と違い典型的なアイドル写真集で、ファンが期待していたものだったようで売り上げも良かったようなのだが、同時にカメラマンの「クリエイティビティ」とは何なのか考えさせられてしまうのである。


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シニェイ・メルシェ・パールの作風について

2020-01-25 12:45:39 | 美術

 現在、六本木の国立新美術館で催されている『ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年』ではポスターにも掲載されているシニェイ・メルシェ・パール(Szinyei Merse Pál)の『紫のドレスの婦人(Lady in Violet)』(1874年)を観ることができる。
 時代背景を勘案するならばパールは印象派の画家と見なされる。確かに補色を駆使した色鮮やかな画風は印象派の特徴ではあるのだが、例えば、下の作品のように、パールはリアリズムに徹しており、フランスの印象派よりもモダンアートに近いように見える。この画力で保守層から批判されたというのだから、へそを曲げて美術の世界からいったん姿を消した理由も理解できる。


(『ひばり(The Skylark)』 1882年)


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『坂田一男 捲土重来』

2020-01-25 00:53:53 | 美術

 現在、東京ステーションギャラリーで催されている『坂田一男 捲土重来』は岡崎乾二郎監修によるものである。日本における唯一のキュビスムの画家と言ってもいいのだが、画壇から距離を置いて岡山県で活動していたために人口に膾炙していないのである。
 1921年にフランスに渡った坂田はフェルナン・レジェ(Fernand Léger)に師事しており、だから坂田のスタイルもキュビスムを継承しているのである。


(『コンパス』1949年)

 しかしレジェがポップな作風に移行していったことに対して、坂田の作風は暗くなっていくのだが、坂田はオトン・フリエス(Achille-Émile Othon Friesz)にも師事しており、つまり坂田の作風はキュビスムから日本画風のフォーヴィスムへと変化しているように見えるのである。


(『力学的構成』1956年)

 しかし坂田のほとんどの作品には制作年が記されておらず、どのように変化を遂げたのかよく分からない。


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友好を阻害する日本の表現の不自由について

2019-11-26 00:25:08 | 美術


(2019年11月21日付毎日新聞朝刊)

 日本・オーストリアの友好150周年を記念して、ウィーンの美術館「ミュージアム・クオーター」で9月下旬から開かれている美術展「ジャパン・アンリミテッド」について、日本の外務省が先月末、記念事業としての公認を取り消した。会田誠の「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」やブブ・ド・ラ・マドレーヌと嶋田美子の「1945」が日本の首相や昭和天皇などを題材にしたためにツイッターなどで「反日」だと批判されて外務省が怯んだようである。
 キュレーターのマルチェロ・ファラベゴリによれば、今回の美術展では両国が友好150周年で関係が深まっている時期であることを考え、日本では通常、表現しにくいテーマを扱った作品を集めようと考えたらしい。
 ある意味、キュレーターの想像を超えた表現の不自由さを現代日本に見いだされてしまった感がある。オーストリア政府が75%出資するミュージアム・クオーターは、日本の対応を受けて「表現の自由は守らなければならない。我々は美術家のアイデアを表現する場を提供する義務がある」との声明を出し、墺日協会のディータード・レオポルド会長も「日本の決定は表現の自由を侵害している。我々がこの決定によって起こりうる問題を克服できることを願っている」とするコメントを発表した。
 実際に作品を観ていないために、記事を読んだ範囲内でのコメントしかできないが、会田誠の作品は日本の総理大臣と名乗る男が勝手に国際会議で演説している様子を面白おかしく表現しているだけだし、ブブ・ド・ラ・マドレーヌと嶋田美子の共同作品は昭和天皇とマッカーサーの写真の昭和天皇の立ち位置に女性がいるだけであり、「反日」でさえないのである。
 もはや4、5人くらいで騒げば官僚をコントロールすることができるチョロさで、今回の騒動で表現の自由に関して日本の恥を世界に晒してしまった感しかない。今後、表現を不自由にしたまま日本政府はどのようにして外国から信用を得られるようにするのだろうか?


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