MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ハドソン川の奇跡』

2016-09-30 00:01:44 | goo映画レビュー

原題:『Sully』
監督:クリント・イーストウッド
脚本:トッド・コマーニキ
撮影:トム・スターン
出演:トム・ハンクス/アーロン・エッカート/ローラ・リニー/マイク・オマリー
2016年/アメリカ

調査員と評論家の違いについて

 本作と類似した映画として既に『フライト(Flight)』(ロバート・ゼメキス監督 2012年)という名作があるが、本作はあくまでも実際に起こった事故を忠実に映画化したものであり、主人公で機長のチェスリー・サレンバーガーのバックグラウンドが詳細に描かれることはないために物語に捻りがないものの、事故の過程が丁寧に描かれ緊迫感は十分に感じられる。
 しかしこの作品をクリント・イーストウッドの「映画論」として捉えることができなくもない。撮り終えた映画に関してあれやこれやと文句を言うことは簡単なことである。それは事故の詳しいデータを基に他のパイロットがシミュレーターで近隣の飛行場に戻ることはできるのであるが、かつてなかった事故に遭遇した際に、わずか30秒強に的確な判断を下して乗員乗客155名全員を救出することはシミュレーターでは計れないサリーの気質や才能の問題であり、それはもちろんかつてなかった作品を決められた期間で撮らなければならない映画監督にも当てはまるものであろう。
 国家運輸安全委員会の調査員たちが悪者扱いになっていることは気の毒に見える。彼らは調査員である以上、できるだけ安全の可能性を探る義務があり、彼らの厳しい追及によってこそサレンバーガーは本物の英雄になれたのだから。
 テーマソングのティアニー・サットン(Tierney Sutton)が歌う「フライング・ホーム(Flying Home)」が素晴らしかったので和訳しておきたい。

「Flying Home」 Tierney Sutton 日本語訳

あなたと別れることはつらい
あなたはいつでも私を受け入れて
何でも最後まで助けてくれるから
あなたはどこから始めるべきか分かっている
私はここで自分のためにあはたが必要なの
だってあなたはいつだって私の気持ちを理解してくれるから
私たちの気持ちが変わって
離ればなれにならなければならないなんて私には信じられない

でももしもあなたが彼女の瞳の中に愛を見つけたのならば
全ては上手くいくはず
もしも彼女の心の揺れ方が分かるのならば
彼女は彼女がいるべき場所に飛んでいく
生まれ出て家に飛んでくる天使を私たちが見るために生きていたなんて
私には全く信じられなかった

あなたが笑顔でいるのが分かればそれで良いの
あなたはいつだって私の手を握りしめて
天国から見ていてくれて
いつでも分かってくれるから
私たちはあなたを表に連れて行き
私たちがすることを全て取り入れる
私たちはあなたがどれほど私たちを愛してくれているのか分かるだろう
優しくて誠実な魂を理解するだろう

でももしもあなたが彼女の瞳の中に愛を見つけたのならば
全ては上手くいくはず
もしも彼女の心の揺れ方が分かるのならば
彼女は彼女がいるべき場所に飛んでいく
生まれ出て家に飛んでくる天使を私たちが見るために生きていたなんて
私には全く信じられなかった

 敢えてあまり深くは説明しないが、娘が生まれ、夫との関係に変化が生じた妻の気持ちが歌われていると思う。

 というようなことを書いていたら本ブログの唯一の読者の貴重な指摘によって訳した歌詞が間違っていたことに気がついた。上の訳詞はシャンタール・クレヴィアジック(Chantal Kreviazuk)の同名曲で、本作に使用されている曲はティアニー・サットン(Tierney Sutton)の「Flying Home」だった。もったいないので前の和訳は残したままサットンの曲の和訳をしておきたい。

「Flying Home」 Tierney Sutton 日本語訳

あなたの話を聞かせてよ
私のも話してあげるから(I'll tell you mine)
私にあなたの歌を歌って
私も一緒に口ずさむから
私をそばに引き寄せて
私にきらきらとした歌を聴かせて欲しいの
この降る雪の中
迷宮に立たされていることは間違いない
あらゆるものさしを使って
真実にたどり着こうと熟慮している
どうやって私たちお互いが今後の世界で立ち上がっていこうかと
あなたの苦悩の中に私のものも見えるだろう
いまだにあなたは一人で旅を続けるのだ
あなたはこの星のために生まれ
風雨にさらされなければならない
本物の冬の風が通りすぎる場所で
あなたは重大な時期に直面したのだ
あなたと私は自分たちが見つけることができる道を歩いて
一緒に波に乗って行けるだろう

あなたの話を聞かせてよ
私のも話してあげるから
私にあなたの歌を歌って
私も一緒に口ずさむから
調節器で光量を調節しながら夜を更けさせよう
夜明けが来ることを信じながらも
私たちは朝に希望が持てない
最終的に私たちは一緒に波に乗って行けるだろう
一緒に家に飛んで帰るんだ

Flying Home (Sully)


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『白い帽子の女』

2016-09-29 00:21:30 | goo映画レビュー

原題:『By the Sea』
監督:アンジェリーナ・ジョリー・ピット
脚本:アンジェリーナ・ジョリー・ピット
撮影:クリスティアン・ベルガー
出演:ブラッド・ピット/アンジェリーナ・ジョリー・ピット/メルヴィル・プポー/メラニー・ロラン
2015年/アメリカ

 夢想家の夫と現実主義者の妻の違いについて

 主人公のアメリカ人の作家のローランドとかつてダンサーとして活躍していた妻のヴァネッサは、例えば、サングラスの置き方でさえ正反対であるほど備えている価値観が違っている。だから2人で滞在している南フランスのリゾートホテルの隣室の新婚のカップルの様子を覗くことに対する思いも違っている。
 下心を持ちながらローランドは自分が隣室を覗いている最中にヴァネッサが隣の部屋に滞在している夫のフランソワに会いに行ったことに激怒する。ローランドの、妻に対する反応は常識的なものではあろう。しかしヴァネッサが何故「覗き」という行為をしていたのか勘案するならば、フランソワとレアという若いカップルにかつての自分たちを重ねてヴァネッサは「観て」いたはずで、フランソワに会いに行った理由も、その「若き頃」に戻りたいという願望によるものだったのであろう。ここにはフランスの小説家のアラン・ロブ=グリエ(Alain Robbe-Grillet)の小説『嫉妬(La Jalousie)』(1957年)の影響が感じられなくはない。
 ホテルに滞在中にローランドは『By the Sea(海辺にて)』という小説を書きあげる。ローランドは毎日漁に向かう小舟を「たゆたう」自分たち自身に重ねて表現するのであるが、ヴァネッサは毎日漁に出るのに収穫がほとんど無いまま、それでも満足そうに帰って来る漁師を小バカにしている。夢想家の男と現実主義者の女の違いが浮き彫りになる理由は、やはり子供を産むのは女性だからかもしれない。
 それにしてもセルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)の音楽の威力は凄い。アメリカ映画なのにフランス映画にしか見えなかった。


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「Train of Thought」 a-ha 和訳

2016-09-28 17:04:26 | 洋楽歌詞和訳

a-ha - Train Of Thought

a-haさん『TRAIN OF THOUGHT』の歌詞
トレインオブソウト
words by ポールワークター
music by ポールワークター
Performed by アーハ

 本を読んでいて「知覚の連続(perceptual train)」という言葉を見て、この曲を思い出した。

ヴィデオのイメージに囚われて「Train」を列車のことだと思い込んでいたのである。この

「思考の連なり(train of thought)」という曲を和訳しておきたい。

 「Train of Thought」 a-ha 日本語訳

彼は朝刊のクロスワードパズルを解くのが好きだ
言葉が浮かんでは消え
前後したりしている内に絡まり合う
彼は小型のスーツケースから手紙の束を掴みだし
オフィスの中へと消えていく
こうして労働の日々が続くんだ

裸電球の廊下を歩きながら
彼は奇妙な思考に囚われているが
彼の心は理屈っぽかった
今は見た目を超える何かがある
それは他人の顔で
彼と共に旅をするんだ

彼は地下鉄では少しでも読書ができればいいし
誰も知らない遠方のラジオ局にチューニングを合わせられればいい
地元に戻れば家が彼を待っている
彼はドアに鍵をかけない
かつてここには海があったと思いながら
ドア(=家)さえなかったのだ

彼は奇妙な思考に囚われている
彼の両目は麻痺して見えない
彼が知っていることは何もなかったし
自分の居場所さえない
何がどうであろうとも

裸電球の廊下を歩きながら
彼は奇妙な思考に囚われているが
彼の心は理屈っぽかった
今は見た目を超える何かがある
それは他人の顔で
彼と共に旅をするんだ

 このように訳してみると歌詞は、言葉を使う限り人は誰にでも「大文字の他者(Grand Autre)」が

侵入してきて、その「彼(MVで最後に唐突に出てくる帽子を被った男)」と付き合っていかな

ければならないというフランスの精神分析家のジャック・ラカンの思想が表現されているように思う。

それにしてもこの頃のポール・ワークター=サヴォイが書いた曲は今聴いても素晴らしい。


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「格差」と「不平等」の違い

2016-09-27 23:27:14 | Weblog

小泉今日子と語った上野千鶴子 小泉の不敵な笑みを絶賛
岸田外相「大変遺憾」…TPP文書の和訳ミス

 今日の毎日新聞の夕刊の「読書日記」に社会学者の上野千鶴子が驚くべきことを書いていたので引用しておく。

「そのピケティの師にあたるアンソニー・アトキンソンの著書『21世紀の不平等』が訳出された。ピケティの原著は2013年、アトキンソンの原著は15年。師よりも有名になったピケティの『序文』をつけて2年後に出版されたこの本は、ピケティ効果のおかげで売れることを期待されたのだろう。同じくらいの厚みと同じ判型のハードカバーの本書は、ピケティの本を意識して、白と黒の対比もあざやかに、邦題も『21世紀の......』とつけられている。
 原題はずばり『不平等』だ。ピケティの翻訳者でもある山形浩生の『解説』を読んで、もっと驚くことになる。山形は、ピケティの本では、『不平等』を『格差』と訳した。訳者は『この訳し分けに意味はない』というが、とんでもない。『格差』と『不平等』ははっきり使い分けられている。『格差』は合理的根拠のある違い、『不平等』は正当化できない差別を言う。政府が『格差』を使っても『不平等』と決して言えないのはそのせいだ。」

 全く上野の言う通りで、山形浩生は時々全く訳のわからない間違いを犯す。山形にとって翻訳とは金持ちの手慰みのようなものだから「格差」と「不平等」の違いなど気にならないのだろうが、トマ・ピケティの『21世紀の資本』を読まないでいて良かったと心底思う。

 一応、山形の意見も載せておこう。これは『21世紀の不平等』の「訳者はしがき」として本文が始まる前に書かれている。

 「なお、最後に訳語について一言。ピケティ『21世紀の資本』では、inequality を格差と訳した。本書ではこれを不平等と記している。この訳し分けにはまったく意味はない。ただ本書では、平等性と不平等性という対比が行われる場合が多く、こちらのほうがおさまりがよかっただけである。実はピケティの翻訳で『格差という用語は価値判断を含まないが、不平等は悪いものだという価値判断を含む。訳者は故意に、それをあまり悪くないものとして描こうとしたのではないか』という指摘を受けたことがある。が、人によってはむしろ『格差』というほうが、悪いものだというニュアンスを感じるという人もいる。この訳語の選択をあまり深読みしても意味はなく、むしろ実際にそれについて何が言われているかという中身のほうにご注目いただければ幸いだ。」(『21世紀の不平等』アンソニー・B・アトキンソン著 山形浩生/森本正史訳 東洋経済新報社 2015.12.24)

 それならばこれはそのまま「インエクオリティー」と「訳す」べきだったと個人的には思う。


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『デリダ、異境から』

2016-09-27 00:27:50 | goo映画レビュー

原題:『D’Ailleurs, Derrida』
監督:サファー・ファティ
撮影:エリック・ギシャール/マルシァル・バロー/マリ・スパンセール
出演:ジャック・デリダ/ジャン=リュック・ナンシー
1999年/フランス

「パルドン(Pardon)」を巡って

 フランスの哲学者であるジャック・デリダのインタビューが収められた本作を理解することは非常に困難が伴う。例えば、デリダは逮捕された際の経験から「歓待(hospitalty)」は「破局(catastrophe)」が起こるところで生じるという言葉や、昇華や変容の化学作用によって苦痛の思い出を良い思い出にするという意見などはやはり頭の良い人だから出来る技であって、全く同感できないのであるが、死ぬ間際にそれまでの人生の全ての善し悪しが明らかになるという言葉には激しく同意する。しかし交通事故などで急死した場合、そんな暇はない。


『オルガス伯の埋葬(The Burial of the Count of Orgaz)』


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満足している豚と不満足な人間

2016-09-26 00:15:32 | Weblog

 「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」という言葉は東大の総長だった大河内一男が卒業式でジョン・スチュアート・ミルの言葉として語った訓示として有名になり、その後平成27年度東京大学学部入学式において東京大学教養学部長の小川桂一郎によって色々と訂正された。
 ところでこのフレーズの原文が気になったのでJ・S・ミルの『功利主義論(Utilitarianism)』の邦訳である『功利主義論集』(川名雄一郎、山本圭一郎訳 京都大学学術出版会 2010.12.5)の該当部分を引用してみる。

「このような選択は幸福を犠牲にすることによってなされている、すなわち、同じような環境のもとでは優れた存在は劣った存在よりも幸福でないと考えている人は、幸福と満足という二つの非常に異なった観念を混同している。快楽を享受する能力の低い人はそれを十分に満足させる見込みが大いにあるが、高い能力に恵まれた人は、自分の求めることのできる幸福は今あるがままの世界においては不十分なものであるといつも感じていることは疑う余地のないことであろう。しかし、このような人はこの不完全さが何とか耐えうるものであるならばそれに耐えることができるようになる。また、その不完全を伴うのにふさわしい善をまったく感じることができなくなる(と)いう理由によってだけでも、不完全さをまったく意識することのない人のことを羨んだりするようにはならないだろう。満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。愚か者や豚がこれと異なった考えをもっているとしたら、それは愚か者や豚がこの論点に関して自分たちの側のことしか知らないからである。比較されている相手方は両方の側を知っている。」(p.269)

(“Whoever supposes that this preference takes place at a sacrifice of happiness-that the superior being, in anything like equal circumstances, is not happier than the inferior-confounds the two very different ideas, of happiness, and content. It is indisputable that the being whose capacities of enjoyment are low, has the greatest chance of having them fully satisfied; and a highly-endowed being will always feel that any happiness which he can look for, as the world is constituted, is imperfect. But he can learn to bear its imperfections, if they are at all bearable; and they will not make him envy the being who is indeed unconscious of the imperfections, but only because he feels not at all the good which those imperfections qualify. It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, is of a different opinion, it is because they only know their own side of the question. The other party to the comparison knows both sides.” – John Stuart Mill『Utilitarianism』)

 こんどは逐語訳を試みてみる。

「同じような環境の中で、優秀な存在が、劣った存在よりも幸せではないという選択が幸せを犠牲にしてまで起こってしまうと想像するような人なら誰でも幸福と満足という2つが全く違う観念だと論破する。享楽の受容力が低い存在がすぐに十分に満足するチャンスは大いにありえて、天分豊かな存在が彼が求めることができる幸せが不完全であるといつも感じることは、世界が成り立って以来疑う余地はない。でもその不完全性がどれも耐えられるものであるならば、彼はその不完全性に耐えることを学ぶことができ、その不完全性は不完全性に全く気付かない存在に対して天分豊かな彼に羨ましいと感じさせることはないだろうが、そもそも彼が、不完全であることが当たり前であるような類の美徳を全く感じないためだけだからである。満足している豚よりも不満足な人間でいた方が良く、満足している愚か者よりも不満足なソクラテスになる方が良い。もしも愚か者であれ豚であれ違う意見を持っているならば、それは彼らが自分たちの事情しか知らないからである。比較されるもう一方の側は両方の事情を知っている。」

 つまりここのパラグラフでは最初のセンテンスだけで幸福の性格を、残りのセンテンスで満足の性格を描写しているのである。これはもはや哲学ではなく文学だと思うのだが、いかにも頭の良い人の意見である。例えば、一生自分たちの事情しか知らないで生きていければ不満足な人間よりも満足している豚の方が絶対に良いと思うのだが、満足している愚か者よりも不満足なソクラテスになりたいと思うのであるとすれば、それは愚か者が余計なことを知ってしまう可能性が無いことは無いからである。だからもはやバカにはなれない東大生に「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」という言葉は発破を掛けるという意味では正しいのである。


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『ザ・ビートルズ ~Eight Days a Week~ The Touring Years』

2016-09-25 14:46:01 | goo映画レビュー

原題:『The Beatles: Eight Days a Week – The Touring Years』
監督:ロン・ハワード
脚本:マーク・モンロー
出演:エルビス・コステロ/シガニー・ウィーバー/ウーピー・ゴールドバーグ
2016年/イギリス・アメリカ

ロックバンドとサーカスの違いについて

 作品の内容はタイトル通りにビートルズのコンサートを撮影し始めた頃から時系列に並べて描かれている。最初の頃は小規模のライブホールで開催されていたコンサートはアメリカで爆発的な人気を博してからスタジアムで行われるようになり、その一つである1965年8月15日に行われたシェイ・スタジアム(Shea Stadium)のコンサートの模様が本作終了後にHDリマスター版として流される。1966年にビートルズが東京の日本武道館でコンサートをした際に30分ほどで終わったことが不評だったと記憶しているが、何もこの短さは日本に限らず、シェイ・スタジアムのコンサートでも12曲しか演奏していなかった。
 それにしても人気が出れば出るほどビートルズのメンバーとファンとの距離が離れていくことが皮肉めいている。そしてついには1969年1月30日に「無観客」コンサートとして「ルーフトップ・コンサート(Rooftop Concert)」が行われ、ビートルズは解散するのであるが、4人はとても楽しそうにその「コンサート」を楽しんでいるように見える。おそらくその時彼らはデビュー前後に腕を振るっていたイギリスのリヴァプールのキャバーン・クラブ(The Cavern Club)でのライブを思い出していたに違いない。あの喧噪の中で正確に演奏している4人には感心したが、なによりも4人のメンバーが一曲終わるごとに丁寧にお辞儀をしているところがとても印象的だった。


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『にがくてあまい』

2016-09-24 00:39:04 | goo映画レビュー

原題:『にがくてあまい』
監督:草野翔吾
脚本:大歳倫弘
撮影:小松高志
出演:川口春奈/林遣都/淵上泰史/桜田ひより/真剣佑/中野英雄/石野真子
2016年/日本

季節感の無い「食映画」について

 おそらく『オーバー・フェンス』(山下敦弘監督 2016年)に足りなかったものは、例えば、本作において主人公で広告代理店に勤務している江田マキが勝手に脱サラして有機野菜の農家を始めたことで絶縁状態だった父親に会いに久しぶりに実家に帰ってきた際に、父親の江田豊の手製のビールを飲んだ時に見せた、観客の想像を超えたリアクションだったと思う。
 コメディ映画として決して悪くはない本作はもう一人の主人公である片山渚が料理上手のベジタリアンということもあって様々な野菜を使って料理するシーンがあるにも関わらず、季節感が全く感じられない。時代設定は2014年の12月であるはずなのだが、雪どころか寒ささえ感じないのであるが、これは一体どうしたことなのか。


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『オーバー・フェンス』

2016-09-23 00:35:57 | goo映画レビュー

原題:『オーバー・フェンス』
監督:山下敦弘
脚本:高田亮
撮影:近藤龍人
出演:オダギリジョー/松田翔太/蒼井優/満島真之介/北村有起哉/優香/塚本晋也
2016年/日本

状況の打開には至らない「ホームラン」について

 主人公の白岩義男は一生懸命働きすぎて家庭を顧みなかった結果、ある晩帰ってくると妻の洋子が育児ノイローゼで赤ん坊の顔にクッションを当てている現場を目撃する。その後、洋子とは離婚し、妻の父親から絶縁状が送られてくる。
 白岩は東京から故郷の函館に戻って職業訓練校に通って大工の実習を受けているのだが、大工になろうということではなく、職業訓練校に通えば失業保険がもらえるという安易な発想からだった。しかし通っている職業訓練校でも事件が起こる。大学を中退して職業訓練校に通ってきていた森由人はやる気を見せず行動の遅さから周囲からバカにされており、校内のソフトボール大会の出場メンバーの選考でも差別を受けたため、森の怒りが爆発する。
 あるいは学校外でも代島和久の紹介でホステスの田村聡と知り合い、鶴の求愛など演じる風変わりな彼女に対して白岩は少しずつ惹かれていくのであるが、お互いを理解しようとすればするほど2人の気持ちが離れていくように見える。つまり努力が空回って家庭を崩壊させた白岩は自分が介入してもロクなことにはならないことを思い知り、森に対しても聡に対しても彼らの怒りを白岩はなす術もなくただ見つめるしかないのであり、それは例えば、合コンで初対面の2人の女性たちに対してもその態度の悪さに我慢ができなくなり悪態をついてしまうことでも白岩には自覚はある。
 しかしどうも物語中盤の空から鳥の羽根が降って来るシーンとラストのソフトボールの試合で白岩がホームランを打つ肝心な2つのシーンが盛り上がらない。どちらのシーンも予定調和で白岩が陥っている「袋小路」をどのように打破するのかという希望的イメージが湧かないのである。


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加山雄三のゴーストライターの質

2016-09-22 00:03:49 | 邦楽

加山雄三氏、ゴーストライター疑惑を否定 所属事務所がコメント
加山雄三、ゴーストライター報道に猛反論「文春が事実の一部を粉飾」
THE King ALL STARSさん『I Simple Say』の歌詞
アイシンプルセイ
words by ダンコウサクキヨサク
music by ダンコウサク
Performed by キングオールスターズ

 この報道が出て米国人作詞家のマイケル・ルノーが英語詞を担ったとされる THE King ALL STARS

 の「I Simple Say」という曲を聴いてみたのであるが、ザ・フー(The Who)の

『無法の世界(Won't Get Fooled Again)』を意識したサウンドのこの曲のタイトルの文法が

まず間違っており、文法的に正確でなおかつ韻も踏むならば「I Simply Say」と綴るのが

ベストなのである。だからアメリカ人であるはずのマイケル・ルノーがここに気がつかないという

ことが解せないのである。だから逆によくプロの作詞家が、それほど売れていない曲に対して

それは自分が書いたものだと平気で訴え出たと思うし、皮肉にも間違っていることで加山が主導

して書いたことが証明されているのではないだろうか。


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