皆さん、高い所からこんにちは。私が津山を訪れたのは実に26年ぶりである。テレビの旅番組ではまず取り上げられることのない河辺(かわなべ)地区からぶらり旅を始める。
津山市指定重要文化財(史跡)
河辺上之町(桝形)
昭和三十一年七月四日指定
江戸時代、津山藩ではいわゆる「百姓村の山あがり」と呼ばれた農地拡張政策が行われました。これは、平地にある農民の居宅を強制的に台地上に移転させ、その跡地を田畑として耕地の拡張を図るという政策でした。
寛文四年(一六六四)に行われた7、津山藩主森長継の発令した「山あがり」は大規模で、河辺集落では、五七戸が加茂川東岸の平地から南東に位置する「しとど原」と呼ばれていた丘陵に移転させられました。これが、現在の河辺上之町です。
村落では、「しとど原」への移転は耕作や生活が不便になるうえ、牛の餌や肥料にする柴草を得る場所を失うことなどから猛反対しましたが、屋敷地への年貢免除や、津山城内の草刈を認めることなどを条件に移転に応じました。
現在、地区の東西に残る桝形(石塁)は、当時の名残りの遺構で、上之町は小規模な宿場のような形態を示し、城下町の東の玄関口としての役割も果たしていました。
平成二十七年十月三十一日
津山市教育委員会
以前から気になっていた桝形(河辺1671の西側に説明板あり)を目にして胸が熱くなった。河辺は津山城下防衛のための重要な拠点、つまり監視強化エリアであったと考えられる。
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津山市指定重要文化財(史跡)
河辺上之町(桝形)
昭和三十一年七月四日指定
江戸時代、津山藩ではいわゆる「百姓村の山あがり」と呼ばれた農地拡張政策が行われました。これは、平地にある農民の居宅を強制的に台地上に移転させ、その跡地を田畑として耕地の拡張を図るという政策でした。
寛文四年(一六六四)に行われた7、津山藩主森長継の発令した「山あがり」は大規模で、河辺集落では、五七戸が加茂川東岸の平地から南東に位置する「しとど原」と呼ばれていた丘陵に移転させられました。これが、現在の河辺上之町です。
村落では、「しとど原」への移転は耕作や生活が不便になるうえ、牛の餌や肥料にする柴草を得る場所を失うことなどから猛反対しましたが、屋敷地への年貢免除や、津山城内の草刈を認めることなどを条件に移転に応じました。
現在、地区の東西に残る桝形(石塁)は、当時の名残りの遺構で、上之町は小規模な宿場のような形態を示し、城下町の東の玄関口としての役割も果たしていました。
平成二十七年十月三十一日
津山市教育委員会
以前から気になっていた桝形(河辺1671の西側に説明板あり)を目にして胸が熱くなった。河辺は津山城下防衛のための重要な拠点、つまり監視強化エリアであったと考えられる。
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