寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山県津山市二宮596‐1・首なし地蔵(佐野食品敷地内)

2017年12月29日 | 
青野石油店本社角地に追分道標が建っている。諸藩は分岐点の先に治安維持の目的で重点的に監視員を置くことが多かった。津山も実は例外ではない。

追分道標

本社西隣の佐野食品敷地内に五体の首なし地蔵(山中一揆の義民を供養するために建立)が祀られている。享保十二年三月十二日(1727年5月2日)に行われた重罪人の仕置及び晒し場については『津山市史 第四巻 近世Ⅱ ‐松平藩時代‐(※PDF文書として公開されており誰でも閲覧できる)』の記述が分かりやすいと思う。

食品会社

地蔵

説明板

 三月一二日、藩は徳右衛門ら首謀者の処刑を申し付けた。頭取牧分徳右衛門・見尾村弥次郎の二人は院庄河原で磔、富東谷与七郎・束茅部村七左衛門の二人は獄門、土居村忠右衛門・東茅部村喜平次は死罪とされた。処刑は次のように執行された。早朝六時に、町奉行村山左仲・同書役・同心小頭・支配代官三木甚左衛門・郡代下役が牢屋に出頭した。本来は支配代官は処刑執行には立ち会わないきまりになっていたが、騒動についての幕府への聞こえにも配慮して出役した。郡代下役が処刑ごとに仕置状を読み渡した。忠右衛門・喜平次へは死罪が申し渡され牢屋の討捨場で討首、七左衛門・与七郎へは斬罪が申し渡され牢屋で討捨、首は二宮と院庄との境の川向こうの河原で獄門に掛けられ、悪事筋書札は川岸の道べりに立てられた。徳右術門・弥次郎への磔の「申渡」は牢屋役所で済ませ、両人を牛に乗せ、悪事筋書札を先頭に立てて、町同心・郡代所役人の警護のもとに、牢屋より本町を通り、獄門と同じ場所で磔にした。河原の仕置場へは御徒目付・郡代下役・下目付・郡代所新組・二宮触と院庄触の大庄屋・村々庄屋が立ち会った。

私は地蔵に手を合わせて旧街道を更に進むことにした。残り少ない時間でも院庄地区をざっと見て回ることは可能だと判断したのである。

地図
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妄想年越し中華そば

2017年12月29日 | 家飯
ふと大晦日の晩飯は中華そばにしようかなと思った私。家で作るなら醤油ラーメンだ。もちろんスープはノー豚背脂(笑)のすっきり味、シコシコの麺を堪能するためにあえて具材はシンプルに。この歳になると無駄な物を極力省いた食べ物が欲しくなるのだ。
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