「大新田公園」の手前に出て国道317号を南下する。別宮町7丁目に面白い看板の喫茶店「フェニックス」があり大いに興味をそそられた。



別宮橋交差点から浅川に沿って上流へ移動する予定だったが、一つ見落としていることに気付き「大正橋」へと向かった。橋の北詰に建っているのが「今治市医師会市民病院(昭和41年9月開院)」と「今治看護専門学校(校舎は昭和46年築)」である。


大正12年(1921)11月に発行された『今治市街全圖 / 阿部利三郎 著』を見ると現在の病院と専門学校(の一部)を合わせた場所に「避病舎」が存在していたことが分かる。
『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第一節 傳染病避病院
一、今治町避病舎
明治二十八年以前は大字藏敷字大濱にあつたが、其創設年月地番等は不詳である。然るに時勢の進運に伴ひ改築の必要を感じ、明治二十八年度を以て大字今治村字淺川 今の淺川貯木場西側 に地を相し、八百九十圓餘を以て避病舎を新設したものである。然るに爾來二十餘年大正六年に至つて、之が改築の必要に迫つたが、該地は狹小にして擴張の餘地が無き爲移轉改築することに决したるも、今治町内に適當の地無く已むを得ず日吉村大字別宮字六反地 今の第四小學校北方 の地を選定した。然るに之に對し日吉村は耕地の中央にして、種々支障ありとの趣旨を以て遂に承諾を與へず、已むなく無承諾のまゝ敷地認可を縣へ申請した。之に對し越智郡役所より日吉村に對すると同様、合同建設又は駢列建設方を慫慂し來つた。併し未だ合同或は駢列建築の機運に至らず、大正六年今治町は豫定地を變更して大字別宮字明所新開 今の避病院對岸 とし、今回は日吉村の承諾を得て敷地認可方を知事へ願出たが、同年七月に至り漸く郡長の意見に從ひ町村隣接の地を選ぶことゝなり、三度位置を變更して大字別宮五反地 今の市避病院敷地の内 に决定したので、五月願書を撤回し、同年八月日吉村長の五反地建設承諾書を添へて出願したるに對し、九月知事の認可あり、金三千四百八十一圓八十三錢を以て千六百七坪を買收した。
然るに其後容易に建築の運に至らず、漸く大正七年十二月一部分の新築認可申請書を提出した。之に對し大正八年一月知事の認可あり、直に建築に着手したが、以下繼續的に漸次建築中大正九年二月、町村合併につき以後は市の施設となつたものである。
四、今治市避病院
前記の如く市制實施につき舊今治町舊日吉村豫定地を加え、總計二千六百七十六坪を敷地として、前後五回に分つて建築を續け、大正十二年五月を以て全工事を終了したが、其後絶えず細部の修繕增補を施したのみならず。昭和八年度に於て近見避病舎の一棟を移築して擴張する所があつた。
避病院(避病舎)とは伝染病患者を隔離する施設を差した。明治期に全国各地に建てられたが、患者の治療よりも伝染病の拡散を防ぐことに重点が置かれていた。コレラを発症して避病院に運ばれ生還する例は非常に少なかった(死後、近くの火葬場へ直行するパターンが殆どであったと思われる)。

ガードレールに取り付けられたプレートには「昭和54年3月完成」の銘が入っているが、名前から推察するに初代の橋は大正期に架けられたのだろう。当時は「地獄橋」という別名があったのかもしれない。




別宮橋交差点から浅川に沿って上流へ移動する予定だったが、一つ見落としていることに気付き「大正橋」へと向かった。橋の北詰に建っているのが「今治市医師会市民病院(昭和41年9月開院)」と「今治看護専門学校(校舎は昭和46年築)」である。


大正12年(1921)11月に発行された『今治市街全圖 / 阿部利三郎 著』を見ると現在の病院と専門学校(の一部)を合わせた場所に「避病舎」が存在していたことが分かる。
『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第一節 傳染病避病院
一、今治町避病舎
明治二十八年以前は大字藏敷字大濱にあつたが、其創設年月地番等は不詳である。然るに時勢の進運に伴ひ改築の必要を感じ、明治二十八年度を以て大字今治村字淺川 今の淺川貯木場西側 に地を相し、八百九十圓餘を以て避病舎を新設したものである。然るに爾來二十餘年大正六年に至つて、之が改築の必要に迫つたが、該地は狹小にして擴張の餘地が無き爲移轉改築することに决したるも、今治町内に適當の地無く已むを得ず日吉村大字別宮字六反地 今の第四小學校北方 の地を選定した。然るに之に對し日吉村は耕地の中央にして、種々支障ありとの趣旨を以て遂に承諾を與へず、已むなく無承諾のまゝ敷地認可を縣へ申請した。之に對し越智郡役所より日吉村に對すると同様、合同建設又は駢列建設方を慫慂し來つた。併し未だ合同或は駢列建築の機運に至らず、大正六年今治町は豫定地を變更して大字別宮字明所新開 今の避病院對岸 とし、今回は日吉村の承諾を得て敷地認可方を知事へ願出たが、同年七月に至り漸く郡長の意見に從ひ町村隣接の地を選ぶことゝなり、三度位置を變更して大字別宮五反地 今の市避病院敷地の内 に决定したので、五月願書を撤回し、同年八月日吉村長の五反地建設承諾書を添へて出願したるに對し、九月知事の認可あり、金三千四百八十一圓八十三錢を以て千六百七坪を買收した。
然るに其後容易に建築の運に至らず、漸く大正七年十二月一部分の新築認可申請書を提出した。之に對し大正八年一月知事の認可あり、直に建築に着手したが、以下繼續的に漸次建築中大正九年二月、町村合併につき以後は市の施設となつたものである。
四、今治市避病院
前記の如く市制實施につき舊今治町舊日吉村豫定地を加え、總計二千六百七十六坪を敷地として、前後五回に分つて建築を續け、大正十二年五月を以て全工事を終了したが、其後絶えず細部の修繕增補を施したのみならず。昭和八年度に於て近見避病舎の一棟を移築して擴張する所があつた。
避病院(避病舎)とは伝染病患者を隔離する施設を差した。明治期に全国各地に建てられたが、患者の治療よりも伝染病の拡散を防ぐことに重点が置かれていた。コレラを発症して避病院に運ばれ生還する例は非常に少なかった(死後、近くの火葬場へ直行するパターンが殆どであったと思われる)。

ガードレールに取り付けられたプレートには「昭和54年3月完成」の銘が入っているが、名前から推察するに初代の橋は大正期に架けられたのだろう。当時は「地獄橋」という別名があったのかもしれない。
