遊具広場から歩いて数分のところに比治山陸軍墓地はあった。幼子を連れた若いお母さんが手を合わせているのを見たが、広島市民にとってはやはり特別な場所のようだ。
陸軍墓地は、明治5年(1872)に陸軍埋葬地として国が設置した墓地で、西南戦争から第二次世界大戦までの多数の日本人戦没者のご遺骨が葬られています。
当初、墓地は現在の放射線影響研究所の位置にあり、昭和19年(1944年)に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。終戦後、放射線影響研究所の前身となる原爆傷害調査委員会(ABCC)の建設に当たり、移設が必要となり、ご遺骨は昭和24年(1949年)に比治山公園内の忠魂墓碑へ改装されました。その後、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建され、ご遺骨は昭和35年(1960年)に忠魂墓碑から、この墓地に改装されました。
現在、この墓地には、約3,500基の墓石とともに、多数の人々のご遺骨が合葬され、また、当地の南側には多くの慰霊碑が設置されています。
さらに、当地には日清戦争、第一次世界大戦時等に広島で亡くなった中国人、フランス人、ドイツ人のご遺骨も葬られています。
2019年(平成31年)1月
広島市
戦前の陸軍墓地の様子については『がんす横丁』の記述が参考になる。著者の薄田太郎さんは以下のように回想している。
比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島に立ち寄った報道人が必ずたずねた有名なところでそれだけに小さな四角い墓標が整然と並んだ風景が忘れられない。有名なラッパ卒木口小平の名がある合祀碑もあった。また、奥まった一角には、当時広島の衛戍病院長であった陸軍一等軍医正小山内建氏の墓もあった。新劇の父といわれる小山内薫氏は、建氏が広島在任中の明治十四年七月二十六日、大手町二丁目の家で生まれた。
『がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)』
墓地からの眺めは素晴らしい。広島陸軍被服支廠の先には金輪島、江田島、峠島などが見える。TSS新社屋の建設が相当に進んでいることを確認した。現地に来なければ絶対に理解できないことがある(テレビの特集や他人のブログ記事は参考にはなるが、全体像を捉えるのはまず無理だ)。あまたの墓と満開の桜を目にして私なりにいろんなことを考えた。
陸軍墓地は、明治5年(1872)に陸軍埋葬地として国が設置した墓地で、西南戦争から第二次世界大戦までの多数の日本人戦没者のご遺骨が葬られています。
当初、墓地は現在の放射線影響研究所の位置にあり、昭和19年(1944年)に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。終戦後、放射線影響研究所の前身となる原爆傷害調査委員会(ABCC)の建設に当たり、移設が必要となり、ご遺骨は昭和24年(1949年)に比治山公園内の忠魂墓碑へ改装されました。その後、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建され、ご遺骨は昭和35年(1960年)に忠魂墓碑から、この墓地に改装されました。
現在、この墓地には、約3,500基の墓石とともに、多数の人々のご遺骨が合葬され、また、当地の南側には多くの慰霊碑が設置されています。
さらに、当地には日清戦争、第一次世界大戦時等に広島で亡くなった中国人、フランス人、ドイツ人のご遺骨も葬られています。
2019年(平成31年)1月
広島市
戦前の陸軍墓地の様子については『がんす横丁』の記述が参考になる。著者の薄田太郎さんは以下のように回想している。
比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島に立ち寄った報道人が必ずたずねた有名なところでそれだけに小さな四角い墓標が整然と並んだ風景が忘れられない。有名なラッパ卒木口小平の名がある合祀碑もあった。また、奥まった一角には、当時広島の衛戍病院長であった陸軍一等軍医正小山内建氏の墓もあった。新劇の父といわれる小山内薫氏は、建氏が広島在任中の明治十四年七月二十六日、大手町二丁目の家で生まれた。
『がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)』
墓地からの眺めは素晴らしい。広島陸軍被服支廠の先には金輪島、江田島、峠島などが見える。TSS新社屋の建設が相当に進んでいることを確認した。現地に来なければ絶対に理解できないことがある(テレビの特集や他人のブログ記事は参考にはなるが、全体像を捉えるのはまず無理だ)。あまたの墓と満開の桜を目にして私なりにいろんなことを考えた。