THE FOURTH PARTY

チョイ毒エッセイのようなもの。コメント欄でのやりとりはしません。用事がある人のみ書き込んでくだされ。

正吉君50ccまとめ

2016-12-29 17:46:33 | 正吉君モトクロス
まあ、別に天下を獲ったわけでも何でもないんで(笑)、まとめもクソもないんだけど。
自分なりにまとめておきたいのと、今後わが子にモトクロスをやらせようと考えている人たちへ参考になればと。
少々長いんで、興味のある人だけ読んで下され。

正吉君をバイクに乗せるまでは、「子供は自分で勝手に覚えるので、バイクに乗らせるのは早けりゃ早いほうが上達する」と思っていた。実際、トップライダーの経歴を見ると「初めてバイクに乗ったのは3歳」とかあったりするしね。
自転車を早く覚えさせるためには、ペダルなしの自転車に乗らせるといいと聞き、工作好きの俺は自作。

この頃はストライダーはあまり一般的な存在ではなかった。


これは年少のときかな。

いよいよ正吉君もバイクデビューかという歳になった頃、リーマンショック。見事な金欠になり(笑)、バイクの代わりにBMXを始めたのが年中の時。

ストライダーレースを経験していないので、珍しい部類だと思う。


これはショートダウンヒルで、小学生中学年もいる中、3位に入賞。
後ろにいるのは、BMXでは今や同世代に敵なしの、同じ名前の子。

約2年BMXをやって、競技人口の少なさ・専用コースの少なさ・大会の少なさを知り、ある意味ではバイクよりも大変だということに気付き始めた。何よりメカ好きの俺自身に合わず、もう一度バイクの道を模索することに。
ボチボチと懐具合も改善してきたこともあって、中古のPWを購入したのが3年前。

正吉君が年長の12月である。



多度デビューが2月だったかな。

この頃はそれほど入れ込んでおらず、隔週で乗るくらい。
初レースは小1の4月で、結果は酷いものだった(笑)。

左隣は今も一緒に走っているK君。右隣はHちゃんだ。

この時に思ったのは、「勝手に走らせていても、速くなることはないのだな」という事。

で、基本を教えることにした。
基本ってのは、まずは目線とフォームね。口で言っても分からないから、舗装路面で8の字をやらせて、体の位置や姿勢・肘の張り方・足の出し方などを教え込んだ。



まだ悪い癖が付いていなかったおかげか、吸収は早かったように思う。2日間でほぼ飲み込んでしまった。
俺自身、その場のノリで「開けろー!!」とか言うけど、乗り始めたばかりの子はアクセルを開けたくても開けることができないのだ。アクセルを開けることのできる基本を教えるべきだと思う。

ここからメキメキと上達。



R子ちゃんだね。


TT-Rがデカく見えるなー。
多度のレースでは1レースごとにステップアップした。
んが、レースを始めて半年で足の骨をポッキリ。俺もこの時、とても悩んだ。

バイクを始める年齢については、多度に集まる子たちを見る限りでは、あまり関係がないようだ。以前にも書いたことがあるけど、概ね3年生までに乗り始めれば何とかなる。ただし、始めるのが遅い場合は、それまでに何らかの重要なヒントを得ている必要がある…というのが持論である。
ちなみにF1ドライバーになろうとする場合、9歳までにレーシングカートを始めなければ、F1ドライバーになれる可能性はほぼゼロ、と聞いたことがある。

多度に練習に行くと、お節介な人から(ゴメンチャイ笑)「ラインを教えろ」と言われることが多かったんだけど、俺は実はラインはほとんど教えたことがない。初心者にとってラインは速く走るためには二次的なものであり、ベストラインを走っても基本ができていなければ意味がない。それに、自分より明らかに速いライダー(ラップされるような)が後ろから来たとき、抜かれないためのラインを教えるのは無意味だと思う。それよりも自分自身が速く走ることができる方法を教えたほうがいいのではないだろうか。

2年生の5月くらいになり、スタートバーの練習で上級生の前を走ることが何度かあった。
一瞬、正吉君は天才か(笑)と思ったのだが、その後で上級生がぐいぐいとレベルアップして、歯が立たなくなった。
この時に思ったのは、「2年生は3年生に勝てない」という事。それからは勝ち負けを捨てて、ひたすら上級生を追いかけるように言い聞かせた。


初全日本の神戸大会。


オフビのキッズスーパークロスで何故かブッチギリ優勝。

「ドアノブを回すように」というけれど、アウト側の肘を張るのは、体の重心が生まれつきどこにあるかによって、できるようにならない人もいるそうだ。
日本人ライダーは外人ライダーに比べて、肘を張るライダーが少ないように見受けられる。(気をつけて見てみると、IBはかなりの割合で脇を締めて乗っているライダーがいる)
正吉君は何も言わなくても、勝手に肘を張るようになってしまった。
アウト側の肘を張るライダーは速くなるという俗説も存在するが、果たして…?









俺はとにかく目線とフォームを教え続けた。そして、スタンディングで直線を走ってきたら、どこでブレーキを掛け、どこでシフトダウンし、どこでシッティングしてどこでアクセルを開けるのかということ。これは始めてから3年経った今でも同じ。
当時はこれらを教えるのは多度では少数派だったと思うけど、最近は真似されてますな(笑)。
ラインに関しては、2年生の後半に何度か言ったら、自分で勝手に考えるようになったかな。

もう一つ、俺が気をつけてきたのはメンタル面である。
「多度で一番酷い怒り方をしておいて、何を言うか」と言われそうだが(笑)、割と細かいことまで考えている。
特に意識しだしたのは骨折からの復活後かな。
元々俺は、仕事にしても何にしても、メンタルをとても重視する。これだけは一流スポーツ選手にも絶対に負けない自信を持っている。
メンタルが強くなればモトクロスだけでなく、普段の生活や勉強でも、これからの人生に於いても必ず役立つはずだ。

やたら褒めまくるのではなく、教えたことが出来た時だけ褒める。
怒るのは極力午前中までとし、その後はだんだんテンションを上げれるように持っていくようにしている。楽しい状態でその日の練習を終えてほしいからね。
また、何度も書いている事だけど、攻めて走ってクラッシュして負けても、絶対に怒らなかった。
正吉君は産まれつき色々とあって、言葉の入出力が苦手である。同年齢の他の子と比べてもセルフマネージメントも極端に苦手なため、俺が手助けをしてやる必要がある。
逆に「抱え込んでしまう」ということがなく、レーススタート前や、真後ろにピタリと付けられた時でもそれほどのプレッシャーを感じないようだ。
こういったことを踏まえたうえで、最終的には正吉君が自力でプラスに持っていけるように考えてきたつもり。

あと、65への乗り換えについて。
これ、「50ccライダーに65を練習させると、50ccで速くなる」説と、「遅くなる」説の2通りあるようで…。
実際に先人に話を伺うと、同時に乗せて上手くいったケースの方が少ないみたい。
50と65の両方を練習していても、どちらか片方だけ上達するということは有り得ないので、他の子よりも先に65に乗らせれば50で上達しなくても65で速くなる…というのは間違いだ。
唯一意味があると感じたのは、50では分からないことが65に乗ると分かるようになるということ。
50ccはスピードレンジが低いので、基本ができていなくても、慣れてしまえば速く走ることができてしまう。
が、65ではそうはいかない。
過重移動、フォーム、アクセルワーク、ブレーキのテクニックを要求されるようになる。
65に乗ることでこれらを身に着けることができれば、総合的にレベルアップできるのではないだろうか。

俺がこの一年間で最も頭を悩ませることとなってしまったのが、マシンのこと。
TT-Rが遅いっていうのは間違いないことで、マシン差の出にくい多度ならば勝てる相手であっても、コース設定の関係で、全日本CXだと負けてしまう。

…というのもあるのだが、もっと困ったのは、エンジンを改造(レギュレーション違反)しているマシンがいるという事だった。
最初はまさかそんな事をするという発想自体がなかったので、4月の時点では何が起こったのか分からなかった。
5月になって少なくともノーマルではないな、と気づき、確信したのは神戸大会のとき。
あんまり頭にきて、帰ってきてすぐにボアアップピストンとハイカムを注文したんだけど(笑)、部品が届いて我に返り、結局最後まで使わなかった。

今後自分用のミニモトに改造する際に使うことにする。
ちなみにボアアップピストンはすでにキットのシリンダーが廃盤。ノーマルTT-R50ではスリーブ厚が足りないので、TT-R90のものを流用する必要があるようだ。

50ccはパワーが無いので、5~6月の時点で「これ以上タイムが伸びることはないな」と思っていた。誰が乗っても、とどのつまりは同じような速さになる。レベルアップするとすれば戦術的な部分くらいだろう。50の練習を減らして65ばかり乗せていたのはそのため。

この頃は本当に悩んで、色々なことを考えた。
実際には50ccのレースなんてオチャラケのようなもの。子供に「勝つ味」を覚えさせるためにマシンを改造するというのは、一つの手なのかもしれないなぁ、などと思ったり。
諸先輩方に話を請うと、皆さん結構酷いことをやってきたみたいですな(大笑)。
多度でもシリーズ戦終盤に同様のことが起こり…(笑)。
やむを得ず俺も少々手を出したんだけど、仕事が忙しくて時間が足りず、セットアップしきれなかった。まあ、せいぜい「リストリクターを取り外したDRZ50」くらいにしかなっていなかったかな。

今後65に乗り換えて、どこまで真剣に取り組むのか、いつまで続けるのかは分からない。
正吉君はレゴやゲーム、他のスポーツよりもモトクロスが好きだと言っているので、俺と趣味を共有できるメリットもあり、当面は続けていくつもりである。
50ccまではオチャラケのようなものだが、65になると一気に厳しいスポーツの世界となる。
来シーズンはポチポチと地方選手権に出て場慣れしておいて、5年生になったら真剣に・・・という感じかな。
怪我するのが心配なので、今一度プロテクター類を見直し、練習方法についても再検討したい。

お世話になっている皆様、これからも宜しくお願いいたします。
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ドラマチック・未完成チャンピオン

2016-12-26 11:00:08 | 正吉君モトクロス
モトクロスランド多度にて2016ダートスポーツ杯・多度チャンピオンシップの最終戦が行われ、正吉君が出場した。


今回も65プロクラスと50プロクラスのWエントリー。



正吉君はまた何やら気が付いたことがあったようで、65は公式練習からかなりのハイペース。
1番目のプログラムとなるレースでも攻めの走りだったのだが、中盤に前走者が転倒したところに突っ込み、バイクが縦回転を演じる大転倒!
ハンドルバーエンドでブレストガード越しに腹を打ったようで、お腹が痛いとのこと。そのまま走行することはできず、DNFとなってしまった。

多度のオバちゃんをはじめ多くの方に心配していただき、本当にありがとうございました。
しばらくパドックにて休憩することに。

救急車を呼ぶか?との問いには否定し続け、午前中の最終プログラムである50プロクラスには出場すると言う。

お腹が痛いままで、テンションも下がり切ったままだがどうなるか?

バーが降りて一斉にスタート。
出だしは4番手くらいだったろうか。
俺がスターティングエリアから高見台に移動した頃には、何故かトップに立っていた。
これが正吉君の不思議なところなのだが、先日の検査で「天才的」と評されたことに通じる部分・・・どうやら正吉君は、混戦状態が得意なようだ。

オープニングラップのフィニッシュラインを1位で通過。
ところが、1コーナーで転倒!!
ブッチギリのドンケツになってしまった。

その後レースに復帰するも、また転倒。
他車の転倒とリタイヤがあり、9台中7位という今期最低の順位でフィニッシュ。
これにより、自力チャンピオン獲得は無くなってしまった。

この時ばかりは、さすがに終わったと思ったよ。

そして昼からのHEAT2。
65はハンドル周りを破損しており、またFタイヤはパンク。
正吉君のキャパでは、元々からWエントリーは重荷だろうと考えていたこともあり、50のHEAT2を重視して65のHEAT2はDNS、棄権することにした。

50㏄最終レース、最終戦のHEAT2。
俺がスタート前に正吉君に言ったのは、俺の得意の一言。
「何でもいいから、とにかく全開で走ってこい!! お前が一番速い!!」

スタートが決まり、見事ホールショット。
その後は僅差であるものの一定の距離を保ったまま走り続け、ホールトゥウィン。



最終ヒートで改めて実力を証明することができた。

ポイントランキングを僅差で争っていたライダーがHEAT2の途中で転倒したため、HEAT1終了時には半ば諦めていたシリーズチャンピオンをゲットすることとなった。
今回の最終戦の総合では準優勝に終わってしまったが、とても良い終わり方ができたのではないだろうか。

正吉君の戦績の特徴。
まず、総合ではすべて優勝か準優勝。そして、6戦中5戦はヒート優勝1回ずつ。
しかし、ピンピンはおろか、両ヒート揃えたことがない。

各ライダーは実力伯仲で、今期は他のライダー含めて両ヒート揃えたケースがほとんどなかった。
また、2年生が何度か登壇しているのが面白い。去年の50㏄プロクラスでは、2年生は一度も入賞していないはずだ。

今まであまり気にしていなかったんだけど、正吉君はレースでは一度も走行中に抜かれたことが無い。
スタートで出遅れてトップに届かなかったか、自爆で順位を落としただけ。
これは、メンタルが弱いとかいうわけではなく、「未完成であるから」と言ってしまおう。

というのも、俺は「多度で一番酷い怒り方」とまで言われているけど、実はレースの順位で怒ったことは一度もないのだ。
全て内容で評価している。
正吉君の走りがアグレッシブなのは、自分に自信を持てと言い続け、守りの走り・逃げの走りには喝を入れ、攻めの走りを褒め続けたことにあると思う。
コケても負けても、内容が良ければ怒らなかった。
とても存在感のある走りをし、終始攻めの走りで時には自爆する。トップに立って後続を引き離しても、さらに前走者がいるかのように走り続ける。見せ場を作り、ドラマチックな展開になることが多かったかな。
何かのスター性のようなものは持っているのかもしれないね。

これで50㏄は卒業する。
多度では年末ギリギリまでレースがあるので、ライダーが一定以上のレベルになるとほとんど速さに差が出ない50㏄でのレースに、色々とムズムズすることが多かった。
レース車の方はこのままの形で残すので、遊ぶ程度に乗ることはあるかもしれない。

*********************************

多度では「FIELDOOR」というブランドのテントが流行っている。
確かに機能的で羨ましいのだが、俺は意地でも買わないことに決め、自前で横幕を準備した。



石油ファンヒーターを持ち込み、快適に過ごすことができた。


冬はやっぱカニ鍋だす。



夜、各家族のテントの隙間からカメラを差込み、盗撮に行った。
ほとんどの人は驚くのだが、この方だけは全く動じず。

数枚連写したにも関わらず、全てが全く同じカットであった(笑)。

以前、多度で練習走行中にスロットルワイヤーが切れ、モトスペースへ買出しに。
部品を買いにいったはずが、バイクを買って帰ってきた人(笑)。

もはや我々とは気合が違うのだ。

その彼のとこのライダーは年中さんのチビッコなんだけど、速いんですわ。


受付前にランするキッズ。

去年まではフープスを跳ぶ65はいなかったので、65では多度のフープスは跳べないものだと思っていた。
しかし…。

彼はフープスの鬼(笑)。

正吉君との差は歴然。

速さの差はもはやフープスの差で、ここで離されてしまう。

中3なのにバイクに乗っていていいのか?(笑)


お父さんとの関係が我が家とは対照的な感じで、見ていてもいつも心地よかった。

お父さんは今回、旗振りの助っ人に。


そこらじゅうに入り込んで写真を撮っていたら、引っ付き虫の餌食になっていた。

この1年間、よきライバルとなってくれた3年生組。

3月に外国に引っ越しちゃう子もいて…。
常に刺激しあって、とても充実した1年となった。


最後に熱い抱擁(笑)。

全日本レディースで活躍するユカちゃんが応援に来てくれた。

ウェア争奪ジャンケンのプレゼンターをやってくれた。ありがとうございました。

なぜか君が代を歌うちゃちょうとキッズ。

度胸試しとのことで、地元の街中の交差点で歌うそうだ(笑)。
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離婚へのストーリー

2016-12-22 09:00:38 | 神様がくれたもの
離婚に至った最終的な引き金は、元妻が子供たちにちゃんと食事を与えなかったことである。
洗濯も掃除もしなかった。
これを見かねた俺が全面的に家事をやるようになり、居場所を失った元妻は家を出て行った…というのが最も近い表現かな。
俺は別に追い出したわけじゃあない。常に関係を修復しようと努力していたつもりだし、ご機嫌をとろうと色々な工夫もした。
元々から俺は手先が器用なので、その気になれば家事などやるのはどうって事はない。その俺が手を出してしまうと、家事の苦手な元妻の立場がなくなるだろうと思って、敢えて手を出してこなかった。

もちろん離婚となる以前から、長い期間に様々な積み重ねがあるのだが、彼女についてはプライバシーの問題もあり、ここではあまり細かく書くことはしない。
ただ、明らかに人が嫌がることを平然とやってのけたり、言葉遣いがなっていなかったり…例えば俺の両親や会社の税理士の先生にタメ口でしゃべったり、人と顔をあわせても挨拶をしなかったり…。
これらを注意すると毎回逆切れするので、最終的に俺が怒鳴りつけるというのが毎回のパターンだった。

実は結婚直後から些細なことで何度も「離婚する」と言われてきた。残業で遅く帰っただけで離婚すると言われたこともある。離婚届の用紙を持っているのも知っていた。
俺が独立したら仕事を手伝う約束をしていたが、まるで手伝わなかった。
目の前で俺が風呂も入れぬままに徹夜仕事していても、平気で自分だけ食事をしていた。俺の分は無かった。
それどころか、先方の母親がわざわざ九州から飛行機で来て、俺と俺の実家に文句を付けに来たことすらある。俺の母親だけは、俺を信じて泣いていた。

いつかきっとちゃんとやってくれるようになるだろうと信じて通帳も預けていたが、とにかく金遣いが荒かった。不要なものが部屋中に転がっていた。俺に小遣いをくれたことはなかった。

我慢できなくなって通帳を取り上げたら、数百万円貯まっているはずの定期が40万ほどしかなく、普通預金に至っては30万近いマイナスだった(定期預金があると、それが担保になる)。住宅ローンが何度か引き落としされていなかった。
かなり収入が高かった時期もあるし、父母の遺産もあったはずなのに、どこへ消えてしまったのだろう。

普通の神経の人ならばそんなことをする筈ない、とネットで散々調べ続けた。何かの病気なのではないかな、と疑ったのだ。
精神疾患とかでは症状に当てはまるものがなかった。行き詰っていた頃に、たまたま見かけたサイトで知ったのが、「アスペルガー症候群」という言葉である。いや、言葉だけは前から知っていたのだが、詳しくは何のことやら分かっていなかったのだ。

近年は「自閉スペクトラム」と呼ぶことが多く、発達障害の一つである。最も代表的なタイプのアスペルガー症候群の特徴からは外れているが、3~4つに分けられるタイプの1つに酷似しており、確信を持った。

実はこの時、俺は長女の一件を完全に忘れていた。この頃は全く普通の子供だと思っていたのだ。だが、ある時に思い出した。そして、遺伝をするものらしいと知った。
この時、ようやく話が繋がった、と感じた。

本を買って読んだり、専門施設に行って相談したりする中で、俺は姉に話をしてみた。
姉はこの方面の専門ではないが、医療関係に従事しているからだ。

姉からの答えは、「違う」というものだった。
学校や職場で、そういった方面の勉強もしてきているが、異なるものであると言い切った。俺がネット中心で調べていることを指摘し、「ネットの情報はあてにならない」だそうだ。無責任な情報の真偽をそれなりに見分ける能力くらいは持ち合わせているつもりなんだけどね。
元妻の実家にも相談したところ、知人の詳しい人に聞いたようで、姉と同様の答えが返ってきた。
そして「娘と離婚してください、1人で出て行きます」とのことであった。
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First Love

2016-12-20 17:37:16 | 俺のR45
セカンド・ラブ  中森明菜 1982年


誰かのファンになるという感情をあまり持ち合わせていない俺だが、その少ない対象の1人が彼女。
「二人静」までは歌詞カードなしでOK。

俺と付き合っていれば、もうちょっと違った人生になっただろうに(笑)。

ステージ復帰、おめでとうございます。
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I like・・・

2016-12-15 08:50:17 | 俺のR45
雨音はショパンの調べ 小林麻美


このミュージックビデオ、別れのイメージっていうよりも「あなた下手くそね!」とか「早いわね!」って雰囲気に見えるんですが(笑)。

小林麻美って現在63歳なんですな。芸能界を引退して久しいので、玉手箱みたいなもんですわ。
個人的にはNHKの役所広司主演の「宮本武蔵」で佐々木小次郎の恋人役のイメージが強いかな。

この曲に関しては、原曲よりも小林麻美の方が好きだな。
Gazebo - I Like Chopin - Gazebo
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長女のこと

2016-12-13 09:41:03 | 神様がくれたもの
「神様がくれたもの」。
この件について、真実を知っているのは俺だけである。身内に理解者はいない。俺の両親は他界して随分経つしね。

もしも俺が明日、事件や事故に巻き込まれて死んでしまったら、真相は闇に葬られてしまうわけで。
俺が今まで散々苦労して、白紙の状態から見つけて、何年も掛けて調べてきた事は再び白紙に返ってしまうのだ。

俺はこれをとても気にしている。
自己主張も含めて、今のうちに何かをこの世に残しておかないと、我が子3人はこの先大変苦労することになりかねない。
そして、元妻と結婚した俺がそうであったように、この先、不愉快な思いをする人が出てしまうかもしれない。

プライバシーの問題もあるので書けないことも多々あるが、少しずつ書き記していこうかと思っている。
しかし、何から書けばいいのやら…。

初めて「違和感」を感じたのは、元妻と知り合って間もない頃のことだった。
ただ、これはイキナリここへ書くことはできない。元妻とはすでに他人だしね。とりあえず長女の事から書いてみよう。

・・・
・・・
・・・
俺は元々子供が欲しいとか、子供が好きだという感覚は全くなくて、自分に子供ができるという事自体をイメージできなかった。
子供のいない多くの男性は、そうなのではないかな。
「一生バイク乗り」などと何かを真似たような発言をしている独身男性を見ると、気持ちは分かるだけに苦笑してしまう。
俺が今までの人生で最も衝撃を受け、考え方そのものが変わり、人生に一番影響を与えたのは、バイクでも仕事でも何でもない。紛れもなく子供の存在である。

でも、長女が産まれた時、最初のうちは自分の子供という事を完全には理解しきれなかったというのが正直なところ。
言葉通り「血を分けた」子供は、もちろん愛おしいとは感じていたのだが、宇宙人的に捉えていたかな。

さてさて。
いつの事だったのかハッキリとは記憶に無いのだが、長女が2~3歳の頃じゃなかったかなあ。
元妻からいきなり言われた衝撃の一言。

「(長女が)検診で、自閉症かもしれないと言われた」

この頃の俺は自閉症に関しての知識など全くなくて、何の事なのかも分からなかったし、どうしていいのかも分からなかった。
定期的に「お話をするところ」へ通い始めた長女の様子を断片的に話してくれるのだが、元妻の説明が突飛で理解できなかった事や、何より俺自身が独立開業したばかりで忙しく、あまり向き合えなかったため、踏み込んだ話をすることもなく過ごしてしまった。これは俺の最大のミスである。
しかも、この頃のインターネットはまだダイヤルアップの世代であり、今のように多くの情報が転がっている訳でもなく、ネットで調べるにも限界があった。

初めての子供なのであまり気にしなかったのだが、普段の生活ではあまり手が掛からなかったように思う。
言葉数が少なく、こちらが聞いたことに「うん」とか「ううん」というくらいにしか答えなかったかな。でも、小さな子供はこんなものだ、こういう子もいるというくらいにしか思わなかった。

滅多にあることではなかったが…そう、年に数回くらいかな。すごく喜んだときだけは一方的なマシンガントークをすることがあった。

この頃の長女が俺の仕事場に来ると、高速カッターで鋼材を切る音をとても嫌がった。
それはもう病的なほどで、号泣して駆けずり回る。

小学校に上がり、通学途中のとても細い路地の途中に良く吠える大型犬がいるという事で、学校に行くのを嫌がった。

これが解消することは無かったが、自宅を引っ越すこととなり、結果としてその問題そのものが消えてしまう事になった。
これはこのブログの過去記事を探ると触れているが、敢えてこの場ではリンクしない。

今考えると、発達障害特有の感覚過敏だったのではないかと思う。

ちょっと変わった子だな、と思う場面は多かったものの、小学校は可もなく不可もなく過ごしたように思う。「自閉症」ではなく、ごく軽い「自閉系」というものなのだろう。一昔前ならば「アスペルガー症候群」などと呼ばれていたもの。
元妻とのトラブルが無ければ、発達障害のことなど全く忘れていたはずだ。

小学校6年生の時に母親のフェードアウトが始まり、中学の3年間は男親の俺では手が付けられなかった。
受験の時にしっかりと向き合ったおかげか、今ではそこそこ認めて貰えているという感じかな。

現在は学年の上から数えて何番というくらいのレベルの成績で、学業や部活に励んでいる。
まあ、俺が中学から高校の頃と比べて、そこまで成績が良い訳ではないので期待はできないが、リケジョとして歩んでくれればしばらくは心配はいらないかなぁという感じ。当面の学費は既に貯めてある。

対面営業は絶対に無理なタイプで、一定以上のコミュニケーションを必要とする職業には向かないはずだが、我が子3人の中では最も心配の不要な子ではないかと思う。
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