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それとは無関係に・・・。
 





GITANES全集・があったら買う。
それとは無関係に・・・。

子供だった私は突然気づいた。
「本屋にはこんなに本がある。
こんなにあるのにまた新しい本が出る。
生きている間に読める本なんて
ほんの一部ですらない。」

これは生まれた町の小さな本屋での
出来事なのだが、大人になって
巨大書店へ足を踏み入れたとき
その思いを新たにした。

「本は無限で人生はあっという間だ。
こりゃあ、えらいことだ。」

だったら、ある特定の人が書いた全集などに
立ち止まっている暇はない。
という考えのもと、誰かの『全集』を自分で
買うことはなかった。
ある人の本を追いかけるのは自然なことなのだが
「全集」を構っているほど人生は長くないのでは
ないだろうか と感じていて、それは今も
ほぼ変わらない考えである。
他に読む本がきっとあるだろうに、買った全集が
足枷になっているような気がして、どうにも
居心地が悪くなる。

いや、案の定須賀敦子全集(河出文庫)を
読み進める速度が非常に緩やかになってきたから、
そんな考えが過るのだろう。


小さい長屋だったにも関わらず、子供のころの家には
「少年少女世界文学全集(学研)」が揃っていた。
百科事典とともに、装飾のつもりだったのだろう。
ただし、その中のロビンソンクルーソーしか
読んだ記憶がない。

今の書斎には
日本古典文学全集(小学館)が並んでいる。
これは祖父の遺品で、「全集」なのに全巻揃って
おらずまことに気持ちが悪い。
揃っていないが品名が「全集」なんだから
「全集」と言う他ないのだけど。

少年少女世界文学全集にせよ、日本古典文学全集にせよ
多くの著者の著作を集めたものだから
特定の作家の全集とはまったく異なる存在であって、
何かの入り口として最適の叢書なのだろう。

てな訳で
現在も須賀敦子全集(今は第3巻の途中)は1日に
数ページの速度で読み進めている傍ら
その他の本を雑多読みできているのだから
「全集」の軛からはやや逃れられている気がする。


祖父が残した古典全集は、
芭蕉集はあるが西鶴集は欠けており、
平家物語はあって義経記がなく、
枕草子はあるのに土佐日記がなくて、
能楽論集があって浄瑠璃集がないという具合である。
多分この全集は、祖父が全集の中から
要るものだけピックアップして買ったもの
なんだろう。
そうなると祖父の嗜好がわかり面白い。
また、「全集のつまみ食い」というのは
明治生まれの祖父は
「全集といえども要らぬものは要らんし、
要るものは要る。」と、非常に合理的な
考えを持っていたと言えるのではないだろうか。

いや、ただ貧乏だったか。






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