GITANES嗜好者の頃は、GITANESの在庫コントロールが
一大事だった。
それとは無関係に・・・。
兄や姉やらの家族をもてなしたり、すぐに仕事が始まったり
おまけに体調を崩したりで、あっというまに過ぎ去った
正月気分。
昔はもちろんこんな感じではなかった。
子どもの頃、年末には正月に着る新しい服を買ってもらい
それを枕元に置いて寝た記憶もある。
お年玉を貰って大喜びして、それから家族揃っておせちを食べ、
しばらくすると遊びに行きたくてウズウズし始め、昼過ぎには近所の
空き地へ。
誰を誘わなくても、自然にそこには近所の友達たちが集まっていて、
凧上げやらなにやらで大賑わいだった。
今考えると、初詣など子どもの頃には行った記憶がない。
友達はみんな新品の洋服が汚れないか、破れないか とやや慎重に
遊んではいるが、やがてそんなことは忘れてしまい、いつものように
全力でその辺りを走りまわる。
転んでズボンが破れてしまう奴や、溝に転落して全身ずぶ濡れの奴
(私だけど)が続出したが、ガキ連中全員のテンションが
上がってしまっているので、そんなことはどうでもよくなってしまう。
正月の夕焼けは切ないほど早くやって来る。もっと遊んでいたいのに
どんどん空き地の人数が減り、仕方ないので自分も家に帰る。
狭い借家に住んでいたその頃は、石油ストーブ一つで居間が十分に
暖かかった。
ただ、子どもにはそれでも暑すぎた。
テレビのチャンネル権を持っていた親は、正月番組の中でも特に
演歌や懐メロの番組が好きだったので、その手の番組ばかり観ていた。
それをイヤイヤ観なければならない私はかなり苦痛だった。
演歌の嫌さ加減と石油ストーブの暑さがリンクした記憶が
今でも頭の中にあり、それからは演歌や懐メロを聴くと
ボーッと首から上がのぼせてくる。
元日や二日は祖父宅へ皆が集合するので、幼い頃はそこへ連れて
行かれた。
各々の名前を書いた箸(袋)の席に着き、正月料理を食べる。
好き嫌いがある私は祖父によく叱られた。そして、左利きのせいで
箸を左手に持つことも祖父に叱られた。
「左箸では殿様の前で飯を食えないぞ!」という言い方で。
残念ながら今も私は左手で箸を持つので、今のところ殿様と
飯を食ったことがない。ああ、祖父の言うことを聞いておけば
よかったなあ。
祖父や私のオヤジ、叔母連中はその後書初め大会に移行した。
私など筆も持たせてくれなかったから、その待ち時間も苦痛だった。
左利きの私は、「せめて文字を書くときだけは」と祖父に手の甲を叩かれ
ながら矯正され、やっと右手で文字を書けるようになってはいたが、
もともと達筆の血を一滴も受け継がなかったのだろう。
下手を理由に書かせてもらえなかったが、幸運なことに
書初めなどまったくやりたくなかった。
廊下でボーリング遊びをやって、おもいきり叱られて以来
その正月を最後に約30年ほど、つまり祖父が亡くなるまで
祖父宅に近づくこともなかった。
お年玉の総額や件数を友達と競い合うと、常に圧倒的に負けていた。
何人かの友達のように、欲しいものはたいてい買えてしまうほど
お年玉が貰えるという身分ではなかったので、お年玉をどのように
つかうかは素敵な重大問題だった。
子どものころは安いプラモデルや本を買って満足していた。
というよりもそれで満足せざるを得ない(お年玉の)金額だったの
だろう。
吟味に吟味を重ねたプラモデルと本は、数日間の宝物になった。
それが少々色気づいてくる年頃になると、服やレコード、友達との
飲食費に変わっていく。
彼女と初詣に行くのに飲まず食わずという訳にもいかないし、
ジャージで行くわけにもいかぬ。
自転車二人乗りがいいか、いや、誰かに見つかると煩わしいから
やっぱり徒歩にしようか。
住んでいるところより少々離れた神社や寺に行き、そこで彼女連れの
友達や先輩に出くわす。
双方照れくさそうに「オス・・・。」とあいさつしながら、相手方の
イデタチを素早く鋭くチェックする。
誰にも会いたくないけど、誰にも会わないのも物足りないような
変な感覚だった。
不幸にも彼女がいない年始を迎えた年は男連中だけで初詣に行くが、
そんなときは他校の奴らにしばしば囲まれたり、後をつけられたり
という災難にも遭遇した。
格好も人相も目付きも最悪な他校の男達は、まあなんとも下品な顔を
していた(お互い様だろうけど)。
この、ポケットに入ったわずかばかりのお年玉を死守するために
痛い目を見るんだろうか。人数的にも不利だし、第一誰が正月早々
流血騒ぎが嬉しいのだ?話し合いなんて成立しないし、成立といっても
それはお年玉と引き換えになるだろうし、
なるべく人通りの多い場所から外れないようにしようと思うが、
それじゃあ日が暮れてしまうし、日が暮れると余計に不利だし・・・。
なんて考えているうちに
「うぉりゃあー!」という奇声とともに、こっちのメンバーが先に
暴れ始めるし・・・。
絶望とそいつの身体をみんなで抱えて人ごみの中を全力疾走して
逃亡した。
追いかけてくるかと思った連中は、予想に反してまったく追ってこなかった。
人ごみの中で奇声を発しながら走っていく連中とは関わりあいたく
なかったのかも知れない。
地元中学校近くに辿りつき、正月も開いていたお好み焼き屋に入り
皆で無事生還とお年玉の死守を喜びあった。
今では甥や姪にお年玉をやる身分になった。母にも渡す。
その上で手元に残った金でも、欲しいものは買えるようになった。
カツアゲに遭遇する心配もない。
しかし、それらと引き替えだろうか。
正月がまったく面白くない。
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