年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

船橋市史研究11

2018年01月20日 | 福神漬

船橋市史研究11船橋市史編纂委員会1996年3月 小沢利雄著

船橋市中央図書館郷土資料のところで船橋市市史研究の本をよんでいた。江戸時代から明治期に東京湾内で塩田があった。軍事用の塩ということで政権から保護されていた。千葉県市川市の行徳地方では行徳塩というブランドが確立されていた。行徳塩は真塩で料理・漬物などの家庭用で瀬戸内塩(十州塩ともいう)は差塩で味噌や醤油の加工用であった。その用途の違いで高価な行徳塩が安価な瀬戸内塩に対応していた。

 天保の改革で株仲間が解散され、塩の流通は混乱した。

この塩の流通の混乱で東浦賀の塩関係の業者に便宜を計らったのが浦賀与力だった中島家の人々だった。この関係から行徳の漬物商人喜兵衛が戊辰戦争の最後の戦いで中島三郎助とともに戦死した。

真塩とはニガリ分のある塩で関東や長野県などの遠隔地に販売され、潮解現象で溶け出したニガリ分で豆腐を作る用途があった。差塩はニガリ分の少ない塩で高品質だった。笠間藩士だった小野友五郎がニガリ分の多い塩で塩蔵した魚の輸出不振を改良しようとしたのは行徳の塩の改良を念頭においていたのだろうか。小野の最初の妻の津多は上総国市原郡八幡村出身という。

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