住職と雑談後、墓地に行くため、玄関を出ると、上空を飛ぶ飛行機の騒音がした。まるで昭和20年2月に叔父が台湾の任地に出発するとき、川辺村上空を低空飛行し旋回をしたという話をしていたので、またいたずらかと思ったが住職の話だと、ここは羽田空港へ着陸するため、シバシバ飛んでいるという。そういえば自宅上空はヘリの通路で、万一の時は河川に着陸する様だ。江戸川と利根川にはさまれている地域なので河川の洪水調整の原っぱの土地は広い。多分秋田とかの太平洋に回らない飛行機だろう。もし生きて飛行機に乗って下に生家が見えたらどう思うのだろうか。それとも今でもあの世からなかなか調べてくれない子孫を見てイライラしているのだろうか。
GHQの問題から、戦後の時間軸を考えると、敗戦で日本の国内の食料が不足し、餓死が出る寸前だった。埼玉の地方新聞の地域版の記事を読んでいると、ヤミ市といかに政府に協力して食料を供出するかという政府寄りの記事が目立つ。要は戦前も戦後も新聞は政権寄りだった。食料が安定したころ、地域制限が消え、野菜の過剰生産となった部分は漬物となり、食の不足している東京市場に乱入してきた。この時期の規制緩和の歴史が今忘れ去られ、漬物の裏面表示に残っていることがあまり知られていない。
廃業した厩橋のたもとにあった父が勤めていた漬物業者はGHQの監視の目が遭って廃業したというが敗戦後で食が間に合うと軍隊納めで生きていた業者は闇市の商売にはなれなかったと思われる。
昭和21年に和歌山県田辺港に帰国した、陸軍飛行二百四戦隊の軍人たちは、それぞれのつてを頼り生きてゆくことになる。記録によると特攻作戦の隊長は特攻死した隊員の遺族を訪問し、最後の状況を話したという。これがいつだかまだ解らないが、その話で特攻遺書が処分された気がする。住職の話では地域の人たちは沖縄での叔父の特攻の戦果があったことを知らないようだった、戦後の犬死論が親族で話されていたのは近所の進駐軍に叔父の最後の話が漏れることを恐れたのだろう。
学校の記録も消え、あるのは写真のみである。卒業した埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)に成績記録が残るが、野田市の野田農工学校には既に記録がない様だ。川辺小学校には記録だあるのだろうか。忘れ去れた叔父はいま知覧と靖国神社・京都・埼玉の護国神社に名前が残る。