浅草から荒川区屁都バスで行く計画をたて、土日が雷門バス停で荒川区役所行きのバスが混雑を避けて始発の雷門1丁目バス停まで歩いた。丁度来た都バスが南千住という行き先表示が出ていて、慌てて乗ったのだが、落ち着いて付近の風景が違っていて、バス案内から南千住駅東口行きだった。確か前に南千住駅東口から乗った時は、巨大な隅田川と貨物駅を大回りした記憶があって、どこかで降りないと思っていたら隅田川駅前というバス案内が聞こえ、そこで降りた。見慣れたトラック会社があって、築地に出入りしていた時、玉ねぎ.ジャガイモのコンテナ便を運んでいる会社の名前が見えた。そこでバスを降りて,勘で南千住駅の方に向かうが、途中に南千住営業所という都バスの車庫があった。道理で人の少ない所にバス便が多いと思った。歩道橋のエレべ-タ-を昇り、跨線橋の下をコンテナ貨物便が通る。地球温暖化とトラック運転手の労働時間の規制でコンテナ便が増えていると実感する。
線路を超えると南千住の回向院の所に出る。寺院内を見ると車が数台止まっていて、喪服姿の人が見える。年回忌のようで、すぐに立ち去る。そこから荒川1丁目の圓通寺に向かうのだが、番地を忘れ、国道に出て、歩道の所でビルの間に樹木が見える。多分寺院と思い、歩いてゆくと圓通寺だった。ここには上野戦争で亡くなった人、その人たちを集め荼毘にした人、上野戦争で敗北後に箱館まで行った人。そこで箱館戦争の関係者の慰霊碑等がある。目的は三河屋幸三郎の墓で、墓の名は三河屋だった。
圓通寺を出て、浅草方面に向かうと、国道の先に電車の姿を見つけ、歩道が途切れたところで、右を向くとジョイフル三ノ輪のある商店街が見えた。記憶からこの商店街の外れに都電荒川線サクラトラムの三ノ輪橋停留所があると思い、少し中に入って交差点で眺めると、記憶が戻り都電の停留所だった。そこから発車すると、次の駅案内で荒川1丁目ジョイフル三ノ輪.と言っていた。一駅分ほどジョイフル三ノ輪酒店街はあるのかと思ったが最初に出会った時は、東武東上線大山商店街、東急の武蔵小山商店街よりはるかに小規模で繁盛している様子が見えない。それどころか荒川線の印象は京成線の乗換駅から三ノ輪橋にかけて、下町風の人達の風景と感じる。サクラトラムという名称はフーテンの寅さんというイメ―ジがあって、サクラは寅さんの姉のイメ―ジのある老婆電車だった。老婆は一日にしてならず(ローマは一日にして成らず)そうだよあの老婆は昔は奇麗で若かった。夢も希望もたくさんあった。そんな妄想を頭の中で考えつつ、荒川区役所前駅の次の駅荒川2丁目駅で降りて、荒川区中央図書館ゆいの杜へ行く。今日の目的本は小原鉄心と大垣維新史という本で本の宣伝文では(幕末維新史の流れの中で、美濃大垣藩は佐幕から勤王に転ずる。その決断の背景には、城代・小原鉄心の政治力が大きく働いていた。大垣藩主・戸田氏正(妻が極子)とともに、西洋文明の導入や大砲の鋳造など大垣藩の藩政改革に努め、梁川星巌、佐久間象山らとも交流のあった小原鉄心と、詩人菱田海鴎、野村藤陰らの生涯と詩文から、維新史の知られざる側面に光を当てる。特に漢文詩人菱田海鴎は一時西軍から幕府方のスパイと見なされ、処刑寸前に遺書の文章の見事さから、名のある人物で処刑するのはもったいないと思われ助かったという人物でもある。この小原鉄心を検索したのは彰義隊と西軍の両方に鉄砲販売をしていた日本版死の商人という大倉喜八郎という人を今調べていて再度の検索でスネルという武器商人が出てきて、小原とスネルの関係を知りたかった。1時間ほどで概要を読んで、暑いので次回に都立中央図書館で読むことにして、帰りは荒川一中前駅で降りて、ジョイフル三ノ輪商店街を歩く。この商店街は昭和の風景がかんじる。何だろうと思いつつ、味噌の専門店がある。コンビニらしき店が無い。肉屋総菜屋がむき出し販売。昔の売り方。喫茶店等もチェ-ン店もない。当然の様に飲み屋もチェ-ン店なし。唯一あるのが業務ス-パ-でこの頃目立つイオンのマイバスケットももない。三ノ輪の商店街を抜けると国道の所に都バスの停留場があって、そこにはチェ-ン店と高層マンションが建っている。三ノ輪の都電は町が古すぎ、小さな家が林立していて、住民の移動が少ないと感じる。ここから寅さんの下町感が出ている気がする。
来た都バスで浅草1丁目まで行くがそこはこの暑さで異国人の場となっている。これでも難儀しているのに京都の人は大変だろう。
線路を超えると南千住の回向院の所に出る。寺院内を見ると車が数台止まっていて、喪服姿の人が見える。年回忌のようで、すぐに立ち去る。そこから荒川1丁目の圓通寺に向かうのだが、番地を忘れ、国道に出て、歩道の所でビルの間に樹木が見える。多分寺院と思い、歩いてゆくと圓通寺だった。ここには上野戦争で亡くなった人、その人たちを集め荼毘にした人、上野戦争で敗北後に箱館まで行った人。そこで箱館戦争の関係者の慰霊碑等がある。目的は三河屋幸三郎の墓で、墓の名は三河屋だった。
圓通寺を出て、浅草方面に向かうと、国道の先に電車の姿を見つけ、歩道が途切れたところで、右を向くとジョイフル三ノ輪のある商店街が見えた。記憶からこの商店街の外れに都電荒川線サクラトラムの三ノ輪橋停留所があると思い、少し中に入って交差点で眺めると、記憶が戻り都電の停留所だった。そこから発車すると、次の駅案内で荒川1丁目ジョイフル三ノ輪.と言っていた。一駅分ほどジョイフル三ノ輪酒店街はあるのかと思ったが最初に出会った時は、東武東上線大山商店街、東急の武蔵小山商店街よりはるかに小規模で繁盛している様子が見えない。それどころか荒川線の印象は京成線の乗換駅から三ノ輪橋にかけて、下町風の人達の風景と感じる。サクラトラムという名称はフーテンの寅さんというイメ―ジがあって、サクラは寅さんの姉のイメ―ジのある老婆電車だった。老婆は一日にしてならず(ローマは一日にして成らず)そうだよあの老婆は昔は奇麗で若かった。夢も希望もたくさんあった。そんな妄想を頭の中で考えつつ、荒川区役所前駅の次の駅荒川2丁目駅で降りて、荒川区中央図書館ゆいの杜へ行く。今日の目的本は小原鉄心と大垣維新史という本で本の宣伝文では(幕末維新史の流れの中で、美濃大垣藩は佐幕から勤王に転ずる。その決断の背景には、城代・小原鉄心の政治力が大きく働いていた。大垣藩主・戸田氏正(妻が極子)とともに、西洋文明の導入や大砲の鋳造など大垣藩の藩政改革に努め、梁川星巌、佐久間象山らとも交流のあった小原鉄心と、詩人菱田海鴎、野村藤陰らの生涯と詩文から、維新史の知られざる側面に光を当てる。特に漢文詩人菱田海鴎は一時西軍から幕府方のスパイと見なされ、処刑寸前に遺書の文章の見事さから、名のある人物で処刑するのはもったいないと思われ助かったという人物でもある。この小原鉄心を検索したのは彰義隊と西軍の両方に鉄砲販売をしていた日本版死の商人という大倉喜八郎という人を今調べていて再度の検索でスネルという武器商人が出てきて、小原とスネルの関係を知りたかった。1時間ほどで概要を読んで、暑いので次回に都立中央図書館で読むことにして、帰りは荒川一中前駅で降りて、ジョイフル三ノ輪商店街を歩く。この商店街は昭和の風景がかんじる。何だろうと思いつつ、味噌の専門店がある。コンビニらしき店が無い。肉屋総菜屋がむき出し販売。昔の売り方。喫茶店等もチェ-ン店もない。当然の様に飲み屋もチェ-ン店なし。唯一あるのが業務ス-パ-でこの頃目立つイオンのマイバスケットももない。三ノ輪の商店街を抜けると国道の所に都バスの停留場があって、そこにはチェ-ン店と高層マンションが建っている。三ノ輪の都電は町が古すぎ、小さな家が林立していて、住民の移動が少ないと感じる。ここから寅さんの下町感が出ている気がする。
来た都バスで浅草1丁目まで行くがそこはこの暑さで異国人の場となっている。これでも難儀しているのに京都の人は大変だろう。