年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

漬物業の歴史 江戸時代まで

2006年03月16日 | 築地市場にて
漬物は、野菜を塩分によって保存したり,味付けたりしたことから始まった。奈良・平安時代にはすでに、塩漬・ひしお漬・粕漬などがあったようで、材料にはウリ、ナス、カブ、セリ、ミョウガなどが使われた。しかし塩は高価で、野菜の栽培もまだ一般的ではなかったので、漬物は限られたごく一部の人のためのものだったと考えられる。当時、塩は調味料として振りかけていた。
鎌倉時代に入ると禅宗が盛んになり,武士は質素な食事として,朝食は粥にダイコン漬二切れと梅干しであった.梅干しは戦時の携帯の食として大切にされた。やがて,室町時代に入ると,各種の野菜の栽培が始まり,神社や仏閣の祭りで販売されたりした。
 古い歴史を持つ漬物は家庭で漬ける食べ物として,売買されず,江戸時代になってようやく,京都や大阪市内と江戸では旗本や大名などへの出入り漬物の問屋が江戸市中に誕生し、漬物の振り売り(行商)が現れて、市民の食卓にも欠かせないものとして発展する。江戸時代の食事は「一汁一菜」と言われ,その中身は味噌汁と漬物をさしていて,漬物は主な副食であり,保存食であった。その代表はたくあん漬けで、米の精白が一般化したことで大量に生じたぬかが、漬け床として再利用された。今では名前だけでどのような漬物であったか判らない漬物も多数生まれた。
平成の現在、江戸時代から続いている漬物の老舗は少なく、あっても幕末からの創業で、大部分は明治時代以後の創業が多い。
江戸時代の食文化を記述している“守貞漫稿”によると、江戸京橋北に川村与兵衛と云う香物店あり。近年諸漬物を薄くきり、数品を折に納め、これを売る。音物・方物等に用いる所なり。はなはだ美にして蒸菓子折りに似たり。小折百四十八文ばかり、中折大折これに準ず。この他三都とも,この制を見ず。
川村与兵衛の店は東京都中央区の京橋大根河岸の碑から200メートルの位置にあった。 京橋区本材木町3丁目 創業・文化4年(1807)
音物(いんぶつ)とは、進物、贈り物。
方物とはその地方に産するもの、土産。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おにぎりの具

2006年03月15日 | 趣味としての漬物
日本の食文化は米(=石高制・税金)食文化とも言えます.ただ実際、日本全国民が何時でも好きなだけ米が食べられるようになったのは30年前(1970年頃)からです。
米を食べる地域でも粒食文化と粉食文化に分かれており、米の種類にもねばりのあるジャポニカ米と、ぱらぱらのインディカ米とがあります。粒食、しかもジャポニカ米を食べているのは日本ぐらい。おにぎりは平安時代の頓食(とんじき)が起源といわれています。この頓食は戦国時代の兵士や畑仕事の携帯食として用いられたようです。
日本兵食史 上巻 陸軍糧秣本廠 33頁 
米について見るに、播磨風土記に粳岡または糠前の地名伝説として見ゆる粳、糠は今日云う糠と異なって、籾殻も混在した糠であると考えられる。わが上代人もまた木製の舂(ツキ)に木製の杵を以って籾米をついて籾を取り去ったもので、その結果は現時の如き玄米と同一であったとは考えられぬ。すなわち搗く事は籾殻を脱落せしめると共に、幾分の糠も取れるという程度であったろう。奈良朝から平安朝にかけて、史に見ゆるところの黒米・白米などはこの搗き方の程度に関係しているもので、白米といえども今日のごとく精白された白米と相違して、単によく搗かれて、白き米となった位のところであろう。而して、黒米は、籾殻も混在して底のもので、これが常用されていたものであろう。

125頁
平安朝時代
主食品たる米の精米は、既に上流階級の間に行われていた。これは臼で搗いて白くしたものであって、勿論現代の如き白さの程度が異なっている。同じ臼で搗いても、その程度の少ないものが黒米とすれば、多く搗いて白くなったものが白米といわれたものであろう。これらの米は甑(コシキ)にいれて蒸して食用に供するのが普通でこれを強飯(コワイイ)と呼んだ。而して鍋や釜やで煮たものを粥と呼ぶのであるが、現代人が炊事する場合にも硬軟あるが如く、この時代には、この二者の程度が著しく離れて行われたものの如く思われる。即ちよく炊かれたものを姫飯と呼ばれているが、この姫飯は大体平安朝末期より行われたものの如く、強飯に対照するものである。粥は上流貴人が朝食などに摂取する場合が多く、今日と同様に病人の食物でもあった。カタシキ飯なるものは、文字通りに堅く炊ぎたる飯で、即ち半熟の飯である。
 糒(ホシイイ)は貯蔵用に又兵食として前代から多く利用されたのであるが、今期に至っては比較的需要が少なくなった傾向が見える。それは粥やカタシキ飯やその他雑穀の飯などが鍋釜によって作られるという改革が食物界を風靡したからである。従って、糒は旅行用又は貯蔵用としてのみ、その生命が保たれることになった。これは平安朝末期から顕著になったと様に思われる。糒は冬には湯をかけて食するため湯漬といい、夏日は水に入れて食べるが故に、水飯又は水漬と呼ばれる。強飯の場合も同様に呼ばれた。
 屯飯(握り飯の様なもの)がこの時代より行われた。要するに簡便に食事をさせる為に作られた包み飯である。
 しかし、これらの食事は京師中心のものであって、一歩地方に出たならば、どの程度ものか明らかでないとしても、相当に低下されて見るべきである。と言っても、徳川期の如く麦を主食としたということは無い。麦はその収穫も少なく従って値も高かったからで、農民も亦米を主食としていたものと思われる。

漬物は米食と共にある。従って、米の歴史に影響されます。兵食の中でおにぎりの具の基本は漬物で、特にすっぱい梅干です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一夜漬  ”曽根崎心中“ですよ

2006年03月14日 | 趣味としての漬物
 世間を騒がせた事件をすぐに劇に組み替え舞台にかけた作品いう。際物(きわもの)狂言、一夜漬狂言。世話物(せわもの)とも云う。
歌舞伎狂言,人形浄瑠璃の内容による分類の一つ。時代物に対する称で,江戸時代の町人社会を中心として扱った,当時の現代劇である。上方の世話物は,一夜漬狂言などといわれ,世間を騒がせた事件を直ちに舞台化した。
一夜漬狂言の代表作
  近松門左衛門の「曽根崎心中」は庶民を主人公にした心中物・不義物・処刑物などを「世話浄瑠璃」と呼ぶようになった画期的な作品である。
 元禄16年(1703)、大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で、堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛の心中事件が起こる。
 経営不振で悩んでいた大阪の人形浄瑠璃の竹本座が近松門左衛門に「曽根崎での心中を浄瑠璃にしてくれ」と頼んだ。脚本を頼まれた近松はわずかな日数で台本を書き上げ、心中から1ヶ月後に竹本座で初めての心中物「曽根崎心中」を上演した。
 曽根崎で心中があった時、近松は、竹本座の知らせで心中現場に向かうため、舟に乗った。近松は舟の中で事件のあらましを聞くや、早々と原稿を出して書き出したという。(一夜漬の由来)
 経営不振に陥り借財に困っていた竹本座は、この1作で一挙に借財を返して立ち直ったほどであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢庵漬の黄色について

2006年03月13日 | タクワン
先日の夕刻、テレビ局の仕事をしている人から電話がありました。築地で仕事をしていると問い合わせや撮影等が多く、できるだけ他の人で済むときはよそに回します。その時の取材の用件は沢庵漬の着色のことでした。

沢庵の黄色について

大根を塩蔵しておくとその辛味成分が分解し、長く漬けておくと黄色になります。この自然変色は、大根の辛味成分4-メチルチオ-3プテニル芥子油が漬け込み中に分解し,そこに生成した硫黄が大根のタンニンと結びついて黄色色素をつくることによって起こる。従って辛味の多い部分が早く黄色になる。この黄変がうまくいけば着色なしで黄色い沢庵が出来る。しかし、自然に出来た黄変は小売店の蛍光灯の光線に弱く、すぐに色あせてしまう。光に当たる部分は白く、うらは黄色いタクワンとなる。冷蔵庫など低温で漬けると黄色が抑えられて白く仕上がります。また、沢庵の匂いを嫌がる人が増えていますが、これも大根の辛み成分が化学変化して起きるものです。熟成中に出来た独特のこの香り、近年は消費者のニーズに応え、除去が研究されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の交通事故

2006年03月12日 | 築地市場にて
練馬の農家は江戸時代、馬や荷車で江戸まで大根や沢庵漬を運んでいました。
馬を使った運送の方法は,馬の背に荷物を積んで運ぶ「荷駄」のみでした。幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。舟運の悪い地域からの輸送は荷車や馬なので時間に追われる青物市場や魚河岸は出入りの混雑によって,徒歩の速さでも交通事故はおきていた。
大石慎三郎『江戸時代』中公新書、1977年、によると
 正徳六年(1716年)、幕府は、頻発する「交通事故」を前にして、以後、雇い主の責任規定まで含んだ、歩行者優先の断固たる処置をとることを町民に通告している。私たちはそれを、『御触書寛保集成』(岩波書店、1976年)に見ることができる。「自今以後は、此等之類〔=車引き、馬引き等〕、たとひあやまちより出来候て人を殺し候とも、一切に流罪に行はれ、事の体によりて、猶又重科に行はるへき者也」、と。そして実際
子どもを死に至らしめた享保十三年(1728年)の車引きは遠島(流罪)にあい、雇い主は罰金を課せられている。
大八車
江戸時代初期に町を整備するために活躍した大八車ですが、それから100年後の1727(享保12)年に調査した結果では江戸には約2000両の大八車が存在していたそうです。
その台数はかなりの物で、その為に大八車が絡ん交通事故が頻発していました。
そこで
1695(元禄8)年には積荷制限令
1708(宝永5)年には駐車制限令
1716(正徳5)年には交通基本法が発令されています(徳川6代将軍・徳川家宣の時代

平成24年開場予定の豊洲新市場は、近代的な交通制御システムの導入が検討されてます。ただ、現在でも天秤棒で運搬している人がいたり、小車(人力)・ターレット等の車は築地より1.5倍広い豊洲ではどうなるのでしょうか?(ターレットは電動のみ許可の予定)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸 野菜の輸送

2006年03月11日 | 趣味としての漬物
江戸の東の地区は舟運によって野菜は運ばれたが、西山と呼ばれた江戸城西方の野菜の輸送手段は牛車と大八車・馬による輸送だった。
江戸の牛(都史紀要32)より
西欧社会と比べて、車両交通の未発達は江戸時代の特色である。
国史大事典4 943頁 吉川弘文館出版
江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に使い、建築資材を中心として輸送にあてたが,大八車の普及につれて、地名としてその面影を残すにすぎなかった。
 江戸市中に大八車が使用され始めたのは明暦の大火以後、江戸の復興工事のときで、寛文2年刊の“江戸名所記”には
このころ地車といふ物を始めて、牛をかけず、車に荷物をのせて人八人してこれを引く。江戸市中我も我もとこしらえて、その車の名を代八と名づけて用ゆ。牛に変わりて八人して引かすれば、江戸市中の馬借馬子は、地車を嫌がり憎みて、代八を引くものを、人畜生と罵るとかや。
また、守貞漫稿によると
(世事談)に曰く、寛文年中、江戸にてこれを造る。人8人の代をするを持って代八と名づく。今は大八と書く。その頃、宮中にて讒言して云う、人をして牛(午)のごとくならしむ、云々。

代八車は飼料代もかからず、車引き,車力の賃金も安く、狭い道路も自由のいけた。急速に増え、伝馬町の助馬制度を脅かす存在になった。後に大八車に極印し口銭を掛けた。
元禄時代に極印賃徴収が中止されると、荷物の区分を提案し伝馬町役人は馬持ちの荷物の確保を図った。
伝馬役所 伝馬助役に影響あるもの
   牛荷車を抑える 馬持ちの人を減らさないため
   牛荷車の方が積載量が多い。
   牛の購入代金と飼料代が半額と安い。
   放置すると馬持ちが減り、伝馬の公儀御用に支障をきたす。
   伝馬制度を維持するため幕府は馬持の保護政策となる。
現代の築地市場には大八車はないけれど小車が水産仲卸の狭い場所で活躍しています。その理由の一つとして、大八車の便利さ同じ理由です。駐車が楽、ガソリンがいらない、一方通行逆行できる、免許がいらない等です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千宗旦と沢庵

2006年03月10日 | タクワン
千宗旦は、千利休の孫です。利休の切腹時のときには大徳寺(京都・臨斎宗)のもとにあずけられ、禅の修行に励んでいたが、ほどなく千家の再興が許され、父・少庵が利休の茶室不審庵を継いだときに大徳寺から召し返され、本法寺の屋敷へ移りやがて千家三世を継ぐことになった。やがて宗旦は徳川家をはじめ、諸大名から茶頭として招かれたがこれをいっさい断った。したがって宗旦の生活は相当に苦しく、「乞食宗旦」と呼ばれていた。また、貧しいが故にますます侘びに徹し、茶禅一味の心境へ到達した。
 堺の町が大阪夏の陣の後、次第に衰退し、千宗旦は大名家の庇護がなくては茶道の維持さえ困難な時勢を考えて,大徳寺で同時期修行していた沢庵(紫依事件の後の)に仕官の道を依頼しました。沢庵は柳生宗矩をつうじて三男江岑宗左を紀州徳川家に,ついで四男仙叟宗室を加賀前田家に,次男一翁宗守を讃岐松平家にそれぞれ茶道師範として仕えさせます。ここに表千家・裏千家・武者小路千家の世にいう三千家の原型が成立し,宝暦・明和(1751~71)のころから利休流茶道の家元として栄えるようになります。
 この後,三千家流以外にも遠州流・石州流などの諸流派が競い起こり,茶湯は武家・公家・僧侶の社会からあふれて京都・大坂・江戸をはじめ地方都市の富商や豪商らの間にまで普及するようになりました。なお、江戸・東海寺(沢庵和尚が開山)の庭は小堀遠州(武家の茶道・遠州流)の普請でした。
遠州流
大名を中心に武家社会で盛んであった茶道流派。徳川家光の茶道師範。
柳生宗矩
1632年には初代の江戸幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任とした。自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺に葬られた。柳生十兵衛の父でもある。
つまり、江戸初期の茶道は情報収集の場でも社交の場でもあったといえる。茶会席のとき出される沢庵漬はそれ以前にあった糠大根の百一漬等の名称にとって変わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お茶と砂糖

2006年03月09日 | 趣味としての漬物
お茶が伝来して、本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、鎌倉時代.栄西上人が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。茶と菓子を一組にする喫茶の風習は茶の湯の流行をもたらし、茶を中心の室町時代の趣味は、宋元両国の文化と禅宗の風格と合致して茶道に体現された。茶道の流行は戦国時代に至ってその極に達しました。
江戸時代に入って元禄の頃までに、菓子は目覚ましい発展を見せたといわれます。日本の砂糖製が造ヨーロッパと違うのは、日本人は奴隷労働に頼ることなく、すべて日本人の手でしたことで、讃岐では独自の方法で三盆白(現、和三盆)という白砂糖を作ることに成功した。こうして幕末にかけ砂糖生産は讃岐、阿波、和泉をはじめ全国的に増産を達成したが江戸時代を通じて、所得の低い庶民にとって砂糖は高級消費財であって、戦前までずっと季節の贈答品やお祝い用の品など、貴重品として扱われていたのである。

和菓子の急激な多様化の原因として考えられるのは、まず落雁類や求肥、それに南蛮菓子といった新しいレパートリーが加わった事があげられます。また製粉用ひき臼が渡来し、米粉の製造も可能になり、蒸すという技術も向上していきました。それは道明寺粉や寒ざらし粉(白玉粉)などの新しい米粉が創製されたことによって可能になったものでした。
 こうして饅頭、落雁、羊羹は完成品として世に出され、確固たる菓子の地歩を築きました。茶道の興隆に触発された和菓子は、この後茶道と共に発展しました。その背景には国内砂糖生産の急増があり、技術の進歩とあいまって、和菓子は完成の域に達しました。近世城下町各地において、藩主の「茶の湯」とともに発展した和菓子は、砂糖を素材とした芸術作品で、日本が世界に誇る砂糖文化であり、茶の文化である。
 明治時代に入り、不平等条約による砂糖の低関税によって、開国に伴い砂糖の輸入の増大、価格が低落し、菓子の全盛期をむかえ、一般庶民に広く普及しました。と同時に生産性が低く,価格の高い国内の砂糖産地は破壊されました。
現在、野菜や果物の甘味がどんどん増しています。甘くすると高く売れるからです。甘味に対する願望、これは昔、日本人が米に対する願望と似ています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脚気(江戸患い)と精米技術

2006年03月08日 | タクワン
江戸時代の都市における脚気(ビタミンB1の欠乏)の拡大は、精米法の技術的進歩にともなう白米食の普及を原因としたものであった。白米は、玄米の(余計な部分=糠)を取り去ってきれいにしたもの(精米したもの)であるが、その精米過程で玄米の胚芽などの部分に含まれるビタミンB1も取り除かれてしまったのである。しかし、糠には白米に無い栄養素を豊富に含んでいたのである。
 江戸時代中期あたりまではどこでも足踏精米をしていましたが、兵庫県の酒造業者は六甲山系から多くの川が流れているので、この川の流れを利用して水車精米を始めました。足踏みだとせいぜい8分搗(づ)き(精米率92%)でしたが、水車精米だと2割5分(精米率75%)から3割5分(精米率65%)搗(つ)けるようになったので酒質が一段とよくなりました。江戸では玉川上水の流れを利用して精米が発達しました。

 江戸時代において、白米はちょっとした贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。そのため脚気は「江戸患い」とも呼ばれたのである。精米技術の未発達=未普及ということで脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。
 ところが、明治時代になり精米法の技術的改良の結果として白米が安くなり、庶民の米食も白米になったために脚気が日本全国に蔓延した。とりわけ寮生や軍隊の兵士らは白米食中心の食生活を取ったために罹患率が高くなった。

練馬の沢庵伝説として徳川綱吉が、時々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、占い師に占ってもらったところ、城の西北に方り、馬の字を附する地を選び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、脚気症が癒え、大根の種子を尾張に求め、試みに練馬の地に栽培させた。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得た。病癒えて帰城すると、練馬大根を献上させた。以来練馬大根が幕府御用の大根となったといわれる。

沢庵漬は糠を利用した大根の漬物なので多少は脚気の病に役に立った食品であったかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正宗 清酒(すみさけ・せいしゅ?)

2006年03月07日 | 宅老のグチ
“櫻正宗”は寛永二年(1625年)に池田荒牧村(現・大阪府池田市)に創醸しておよそ400年、“正宗”ブランドの発祥の日本酒製造会社です。
沢庵和尚の生存の時代とは異なるのですが茶の湯の大徳寺(臨済宗)と関係あるのでしょうか。
 創業享保十二年(1717年)の「桜正宗」は、六代目当主山邑太左衛門が、
西宮に灘の酒の宮水を発見したことでも知られています。“正宗”ブランドは仏教の経典『臨済正宗』(りんざいせいしゅう)にちなんだもので、正宗と清酒のゴロが似ているからつけられたものですが、全国に正宗の名をつける酒蔵が増え、明治十七年に政府は「正宗」の商標権登録を退け、正宗を普通名詞扱いとしたため”櫻正宗”のブランドにしました。
 現代でも商品の名前に“ダジャレ”のようなものがあります。当時として、臨済正宗はどんな言葉として取られていたのでしょうか?資料がないので何ともいえませんが高級感を演出する意図が感じます。茶の湯の大徳寺(臨済宗)は文化人、朝廷、武士の茶会政治のブランドです。
 茶道は飲酒戒のある仏教(臨済宗)と日本酒を結びつけた。茶事の会席料理は酒がつく。香の物の沢庵漬(=酒造の廃棄物で作った漬物)は日本を代表とする漬物となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

砂糖と土産

2006年03月06日 | 趣味としての漬物
江戸時代は砂糖がまだ貴重な時代で贈答品や献上品として用いられ、初期は輸入品であった。16世紀までは、中国、シャム(タイ)、カンボジア等から輸入していて国内では全く生産していなかった。国産品が増えてきたのは17世紀には入って、1727年八代将軍吉宗はサトウキビの栽培を奨励し、各地に砂糖の産地が出来る。和糖の始まり。ぜいたく品であった砂糖は次第に日本各地の名物に砂糖を使用した菓子類を生んだ。庶民が口にするのはハレの味で行事の時か、旅に出たとき食える。寺社の門前にある茶屋の茶受けとしてアンを用いた菓子を口にして広まった。旅の情報紙として挿絵と文章の入った地本や引札(商家や商品を広告する刷り物)が発達し旅先で名物を食べたりする事になった。菓子の類が名物から土産になったのは交通手段が発達してからである。
明治時代に不平等条約の開国によって砂糖の関税が抑えられ価格が暴落し、砂糖を使った甘味が庶民まで行き渡った。砂糖の歴史は糖業の歴史であり、国の経済・財政・徴税政策の歴史である。そのことを理解しないで、食品の一つととらえたととき、理解に苦しむ歴史となる。東京・中央区の“べったら市”の歴史を調べるとその意味が解る。

最近、甘いもの離れで観光地において各地の土産として漬物の土産が増えてきているのは高齢化社会を迎えてみやげ物業者の努力の賜物である。塩分を押さえ、他の観光地にない商品開発した結果である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干し大根

2006年03月05日 | 趣味としての漬物
冬になると大根は辛味が消えて甘味が増します。江戸時代、束ねた干し大根が、いくつもいくつも舟から京橋川を通り河岸に下ろされました。江戸庶民の人気の高い大根の入荷が多かったので大根河岸と呼ばれたという。江戸の初めの頃は大根の品種は三河の大根であったが、江戸時代中期から練馬大根に次第に切り替わり、江戸末期には亀戸大根を意味していた明治時代は三浦大根が有名であった。江戸の人口が増加するに伴い生鮮野菜が不足していたので価格の安定していた大根は庶民の野菜でした。
 江戸では、沢庵漬を作る場合は、干しだいこんを購入して加工していました。生産地では、干すことによって保存性が高くなり運搬が容易になる上、出荷時期を遅らしたり、付加価値を高くして(沢庵漬けにする)売れるという利点もあったからです。
 また、乾燥することにとって、だいこん自体が持つうま味成分が凝縮され、米糠、食塩で漬け込むことにより発酵が進み「苦味」や「アク」が抜け、独特のうま味が加わり美味しく食べられるようになります。今でも、暮れになると築地市場に群馬の空っ風によって干された大根が入荷します。今時、東京のどんな人が家庭で漬けているのでしょうか。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肥料 江戸はリサイクル

2006年03月04日 | 趣味としての漬物
野菜の中で大根は重量野菜に分類される。肥大した根はその分、畑の養分を吸収し、肥料を施さねば、すぐに収量が減る。従って、大根栽培は安価な肥料の確保が重大となる。練馬大根の歴史には肥料の確保の歴史が必要となる。

江戸は今から思うと資源の循環がよくなされていた社会であった。
軍事物資であった塩を確保するため,千葉の市川・行徳に塩田を開発し、その輸送のために江戸と市川を結ぶ通路として小名木川が掘られた。江戸市民の出した廃棄物は拾い屋といわれる人々が回収して販売していた。燃やした灰まで回収していた。「かまどの灰まで俺のものだ」と言うセリフはこのことから来ている。灰まで取引されていて,あく抜き用や染物用に使われていた。それでも残った江戸市民の出したごみや水路の浚渫した土砂は今の江東地区に埋め立てられた。集められたごみが発熱して野菜の促成栽培用の熱源となった。また、江戸市民の糞尿は野菜栽培の肥料として,価値ある商品として取引されていて,下肥(糞尿)の価格の上昇は野菜栽培農家にとっては重大な問題であった。わが国において,下水道の普及の遅れは都市住民の排泄物が価値あるものとして取引されていたため,下水道の必要性が最近まで迫られていなかった。
 下水道の整備の遅れは、明治時代のコレラの流行によって整備の必要性が生じた。東京の都心で生ものを扱う不衛生な日本橋魚河岸はコレラの流行のたびに移転が迫られた。平成の今も築地市場の移転の大義名分は“食の安全と安心!!”、現状の築地市場では完全に確保できないということである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東アジアのぬか漬とぬかみそ漬

2006年03月03日 | タクワン
東アジアの糠(ぬか)漬
糠味噌の始まりは‘じんだ‘と呼ばれ古くから存在していて,今で言う糠味噌床のようなもので,麹や大豆、米糠のようなものを水と塩で練ったもので、これ自体調味料(江戸時代)になっていて,魚,肉類や野菜を漬けて食べたり、じんだ床に漬けておけば漬物になりました。糠に塩を混ぜて漬ける糠漬けは、庶民が作るようになったのが江戸時代中期。米の生産の増加と精米技術の発達で糠が手に入るようになってからです。
 米糠を塩水で練っただけの糠味噌床は米食民族ならどこでも作っていそうですが,中国や東南アジアでも聞かれません。日本の漬物のほとんどは中国や朝鮮からですが糠漬けはありません。米糠を利用した漬物として「沢庵漬」がありますが中国や朝鮮(江戸時代の)に全くなく、日本の食文化が生んだ独自の漬物です。2005年韓国において沢庵製造の余り野菜のごみで作った餃子の腐敗事件がありました。韓国でも沢庵漬は(タックワン)といわれ,戦前,日本が朝鮮を植民地支配していた時、日本から輸出して,現地に普及した名残です。
 中国や朝鮮に沢庵漬(糠漬大根)の漬物がない理由として、
1 気温 中国南部の米作地方は気温が高く、米糠は腐敗しやすく,気温の低い中国北部は粉食(小麦の産地)で米糠が出ない。
2 中国や朝鮮の容器として,甕や壷で一般に使われていて,重石をかけて漬ける沢庵漬は樽か桶の容器でなければ漬からない。キムチ等のつけ方をみると重石は無いか軽い。日本の鹿児島県のつぼ漬はほとんど重石をかけていないので甕や壷に漬けられる。
3 大根の品種が沢庵に適していない。
4 沢庵を必要とする食文化がない(茶の湯等によって始まった会席料理)
中国における食文化
中国に「南粒北粉」という言葉がある。「南稲北麦」とも言われる。長江流域以南の湿潤地帯では稲が栽培され、それ以北の乾燥地帯では麦・雑穀の栽培がおこなわれる。これに応じて、南での主食は米飯(粒食)であり、北では粉食が主流となる。
米は杵、小麦は碾き臼の技術が必要となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅干 着色

2006年03月02日 | 趣味としての漬物
梅干と保存料
最近、梅干の通信販売等の宣伝で、梅干に着色は使用しておりません。というのがある。
梅干は江戸時代からシソを使って、赤く染めていて、今は合成着色料の許可がなされていて使用している。
元禄時代の文献・本朝食鑑に梅の実とシソの葉を一緒に塩蔵すると汁は赤くなると記されている。当時から梅を着色するためにシソが使われている。
日露戦争が始まると、軍需用としても梅干の需要が伸び、白いご飯の真ん中に赤く染めた梅干をいれ、日の丸(日章旗)に見立た。「日の丸弁当」の呼び名は、この頃生まれた言葉のようです。急に売れたので、シソで赤く染めるのが間に合わなく、合成着色料を使用したと思われます。赤くなければ日の丸になりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする