年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

どうやって証明できるのか カレ―ライスと福神漬

2025年01月22日 | 福神漬
あるテレビ局のデイレクターから、カレ―ライスに福神漬が付けられていることの話を聞かれた。意外とこの回答は難しい。普通は上場会社の日本郵船のコラムを引用するが、この引用自体の根拠らしきものが郵船欧州航路の記録で、(ドライ)カレ―にチャツネ(インドの漬物のようなもの)を付けていたが欠品したため、福神漬を添えたことが好評となって記録に残ったようだ。
 はっきりとした記録では第一次大戦の欧州航路で三菱の長崎造船所で初めて竣工した客船が常陸丸だった。同名の日本郵船のイギリス造船所で建造された初代常陸丸は日露戦争の開戦後に九州から朝鮮に出港後、玄界灘でロシア戦艦と遭遇し、沈没した。この沈没は歌にもなり、さらに極東ロシア戦隊を壊滅か封鎖しないといけないとなり、日本の戦費を圧迫した。それゆえ靖国神社の大鳥居の右横に巨大な常陸丸殉難碑がある。
 第一次大戦中でドイツ軍が無制限海上攻撃で、日本の商船が数隻ほど戦争の被害を受けた。この時に日本政府は戦時海上保険法を制定し、普通の海上保険に加えて国による戦争被害の補填を行うようになった。インド洋で行方不明となった常陸丸二世は日本政府が天災で行方不明となったか戦争の被害を受けたかの確認のため捜索船を出し、インド洋で明治屋の練乳と酒悦の福神漬の木箱を発見し、戦争で行方不明と思われるようになった。
 福神漬が一般庶民にも食するようになったのは、日露戦争が終わり、軍隊で備蓄していた福神漬缶詰の安価な放出があって、大陸での記憶に残る食べ物と知られた。国内では缶詰入りから樽詰めで流通していて、高級な漬物として提供された。
 大正時代の食で輸入カレ―粉の缶詰が出回り、そこから国産カレ―粉が出てきて、カレ―ライスが普及した。カレ―ライスと福神漬の取り合わせの文献で根拠のあるのは日本郵船の物しかなく、多くの付け合わせは普通の漬物だったと思われる。また福神漬の付け合わせの話では阪急百貨店の開業時のデパ-ト大食堂の話題がある。阪急電車に乗って、百貨店の商品を眺め、いつかは買えると思い、デパ-トの大衆食堂でご飯だけ注文し、付け合わせの福神漬とソ-スをかけて腹を満たしていた。そこで阪急の社員はご飯だけの注文はお断りと張り紙した。そこで顧客が反発した。
 阪急の小林一三はご飯だけの顧客でも将来の顧客の夢を提供していると言い、福神漬とソ-スの提供を続けた。これは昭和初期の話である。従ってカレ―ライスと福神漬が付いたのは大正時代と思われる。
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