見事に咲いた庭のあじさい「墨田の花火」
ここ2・3年、いっぱい咲かせようと躍起になって剪定してきた我が家のあじさい。
花の時期が終わったらそそくさに翌年の花芽のために、短く剪定してきた。
いくら頑張っても年々花の数は減り、昨年一昨年はほんの申し訳程度しか咲かなかった。何かある、咲かない理由が何かある。
思い切って昨年の花の後、いつもやってきた剪定を一切やめた。
伸び放題伸ばしてやろうとほったらかした。その結果、どこに出しても恥ずかしくない本来の「墨田の花火」と言う名にふさわしく咲き乱れた。
おかしいものだ、丸坊主にして下から出た芽に花を付けさせようと、精一杯剪定してきたのに・・・。狭い庭に不釣り合いなほど大きく伸ばしたら見事に花を付けた。
大きく伸びた枝の下を覗いて見ると、明らかに今年出た芽があちこちに枝分かれして花を咲かせている。つまり、剪定するには切る場所があるということ。それも知らずに勝手気ままに縮めればいいという素人判断で剪定ばさみを振るう。これが大間違いの元。あじさい君すんません。 これがあじさいだからことなきを得た。
一つの趣味として取り組んでいるエッセイの世界。
昨年までのあじさいのような愚を何度も繰り返していることに気付く。
原文を書いてみる。切り貼りする。さらに贅肉を落とす。落とし過ぎて付け足してみる。
締まらない。もっと練る。益々わけわからなくなる。字数が足らない。何かをくっつけよう、落ち狙いかそれとも巧まざるユーモアか。足したつもりが蛇足も蛇足。
単なる情景描写に終わらぬよう感情移入を試みる。なんかよそよそしい。取ってつけたように浮いている。人真似か、そんなことはないと自分で思う。
何が言いたかったのか再び原点に戻る。これが言いたかったのだ・・・と気付けばそこからが今一度のスタートになる。
やっぱり書くって難しい。あじさいの剪定どころではない。