「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「今年の釣果は」

2018年06月17日 | 季節の移ろい・出来事

             
                  これも、これもオレが釣ったんよ!

婿殿は至って小まめの何でも屋である。手話はステージの講演会などで手話通訳が出来るほどの腕前。
スポーツ面では、スキー・サッカー・野球などなど。但し、スキーの腕前は認めるが野球などは、教え方という点ではジジの方が旨いかも知れない、などとアタシが勝手に思っている。更に今一つ、彼は魚釣りもなかなか堪能である。

今年も本格的に漁船をチャーターして釣りに出かけた。
但し今回の場合は、家族など一切乗せずに仲間内だけで遠くに出かけ、60cmのブリなど大物を狙う釣りではなかった。
希望すれば家族も船に乗せてもらい、近海でそれなりの釣果を狙う、比較的おとなしめの釣りである。
となれば「腕に覚え有り」の三男悠雅君としては見逃すはずはない。お父さんにくっ付いて出かけた。

途中電話で「じいちゃんの好きなメバルやカサゴの大物をオレが釣ったから持って行くよ」と釣果の一報が入る。これはひょっとして、婿殿からの父の日プレゼントなのか、とも思う。
次いで「ばあちゃんに刺身を作ってもらってみんなでじいちゃんちで夕ご飯を食べるよ」との一方的な宣告も聞こえる。
まあしゃーない。久しぶりにとれたてメバルの刺身も悪くないなと、酒豪の婿殿のために缶ビールを冷やし、お酒の算段をする。

この様に小まめなお父さんからあれこれ手ほどきを受けた三男坊は、小学3年生にして豊かな体験を重ね、学校の成績以外は、何かといい想いをさせてもらっている。
振り返って我が身の3年生の頃は如何であったろう。食物をはじめとして全体的なモノ不足であった。しかしそれも、今の裕福な時代と比較するからであって、当時としてはそれが当たり前だから、順応していくしかなかった。ただ空腹だけが強烈な印象として残っている。
そんな状況で、魚釣りといえばミミズを餌に、しなりの無い笹竹に木綿の糸をたらし、近くの小川でゴリを釣るのが関の山であった。

さて我が子に対しては父親としてどうだったのか。心豊かに生きることだけは教えて来たかもしれないが、実際の体験として如何ほどのものを授けて来たのか。足りないことだらけであったに違いない。繰り言を並べても栓なきことではある。それでも二人の子供はそれなりに自分たちの目指した生き方を謳歌している。
父の日とはいえ、単にお祝いだけもらっては気の毒だ。少しは反省もしておかなければなるまい。

あれこれ御託を並べてみても、やはり孫の釣ったメバルもカサゴも、ひときわ美味しく味わった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい