北京冬季オリンピックが開幕した。
選手個々の頑張りと、頂点をめざしてギリギリの技に挑む姿にはなんら変わりはないが、世界のトップアスリートが集うオリンピックという世界最高の大会にしては、何かしら今ひとつ自分の気持ちの中でスッキリシャッキリしない、盛り上がりに水を差す感情が澱んでいる。
選手たちには罪もなければ責任もないわけだから、兎に角持てる力を出し切って、悔いのない闘いを展開して欲しいし、我々は選手の頑張りに全力応援を贈るだけである。
雪上のスポーツと言えば、3年前のシーズンまでは、高校総体や国体など、手練れの高校スキーヤーが集まる大会には、青森・秋田・新潟・山形など名だたる東北のスキー場をネットしながら、孫兄ちゃんを応援したものである。所詮雪の少ない島根県代表では、ちょっと大きな大会ではおおむね半ば以降の順位を探す方が早かった。それでも1秒の中に10人がひしめいて順位を争う、100分の1秒に一喜一憂したものである。その兄ちゃんもスキーは今や趣味の世界だけに変わった。
小学校2年までは、表彰状がもらえなければ涙を流して表彰式で地団駄を踏んだ孫三男君も、その後ソフトボール選手になって、とうとう長年のスキーとの付き合いが終わった。
そんなシーズンを経験しただけに、冬のオリンピックにはそれなりの真剣な興味を引く。
スポーツと政治の繋がりの在り方や、完全に切り離すべきだのと色々言われるが、解決の道筋は見えてこない。一つの国家を引っ張るのは一部の人たちであり、その人たちに人間味のある指導者としての資質が備わっていれば言うことはない。但しそうでなければ、オリンピックというスポーツの祭典も、世界の矛先をかわす巧妙な手段に用いることは十分考えられる。一筋縄では行かない。