隠れ紅葉の名所、岩国紅葉谷公園。「今が旬」
今朝一番にすること、それは何はおいても仏壇にお線香を手向けること。
亡き母の5回目の祥月命日。あの日から丸4年の歳月が流れた。
仏壇に置かれた遺影のまん丸い目が、いつも小生を見詰めているようで、4年と言う歳月が本当に過ぎたのだろうかと、指を折って数えることもしばしば。
そのくらい、まだまだ母のいろんなことが、完全に過去の物となっていないことに驚く。
もっと何かしてやれることがあったのではないか、もっともっと寄り添って、母の想いのすべてを受け入れて上げるべきではなかったのか、他に方法はないというほど本当に尽くしただろうか・・・。こんな思いがいつまでたってもついて回る。
生涯を一つ屋根の下で暮らしてきて、最期を看取った者が背負う宿命かもしれないが、切なさというお荷物は容易には背から降ろせそうもない。
そして今一つのすることは、お墓参りを。しきびと小菊を花立て一杯に立て、石灯篭にも火を入れ、ゆっくり手を合わせる。ここでようやく気持ちの泡立ちが治まる思いに。
亡くなったあの時も、初冬の風にヒヨヒヨ揺れるコスモスの頼りなさがやけに目に付いた。
そして今一つ、紅葉が盛りを迎えようとしている季節であったことを思い出した。
そうだ、気持ちの切り替えに、紅葉のかくれ名所の一つと評される、岩国吉香公園の一角、紅葉谷に紅葉見物、紅葉狩りに行くことにした。
銀杏の色付きや落ち葉は「黄落」と呼ぶにはまだ少し間があるようであったが、かえでの色付きはまぎれもなく今が見ごろ、まさに「今が旬」であった。
今夜から明日にかけて、まとまった雨の予報もある。今日が最高であったと思いたい。
そんな見事な紅葉をこの目に焼き付け、今一度仏壇に報告しておいた。
八月は父の祥月命日もあり、日本中が鎮魂の月としてお線香の香り絶えないが、この十一月という月も今しばらく小生にとっての鎮魂の月と言える。 合掌
私もこの25日は母の祥月命日です。もう一度会って声を聞きたい、話がしたいです。
「切なさというお荷物」、ときにはそうして感じることがご供養なのかもしれませんね。
白壁に紅葉も映えて、なかなかの風景。美しいです。
木立の向こうに、手前の暗さがまたいい感じです。
お仏壇に向かわれる静かなひと時、
お線香の煙が、お母さまのかすかな息遣いで揺らめいたり・・・ は しませんでしたか。
気持ちの中ではあの時とあまり変わらんのよねー。
岩国も紅葉真っ盛り。見事ですよ。
段々鮮明さは薄れてくるのですが、こういった節目の時にはどうしても「済まんかったねー」と。
お仏壇に向かってくゆらすお線香。これだけはちょっと贅沢に京都産を愛用です。
喜んでくれていると思います。
紅葉の隠れ名所などと言われるだけあって、なかなかのものでしょ。
もっとも、カメラはそこそこですが、撮る人のウチワがね~、おっとセンスがね~(笑)
「切なさと言うお荷物」良いことを聞きました。
なるべく荷が軽くなるように、今一度心して接したいと思いました。
いやいつも思っているのですが、気持ちと態度が一致しなない自分を嫌になることがあります。
あれからもう四年経ったのですね。
忘れもしません、yattaro-さんのブログを読ませていただくようになって、間もなくのことでした。
ご長命でいらしたのは、ご家族の優しさがあったからではありませんか。
後悔するのはやめて仏壇の前では
「見守ってくださって有難うございます」
と感謝をこめて合掌したらお母上も喜んでくださるように思うのですがすが。
その通りです。どんなに荷が軽くなるように努力しても、し過ぎということはないようです。
それが完璧に出来れば言うことなしですが、そこんところがなかなか・・・。
一つ屋根の下に住むことが先ず第一の親孝行である気はするんですよ。
気持ちの上では、あの時のままの部分もあるし、吹っ切れた部分も。
そうですね、感謝を前面に、母が喜んでくれる気持ちを持って、合掌ですね。
お母様も喜んでいらしゃると思います。
祥月命日にはだれの命日でも何年たっての命日でも、その日は故人に思いを馳せありし日を偲び、今を報告し感謝の気持ちで合掌することに致しております。
が、考えてみれば、意外に皆さんが行楽のシーズンとして喜ばれる季節ではありますね。
祥月命日、しっかりお仏壇と向き合う日にしたいと思います。