畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

我が家の野菜が震災復興記念パーティーに(その2終り)

2014-10-26 04:09:20 | 野菜

 紫色のミズナもみずみずしくて本当に美味しそう。
いや、美味しそう、では無くてそのまま口に含んでも美味しい。


 紫色の小松菜が二回目の種蒔きから収穫可能になっています。
この他にも、紫色のの白菜、いや白くないから紫菜かな。も作りました。

 「すずきち」のマスターには、「今年は紫いろが多いですねー」なんて言われましたよ。
スベルべも年老いて、派手好みになって来たのかなー(笑)。


 可愛いラディッシュ二種類。
三回目、いや四回目も播いてあるけれどさすがに低温で育ちが遅いです。


 ミズナもパリパリと美味しそう。
太くなっていて「固く無いですか?」と言われたけれど、二人で食べて見てOK。


 前日出荷したばかりで収穫量が少なかったけれども美味しい「アスパラ菜」です。
一番、一株の真ん中から出る太い一本は直径か2.5センチを超えるようなものも有ります。

 この甘さったら無いですよ。先日エスポワールのマスターは「ウフフ、自分用に買っていこう」なんて言ってました。
一番を折り採ると、しばらくして今度は細い脇芽が出てくるけれど、細いだけで甘い味は変わりません。


 これは今回の目玉かな。「味美菜」です。
株数にして4~50株くらい有ったでしょう。

 ここまで、綺麗に洗って車庫の日陰に仕舞い、次に妻の実家に「クレソン」採りに。
12時を回って帰宅し、一人で昼食を摂りほっと一息。

 でも、一時半には「すずきち」のマスターが到着し、値付けの後指導者に積載。
「赤辛味大根は?」と聞かれ「採って無かった」と応え、それならばと一緒に山の畑に。

 午前のパートから帰宅したスベルべママとマックスも一緒に行き収穫。
下で自動車に積んだほか、山で「コールラビ」「野沢菜」なども収穫して帰りました。

 さて、この新鮮な野菜類が、長岡の某ホテルを会場にした震災復興記念パーティーに使われます。
県知事も、国会議員も、そしてその他の出席者も野菜の美味しさに驚くなよ。

 一生懸命、愚直に取り組んだらこんな美味しい野菜が出来るのですぞ。
有権者の皆様、住民、国民も愚直に可愛がって上げたら、美味しい票が収穫できますよ(大笑)。
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我が家の野菜が震災復興記念パーティーに(その1)

2014-10-25 05:05:25 | 野菜

 午前中はスベルべママがパートで不在。
早めの朝食の後、マックスと山の畑に収穫に行きます。


 畑の周り木々は紅葉が始まっています。
秋の野菜も好天続きで絶好調と言ったところ。


 マックスには朝ご飯をやっていなかったので帰りたい様子。
何せ元気で、食欲旺盛なこの頃のマックスですから。


 軽トラックの荷台一杯に広がる収穫したばかりの野菜。
一人での収穫作業は三時間近くもかかってしまいました。


 さて、帰宅してマックスに朝ご飯与えた後は野菜洗い。
これまた二時間近くも費やしてしまいました。


 まず、洗う手順としては洗い桶の中の水が綺麗なうちに葉物野菜を洗います。
次いで、根菜類を洗うと言う段取りになりますね。


 大根類も随分大きくなりました。
一般的な大根の他にも、「もみじ」とも呼ばれる紫の大根。
そして、中まで深紅の「紅くるり」とか「北京紅芯大根」なと種類は多岐にわたっています。

                     (続く)


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里芋の不思議さ「ひ孫芋?」(その2終り)

2014-10-24 12:49:48 | 野菜

 これは、里芋の株と言うか「小芋」を折り採った後の親芋です。
これも、食べる事が出来るけれども「小芋」程の粘り気のある食感では有りません。

 でも、好みでこの「親芋」の方が、小芋、孫芋よりも好きと言う女性もいます。
この後、親芋を食べる専用の「竹の子芋」も一株掘り起こしましたが残念、写真は無し。


 ちょっと分かりにくい写真ですが、大きな株を掘り起こしてひっくり返したところ。
種芋を植える際に入れた、たっぷりの堆肥が見えますが、これが我が家の里芋の美味しさの秘密。


 先輩に、男の料理で「採り立ての里芋とネギのみそ汁」とスベルべママの「栗ご飯」、
そして、美味しい「野沢菜の漬物」「大根の煮物」で簡単な昼食を食べて頂きお別れしました。
再びマックスと、里芋掘りをして結局、大きなコンテナに満杯一つと七分目一つを掘り起こしました。


 さて、表題の不思議な「ひ孫芋」です。
「親亀の背中に子亀を乗せて~♪」でも無いけれど、種芋から「親芋」そして親芋から「小芋」、
小芋から「孫芋」最後に孫芋からほら、可愛い「ひ孫芋」が出来ています。


 吠えもせず、良い子でトーちゃんの仕事を見ていたマックスも帰りたくなった様子。
この後、軽トラをそのままにそこから散歩に出ると、喜んで小走りになるほど。

 マックスは秋の深まりと共に益々元気で食欲旺盛。
少し、多すぎたかな、残すかな、なんて心配するほどの餌もぺろりと平らげる元気さを見せています。

 さて、マックスの食欲でも無いけれど、スベルべも里芋が食べたいなー。
大き過ぎて「煮転がし」は無理かも知れないけれど、先にも書いたように「オデン」には最適サイズ。

 寒くなって来たし、大根も大きく育っていますから「オデン」が食べたいですね。
それとね、これはもう絶品なのがジャガイモの代わりに里芋を使った「里芋コロッケ」!

 少し時間に余裕が出来たら夫婦の共同作戦で作りましょう。
今日はお昼前後に「越後の台所 すずきち」のマスターが仕入れに来る予定。

 中越地震の復興記念式典の料理を頼まれて、その材料の調達だそうです。
うふっ、スベルべの美味しい野菜が県知事殿のお口に入るって訳かな(笑)。
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里芋の不思議さ「ひ孫芋?」

2014-10-24 04:51:22 | 野菜

 雨上がりの昨日は、急がれる来年用の「トウ菜」や「レタス」の苗作りもできず、里芋掘り。
今年は適度の湿り気に恵まれ、里芋も何時もより大きく育っています。
ファームステイとして一泊した東京の小学生たちは「トトロだー」なんて嬉しがったものでした。


 分かりにくいかも知れないけれども、これは大きな株をひっくり返したところ。
種芋は腐って跡かたも無くなり、そこから大きな葉を持つ「親芋」が育ちます。
折り採った白い口は、その親芋から出た「小芋」の跡です。


 左に並んだ三株は、典型的な形で、真ん中が「小芋」でその両側が「孫芋」です。
親芋の脇に出る「脇芽」を伸びないように切り取ると、こんな風に綺麗な形になります。
右側の二本は、「脇芽」の処理が間に合わず、良い形にはなっていません。


 「フムフムなるほどー」とマックス。誰もトーちゃんの話しを聞いてくれませんからね。
ちなみに、マックスの横の株は枯れた際の予備として植えたのがそのまま育ったもの。
土寄せも、芽かきもしていないので、小芋なんて地表に浮き出てしまっていますよ。


 里芋の葉の上に乗せて撮影。
育ちの良い子供で、「孫芋」でも大きなものは直径が4~5センチもありますよ。
いやー、「オデン種」にしたら最高だぞこれはー。


 と、言う訳で午前中に掘ったのがこれだけ。
朝から山の畑で収穫作業をし、Aコープに出荷した後ですから、量の少ないのも仕方ないですね。

 で、里芋を掘っていると「こんにちわー」と声を掛けられ、振り返ると関東在住の先輩。
同級会で里帰りしたついでの来訪で、来宅を約束されていたのでしたが、歩いて来られるとは驚きました。
パートに出勤する途中のスベルべママに聞き、我が家に自動車を停めて来られたのでした。

                      (続く)
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中越地震から10年になりました

2014-10-23 04:29:29 | 暮らし

 あの未曾有の災害「中越地震」から10年が経ちました。
十年前の今日、10月23日の夕方発生し、余震が続き近所の人たちが表に避難しています。


 不安な一夜、放射冷却現象で冷え込んだ夜が明け、朝日に裏山が照らされた。
すると、大規模な地震による、山崩れの跡が目に入った。


 急斜面の山が頂上から一気に崩壊し、線路を土砂が埋め尽くし、その崩れた土砂の一部は端が国道まで届いた。
惨状を見て、これは山が緑を取り戻すには数十年はかかると思ったのでしたが、今は既に緑を取り戻しています。


 我が家の屋内の惨状。ここはこの地震の二年前に亡くなった亡父が使っていた部屋です。
幸いと言おうか、父はこの大地震、未曾有の災害を経験する事も無く、あの世へと旅立っていたのです。


 キッチン、ダイニングの惨状。でも、少し片付けた後のようです。
私が履いていたスリッパが見えます。食器やガラスが壊れて散乱する中、足をけがすること無く脱出したのは不思議です。


 今考えると、不思議なほどでしたが、余震で山が崩れ家にまで到達すると言う事で避難指示。
批判する訳ではないけれど、あまり根拠の無い情報に踊らされた路上への避難でしたね。

 ここで、二晩自動車の中で寝る暮らしが続きます。
地震の揺れで玄関の戸が開き、内側に居てその開いた戸から逃げだしたマックスも無事に保護し、
一緒に軽トラの中で寝泊まりしていたのでした。

 少し長くなりますが、当時書いた文章を添付します。

   新潟県中越地震

 新潟県中越地震と名付けられた地震の発生から、一月近い日が過ぎた。
思わぬ事に地震の被害の当事者になってしまい、貴重な、と言うか辛い体験をした。
最初の震源地は我が家から三キロメートルの場所だという。
当時者としてはまだ何だか夢を見ているようで、時間の流れも訳の分からないような気持ちの中にいる。
 土曜日の、普段より余裕のある夕食に向かう幸せな時間、午後五時五十六分に地震は起きた。何の前触れも無く、
激しい上下の衝撃があり、横揺れが続いた。台所で夕食の準備をしていた私には、食器と鍋等が降り注いだ。
(ようだ。一瞬にして暗闇となり、事態を飲み込むのには少しの時間がかかった。)しばらく大きな唸り声のような音が続いた。
雪国独特の高床式住宅の下から野菜を持って、台所に向かっていた妻は下まで落ちてしまった。
私はすぐ「直下型の大きな地震だ。」と叫んだそうだ。
 妻は私を呼びながら再度階段を上って来た。私も妻と呼び交わしながらお互いを探し、
手を取り合って倒れたドアを踏んだりしつつ玄関にたどり着いた。次々と余震が続く中、
間隙を縫って月夜で明るい屋外に逃げ出した。
 ほぼ同時に家から逃げ出した近所の人達と、お互いの安否を確認し合った。
次に近所の家のガス・水道等の元栓を確認しながら締めて回った。
光源が足りず、スチール棚が倒れて足の踏み場も無い車庫からワゴン、軽トラックの二台を引き出して家を照らした。
ボイラー用灯油タンクの送油管が破損し、灯油が流れている。懐中電灯の明かりを頼りに応急手当をした。
 みんなが落ち着きを取り戻したが、正確な様子の分からない家には、余震の心配もありは入れない。
家の前の広場で六家族が焚き火をして夜を過ごすことになった。皮肉にも好天の月明かりで、
冬の星座もはっきり見えるがそれだけに寒い夜だった。
 私は収穫したばかりのサツマイモを持ち出し、濡れ新聞紙にくるみ焚き火に入れた。
地震発生の時刻に夕食を食べ終った人は居なかったのだ。
 寒く、不安な夜が空けた。家からわずかに離れた急斜面の山が崩れ、百メートルに亘り線路を埋め尽くし、
田の上を滑り、少し離れた国道まで届いていた。
 外で朝食を食べている所に消防団員が来た。山にひび割れがあり崩落の恐れがあるので避難してくれと言うのだ。
家から必要最小限の着物と、食事道具を持ち出し車に積み、1キロメートル以上離れた道路上に避難した。
 その後も余震を初め、色々な事柄があり自宅に帰り夜を過ごしたのは、発生から九日目の夜だった。
それまで家の中は土足で入らざるを得なかったのだ。
いや、家に入れただけでも幸せだった。近所では五軒の家が住めなくなった。
 仕事柄、線路の状態や列車が心配だった。新幹線の脱線はすぐにニュースに報じられたが、
在来線の状況は不通という簡単な報道だけである。
 地震の発生から五日後に出勤した。道路の不通情報を見聞きしながら、普段の四倍、百二十キロを走って職場に着いた。
しばらく情報を交換した後、列車ダイヤに地震発生時刻の線を入れて見た。奇跡としか言えないように感じた。
上越線は山の崩落現場の手前、二キロほどの所で停車している。信越線は線路の崩落箇所を、上り列車が僅かな差で通り抜け、
越後広田駅の構内に停車している。こんな場合に幸運という言葉など使うべきでは無かろうが、
全くそんな言葉でしか表現できない。四十人の方が亡くなられたが、
発生時刻が早くか遅くかずれていたら被害者の数はより大変な事になっていたと思われる。
 神様は突如として酷い悪戯をなさるが、僅かなお目こぼしも配慮してくれたのかも知れない。
 まだ列車運転の再開はされていない。まだまだ時間がかかりそうな気がする。
新聞報道でも列車の不通が生活に及ぼす影響について、報道される回数が増えてきた。
何があっても早期の開通を図らなければと思っているが、
トンネル内部の崩落、変状も言われておりまだまだ全通には予断を許さないところである。
 とりあえず現場からの第一報といったところである。
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