ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(5)

2013-07-14 17:49:33 | 生き方
その3日後の木曜日には、娘を新たな災難が襲っていた。

病室を訪ねると、医師からは鼻から出ている管の話があった。
管の褐色の水は、ストレス性の胃かいようからくる出血の跡だとのこと。
眠らされていても、ストレスは感じているということに驚いた。
かいようが動脈をけずっていなければ、大丈夫だろうと言う。
脳波は、時々乱れが来ているらしい…ということは、表に現れないけいれんがやはりきているようだ。
生きているのが分かるのは、呼吸をして胸で息をしているのが分かることから。
動くことはない。
長い治療で、血管が炎症を起こしているとのことで、足部は赤くなり、むくんでいるのが分かった。
唇は、器具を押し付けられ、血がにじんで腫れ上がっていた。
しかし、いろいろあっても予定通り進んでいる、というのが話の中心であった。
髄液からは、以前より白血球の数が減っていること、たんぱく質の数値が落ちていることなどは、よいことなのだそうだ。

意識がなくとも胃かいようになっているのだな、などと妻と話しながら、車を運転して駐車場を出ようとした時だった。
急激に私の胃の辺りが痛くなった。
これこそ、まさにストレス性の胃かいようであるまいか、と苦笑いながら必死に痛みをこらえた。
感染性の病気やあくびはうつると言うが、胃かいようまで同じか?…と。
幸い、家に帰って胃薬を飲むと、私の胃の痛みは収まったのだった。
ただ、その後も時々胃の重さを感じるのだった。

まもなく、血しょう交換の治療も終わろうとしている。
効果が上がっていることを期待するばかりである。
果たして効果はどうなのだろう。

毎日毎日痛々しく眠らされている娘を見守ることしかできない。
何とかよい効果が表れてくれ、と切に願う日々が続いている。
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娘よ(4)

2013-07-14 17:44:19 | 生き方
およそ4週間いた個室を離れ、娘は集中治療室に移った。
ここは、1日の中で、午前(10時~11時)・午後(14時~15時)・夜(19時~20時)しか面会時間が持てない。
しかも、1回2人。15分くらいである。
その夜、1回目の血しょう交換を終えた娘は、深い眠りに落ちていた。
暴れるといけないので、麻酔の濃度を上げたのだという。
鎖骨の下あたりに管が通されていた。
それ以外にも導尿、血圧や心臓、脳波等の働きを示す機械などにつながる様々な管につながれていた。
こうなっては食事もとれず、点滴に頼るのみとなっていた。
翌日より翌々日は、少しよくなっていたように見えた。
声はかすれるが、しゃべろうとしていた。
金曜日には、2回目の血しょう交換を行った。

4日後には、主治医の説明を夫婦で聞いた。
今のところ順調だとのこと。
毎晩眠れず、夜中に目覚めてはすすり泣いていた妻が、この夜は、いつもより多く眠れていたことに、ほっとした。

それなのに…。
もう何度目の暗転だろう。
まだ事態は悪くなる。
7月になった月曜日の朝、病院から突然電話があった。
夕べの午前2時ごろから、およそ1時間に1回くらい、ひんぱんにけいれんを起こしたとのこと。
そこで、鎮静をかけるため濃度を上げると言う。
さらに、そうすると呼吸が弱くなるので、口から肺へ管を通して酸素を送り呼吸ができるようにする、とも。
面会時間に集中治療室を訪ねると、病室が変わっており、より暗い病室であり、機械がさらに増えていた。
ベッド上の娘は、見るに耐えられないものだった。
目は薄目でとろんとした表情、口は醜く開けられ、肺に直接酸素を送るために太い管を通されていた。
それを固定するために、口元には、何本ものガムテープのような絆創膏が張り付けられていた。
時折のどに唾液が詰まるのかむせていた。
詰まったものを取ってもらう時、娘は目から涙をこぼして苦しんでいた。
娘のことで、もう何度心がつぶれただろう。
それなのに情け容赦なく、これでもかこれでもか、と状況は悪くなる。
主治医は、想定の範囲内である、という。
今すぐ命がどうこうはないと言う。
しかし、私たちの目の前にいる娘がこのひと月余りの間に経験していることは、あまりに重い。
そして、それを胸がつぶされる思いで見ているしかない私たち…。
けいれんが頻発したというのに、この日3回目の血しょう交換。
これは、一週間に3回ずつ、7月中旬まで行われる予定である。

毎晩、仕事を終えてから集中治療室の病室を訪ねると、体じゅう管だらけになってひたすら眠る娘がいた。
こんな苦しい姿になっているなら、眠っている方がよいだろうと思ったりもする。 
一つだけ幸いは、薬で鎮静させられているから、拘束されていたベルトたちが取られていたことだった。
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娘よ(3)

2013-07-14 17:30:05 | 生き方
 娘の心が現世に住まなくなってからおよそ1週間後、脳の血流の検査によって、正常な人と比べてみて、娘の脳の周囲、特に右の側頭部側がよくないことがわかった。
ここで初めて、病名がついた。
「辺縁系脳炎」
しかし、名前が付いただけのこと。
何が原因なのかはわからなかった。
ウイルス性のものなのか、自己免疫不全によるものなのか、わからない。

主治医は、全国の医師にデータを送るなどして、娘の稀な脳炎の治療について、対応策を決めていた。
全国でも、このような症例は400くらいしかないとのこと。
もはや娘が難病であることははっきりした。
しかも、個によって様相は異なるために、どれが決定的な治療法になるのかは、わからないのだと説明を受けた。
ただ、わからないからといって、手をこまねいている訳にはいかない、効果的と思われる療法を次々とやっていくしかないのだということだった。
それで、翌週から集中治療室で、「血しょう交換」という療法をまず行うことになった。
鎮静をかけて、週に2~3回、血液を採ってその代わりに凍結血しょうを入れるのだという。

新しい治療法が決まったその翌日、娘の夕食後も珍しく私たち夫婦が一緒に病室に残っていた。
夕食後、相変わらずちんぷんかんぷんなおかしな会話をしながら、久々に歯みがきをさせようとしたところ、ベッド上で急に娘の動きが止まっていた。
目はうつろで、よだれを垂らしていた。
おかしい!
そう気づいてナースコールを押そうとしたら、娘の上体がぐらりと折れ、ベッドの柵に頭からぶつかり、そのままベッドに倒れた。
そこから全身けいれんが始まった。
看護師さんが大勢駆け付け、酸素吸入等の処置を行った。
けいれんが収まった後も、娘は、「いや~」という悲鳴を上げながら、ベッドの上をのたうちまわっていた。
嵐のような時間が娘を襲っていた。
声を上げて暴れる娘の手足をつかんで、ひたすら落ち着くのを待った。
看護師さんの話では、けいれんが起きるといつもこうなのだと言う。
けいれんが起こると、意識を失い呼吸も止まってしまう。
こんな状態では、治って普通の生活ができるようになるなど、信じられなかった。
親である私たちは、絶望感に包まれていた。

…やがておよそ1時間後、落ち着いた娘といくらかまともな会話ができた。
昔のことについて話すと、娘は私たちと一部を正確に話すことができた。
「がんばって、病気を治そうね。」
そう言って、落ち着いた娘におやすみを言って、私たち夫婦は重苦しい気持ちのまま帰宅した。
その時の気持ちを書いたのが、その日の「悲しみに向かい合ったとき」であり、めったに見ないホタルを見かけ、その光にいちるの望みを信じたいと思ったのもその夜のことだった。

その夜、私たちが帰ってから1時間後の、夜9時半頃だった。
娘が泣いて、自分のスマホから私の携帯に電話をかけてきた。
心細くさびしくなったらしい。
看護師さんが好意で電話をかけてくれたようだ。
「帰りたい」と泣きながら訴える娘に、
「病気を治して帰ろうね。明日また行くよ。待っていてね。病気に負けるな。がんばるんだよ。」
という私の働きかけに、娘は泣きながら答えてくれた。
娘からの電話は、これが現時点で最後になった。
あとは、脳の働きも鈍って、スマホの使い方もわからなくなってしまったのである。

この前後は、私たちが病室を訪ねると、娘は、感情が高ぶるのか、必ず顔をくしゃくしゃにして泣いた。
家族に会えてほっとする気持ち、家に帰りたい気持ちがつのるのだろう。
脳の働きがまともではなくても、家族が来たことはわかるということに、愛しさを覚え、不憫でならなかった。何度ももらい泣きした。

悲しいことに、だんだん幻覚を見て口にするようになっていった。
言葉が、何を言っているのかわからなくなっていった。
こんな姿で、脳の働きが回復するのだろうか。
こんな姿で、集中治療室での血しょう交換などできるのだろうか。
しだいに衰えていく娘の姿には、不安を覚えるしかなかった。
しかしながらも、命だけは、と、新しい治療に期待するほかはないのだった。
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娘よ(2)

2013-07-14 17:23:15 | 生き方
再三様々な検査を行ったが、どこが悪いのか、何が原因なのかは相変わらずわからない。
効果を期待して、新たにステロイド剤の投与が始まった。
点滴で、飲み薬で、けいれん止めの薬と合わせて使うようになった。

娘の精神状態が突然ひどくなったのは、入院してからちょうど2週間目となる日の朝だった。荷物をまとめて、「家に帰る」と強行しようと暴れまくった。
点滴の管を引き抜こうとしたり、帰ろうとしたり、ベッドに立ち上がったりするようになった。
この日から、体には、拘束帯が必要になった。
それを取ろうと、必死に指を動かしたり体をねじったりする姿は、本当に悲痛な姿だった。
心が正常ではない人のそれだった。
そんなだから、やがて拘束帯のほかに、手足にも拘束ベルト・手袋が必要になった。
意識が正常でないから、点滴を取ったりベッド上で立ったり逃げたりしようとするからだ。
わかってはいても、娘がベッドに拘束された姿を見るのは、家族として心が痛んだ。


彼女の言動は、あきらかに認知症の人と同じになっていた。
言っていることに脈絡がない。
自分が入院していることも時に分からなくなるようになった。
病室が、時にお好み焼き屋や食べ物屋になった時もあった。
「あと一つだけ食べようかな。」
「すみませーん、誰かいませんか~。」
などと廊下に向かって叫んだりしていた。
どんどんおかしくなっていく娘。
しかし、われわれ家族にできることは何もなかった。
面会時間に訪ね、一緒にいてあげ、相づちをうって上げるくらいしかないのがもどかしかった。
家族が責任もって付いてあげられるとき、拘束帯やベルト・手袋は外してあげることができた。
せめて食事の時間は外してあげたい、と考え、朝は無理でも、昼食や夕食の時に家族や信頼して頼める誰かが付いてあげられるように努めた。
 
話をする時、時々は正常な会話が成立した。
「小学校の頃のマラソン大会でいつも1位だったけど、2位は誰だったっけ?」と聞くと、正確にその時の級友の名前が出てきた。
数年前勤めた事業所が所有する車種や台数なども正確に言えたりした。
看護師さんの名前も、自分に好意的に接してくれる方なら、「〇〇さーん」などと、その名を間違えずに呼べたりもしたのだった。
話の中身が大半おかしい話をしている時でも。

とにかく、私たちにできることは、そばにいて話を聞いてあげること。
拘束を解いてあげること。
食事を気持ちよくできるようにしてあげること。
そんなことぐらいしかなくなってしまったのだった。
倒れてから3週間もたつというのに、娘はよくなるどころか、こんなふうに悪化の一途をたどるばかりだったのである。
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娘よ(1)

2013-07-14 17:16:29 | 生き方
 娘が職場で倒れた、と聞いたのは、5月の末に近い午前のことだった。
職場の人と話をしているうちに、右側の顔面がけいれんし、意識を失ったのだという。
娘は、以前は、健康だけが取り柄の子だった。
小学校1年生から、高校卒業まで病気欠席はたった1日だけ。
それも大事を取ってのものだった。
三十路が近い今になっても、主な病気は花粉症ぐらいなものだったのだ。
そんな娘が倒れるなんて。救急車で運ばれるなんて。
倒れた時は、息もしていなかったのだが、幸い、職場は介護施設であり、看護師さんが勤務していたのがよかった。
看護師さんの心臓マッサージにより蘇生し、救急車内では意識も取り戻した。
病院に運ばれたが、症状が落ち着き、個室の病室で、妻や息子(娘から見れば母と弟)と面会できるようになった。
しかし、その時2回目のけいれんが起こってしまった。
何が原因かよくわからないため、MRI,CTなどいくつかの検査をしたが、検査入院することになった。
その日、主治医から説明を受けたが、何が原因か、どこが悪いのかわからないと言う。
可能性が高いのが、「ヘルペス脳炎」と言う名の脳炎だということだった。
そのための治療なら、効く薬があるということで、点滴を使って投薬して治療を行うことになった。

本当にヘルペス脳炎なのだろうか。
検査はしても、どこが悪いのかわからないまま、時間が過ぎていった。
それが不安だった。
案の定、入院4日後にあたる日の夕方、またしてもけいれんが起きた。看護師さんがいてくれたため、大事には至らなかった。
さらに2日後、四たび顔面からけいれんが起こってしまった。
本人が、ナースコールを押そうとした。
が、うまくできずに焦ってばたばたした時、たまたま花びんを下に落とした音に気付いた看護師さんたちが駆けつけ、なんとか助かることができた。
薬を投与しながら、4回もけいれんを起こすのは、もはやヘルペス脳炎ではないことがはっきりした。
この後、けいれん止めの薬を強くすることになった。
けいれん止めの薬は、麻酔の働きがある。濃くするのはあまりよいことではない。
しかし、「2」から「3」へ。「3」から「4」へ。そして、けいれんを起こすと一気に「8」へ。濃くせざるを得なかった。
けいれんをくり返し起こしながら、娘の性格は変わっていった。
意識障害が少しずつ出るようになったからだ。
「いつ退院できるかな」「うちに帰りたい」が口癖だった。
その頃は、それでもまだましだった、と今にして思う。
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