ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(6)

2013-07-24 21:34:33 | 生き方
先週後半から、鎮静をかけていた薬の濃度が薄まるにつれ、病室を訪ねると、娘は目を開けているようになった。
ただ、口には、最も太い呼吸用の酸素の管や痰を取るための管、鼻からも胃とつながっている管が通っていて、本当に痛々しい。
熱は、38度前後と高めのことが多い。
土曜日には、ほぼひと月ぶりに、私を認識したようで私の声に涙を流していた。
その前日は、名前を呼びかける妻の声に涙を流していたのだった。
管が通りながらも、時折苦しそうな咳が出ているのが見ていて切なかった。
無意識に管を外すといけないので、また手首がしばられていた。
体も、拘束帯でベッドにつながれていた。
本人は、足の動きは自由になるので、膝を立てたり首を動かしたりするようになった。
それにしても、鎮静をかけられていたのが解かれるようになる、ということは、自分の体が自由にならない、ということに気付くことではないかと考える。
眠らされているだけなら、体が束縛されていたり管をくわえさせられていたりしてもよくわからないので、苦しみを直接味わわなくてもよいだろう。けれど、覚醒しているのなら、常人にはこの状況は耐えられないだろう。そう思うと、つらくなるばかりであった。

この火曜日、日中、ついに娘から呼吸用の管等が抜かれた。
代わりに、酸素マスクが付けられていた。
よかった!
ようやく口が自由になったのだ。
だが、3週間以上太い管が通っていた影響で、すぐ声を出せるようになる訳ではない。
声を出せない娘は、時折ひどく咳き込んだ。
痰がからむのがわかるが、痰を出すかと聞いてみても、反応がない。
熱は、相変わらず37度台の後半。高めである。
それでも、うれしいことに、病室に同行した息子が話す言葉に、うなずくこともあった。
しっかりとした意識が戻ってきているのならよいのだが…と願う。
鎮静をかける薬は、この3週間余り2つを併用していた。
ひと月半以上使っていたD剤とこの間使っていたP剤。
D剤の濃度は、ずっと「8」だったのが、「2」にまで下げられていた。

手は、手首のベルトは取られていたが、ミトンの手袋でおおわれていた。
体の拘束帯もかけられたまま。
妻は、足の機能が衰えないようにと、よく足首付近を回してあげたりマッサージしてあげたりしている。
私も行うようにしているのだが、それにしても細くなったものだ。
娘は、もうひと月半以上歩いていない。
ずっとベッドの上で動かない生活をしている。
おまけに、ひと月前に集中治療室に入ってから、食事もとっていない。
点滴から栄養をとっているだけなのだ。
だから、細くなるのも無理はない。

どうか、鎮静剤を薄めていっても、けいれんが起こらないでほしい。
血しょう交換の効果が十分にあった、と言えるくらいになってほしい。
ずっと、ずっと願ってきた。祈ってきた。

…だが、そんな願いはむなしかったことが今日また判明してしまった。

前夜、息子の言葉に応える娘の姿があったから、今夜はまたいくらかよくなっているといいな、という期待を胸に、私たちは、夫婦で病室を訪ねた。
ところが、娘は、またどんよりと眠っていた。いや、眠らされていた。
熱も相変わらずあるように感じられた。
看護師からの話では、昨日、またけいれんが起きたのだということだった。
だから、けいれんが起きないように、D剤をまた最高レベルの「8」に戻したのだという説明であった。

がっかりした。
恐れていたけいれんが起きてしまった。
このひと月の娘の苦しい闘病は何だったのか、と。
このうえ、まだ苦しみは続くのか、と。
妻は、落胆の色を隠せなかった。
繰り返し涙した。
何度もすすり上げていた。

娘が倒れた日は、水曜日だった。
今日の水曜日は、もう8週間になることを知らせている。

…でも、ここまで十分苦しんでいるんだ。
だから、もう暗転はいらない。
好転だけが、ほしいのだ。
コメント
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