以前、「こども六法」なる本について、ここに書いたことがある。
困っている子どもを法律で助ける本ということだった。
その本のよさから、子どもに法律を教えた方がいいのではないかというようなことも思った。
だが、その考えは底が浅く、著者にとっては不本意なとらえ方だったようだ。
大人の読者から「『こども六法』の本があれば、子どもにやっていけないことを根拠をもって教えられる」という意見がたくさん寄せられたのだそうだ。
子どもが悪いことをしたときに、「『こども六法』に、法律でダメって書いてあるから、そんなことしちゃダメ!」というような使い方は、なぜ法律を守らなければいけないかという子どもの疑問に一切答えていないから、子どもの理解を得られない。
だから、本書で法教育の目的や重要ポイント、法教育の基本となる大切な考え方について、大人向けにできるだけやさしく興味を持ってもらえるように、と考えて書いたのだという。
興味深かったのは、後半、「大人」と「子ども」を分けるものは何か、という内容にふれていた所だ。
それを「責任を取る能力」ということで語っている。
民法では、18歳で成年になる。
成年になることで、自分の意思だけで自由に契約を結ぶことができるようになるが、同時に契約に対する「責任」も負うようになる。
ただし、「責任を取る能力」(正式には事理弁識能力というらしい)があるとする年齢は、刑法では、なんと14歳。
「責任を取る能力」をシンプルにいうと、「自分の行動を理解し、選択する力」があるということ。
責任とは、自分の選択に対して負うものだということ。
そう考えると、例えば殺人罪は、「相手を殺さないという選択ができたのに、あえて相手を殺すことを選択した」ことを非難するための刑罰であるといえる。
なぜ、ここを強調するかというと、人生は選択の連続だから。
大人でも、何かを選択して失敗したとき、他人のせいにすることがある。
「アドバイスどおりにやったのに失敗した」「本当は違う方法でやりたかったのに」など。
子ども時代に親の教育・躾の中で「選択する機会」を奪われてきたのではないか。
刑法の14歳という年齢は、自らの責任において「犯罪をしない」という選択をできる力は、14歳までに身につけておかないといけない、ということ。
この力は、その4年後、18歳になったときには、約束(契約)を守り、債務を果たす力につながっていく。
さらには、将来にわたって自分の人生を選択し、責任を負える力になる。
このような考えには、深く同意する。
こういう責任を取る力が、子どもだけでなく大人にもついているのかについては疑問符がつくような現代日本になってはいないだろうか?
年齢だけは大人となっているが、自分の言行に責任を負えない、いや負うことができない身勝手な人が多くなってはいないだろうか、と思う。
自分の選択に責任を持てる大人になること、それこそが人生を自分のものとして生きる基礎であることは言うまでもないでしょう。大人が子どもに教えてあげられることのゴールと言っても過言ではありません。法教育に携わる者としては、ぜひ法律をツールとして子どもたちにその力を身につけてほしいと願っています。
親子といえども別の人間で、それぞれに別の人生があります。親が子に対して責任を負うべきは、子どもの人生ではなく、成長なのではないでしょうか。
つまり親の責任とは、子どもが自分の人生に責任をもって一人で生きていけるように育てる責任であって、いつまでも子どもの一挙手一投足に目を光らせる責任ではないと私は考えます。
これは、子育てで本当に大切なことだと私も常日頃から考えていたことだ。
若いながら、著者がしっかりした考えを持っていることがうれしかった。
これ以外にも、読んでいて非常にすっきりする考え方で、うなずける部分の多い本だった。
また、著者は、自身が子どもの頃ひきこもりだった経験で、大人に助けてもらえなかったうらみがあったという。
助けてもらえなかった大人に対する不信感が大きくて、どうしても法律を自分の側、子どもの側に有利なように活用することばかり考えがちになっていたと、現在はみとめている。
だから、今は、子どもの側にも大人の側にも目をやって子どもたちを救おうとしている。
素直にそのことを書いているのも好感が持てた。