第19回 勘定組頭、渋沢篤太夫
一橋の懐具合を、調えることになった篤太夫ですが
不思議です
こんな短時間で、経済の意識豊かに策を練り出せるとは
①摂津・播磨の米の入札
②備中の硝石
③播磨一橋の木綿
帳簿を覗いてこれだけ見つけ出すとは!
思い付くのは、血洗島で父っさまと藍の仕事をした
あの仕事のやり方を一橋の経営に当てはめたのですか?
すごいなあ~
経済のことは、疎いのですが財閥というか
確か、カルテル、トラスト、コンツェルン
という言葉がありましたが、これですか?
例えこれだ、と分かっても私には意味が分かりませんが
篤太夫が栄一だった頃に教えられた商いが
役に立った、ということなのでしょうか
でもそれで幕府の財政に入り込めるなんて
賢い人!
こんばんは家康さんも、徳川も経済の意識なしでは
乗り切れない
と仰ってました
確かにもっと上層部でも色々徳川を豊かにしようと
対策を立てておられるようでしたね
*幕府勘定奉行の小栗上野介さん
経済産業大臣みたいな立場ですか?
フランスと公儀のコンパニーをどうとかこうとか
*薩摩藩士の五代友厚さん
ベルギーとコンパニーをつくって薩摩は幕府の先を行く
なんか、万博とかも言ってましたね?
薩摩言葉が理解できず…(>_<)
こうなりますと、篤太夫は不利?
となると、応援したくなります、篤太夫を
ある時、篤太夫が一橋家臣の猪飼勝三郎にあれこれ言ってた時
猪飼様、篤太夫の話に、またヤキモキされてましたね
通りかかった慶喜がそれを聞き留め
続きを聞きたいということでこれ幸いと
一橋の銀札を作りたい、と願い出る篤太夫
許しを得た
やりましたね
試作したりしながらも、なんと半年後に
「銀札引換所」設立の運びとなりました
どこかの政府より早いかも
この一橋の銀札は業者の信用も得られた
慶喜の「よくやった」と、
「勘定組頭」に任命という出世も頂いた
この前に、慶喜も一大事があったんですよね~
大変だった様子です
でも、仕事が早かった
将軍をやめるという家茂のところへ馬を飛ばし、
話が固まったのか、次は天皇のところへ行き
「勅許」をもらった
1865年「日英修好通商条約」への勅許
「日米修好通商条約」から7年も後だったのですね
そんな時の篤太夫のややこしそうな願い出だったけれど
慶喜に許してもらえ、よかったです♪
この世は幸せ不幸せが、交互にやって来るような
成一郎と篤太夫は別々に生活することになった
同じ一橋家に仕えるとは言え、考え方が違ったようです
武士ならば命をかけてもという成一郎と
死んでしまったら、なんにもならねえという篤太夫
ずっと行動を共にした幼なじみ同士
どうなるのかなあ