第28回 篤太夫と八百万の神
「八」
”八百万の神のひと柱であ~る”
栄一は、この言葉にやられてしまいました
あの栄一を言い負かしたのは誰かと思えば
大隈重信
名前はよく聞きます
元佐賀藩士で、新政府では長崎に赴任から始まったようです
その後大蔵省の次官として
新橋・横浜間の鉄道開通を進める
電信(電報)の仕組みを整備する
と、日本の近代化を進めたのが大隈重信
1881年、イギリスの議院内閣制を進めようとして
岩倉具視や伊藤博文らと対立し官僚辞職しますが、
翌年、イギリスの議会をモデルに立憲改進党を作ります
1898年に総理大臣となり、日本初の政党内閣を誕生
人材を育てるための東京専門学校もつくる(後の早稲田大学)
栄一と同じで弁の立つ人だったようで
栄一は初対面で言い負けたとがっかりした顔で家に帰って来て
「今までお蚕様のように何度も脱皮して、
よく生き残って下さいました」
優しい千代さん、まるでお蚕様を包む真っ白な繭のようですね
千代さんに慰められるという、結果でした
ま、負けたと言っても、新政府で改革に参加するのですし
負けたとも言えないですけど
ところで「八」
この数字は、よくことわざや熟語に使われています
形が、末広がりで縁起のいい文字と聞いたことはあります
例えば
口八丁手八丁
八方ふさがり
八面六臂
一か八か
七転び八起き
八方美人
やけのやん八
四苦八苦
もっともっとありそうですが、破れかぶれ的な感じも…(^-^;
あ、大隈重信の幼名、「八太郎」 だそうですよ♪
大隈重信さんってどんな方だったのか
分り易いのがありました♪
大隈五訓
一、怒るな
ニ、愚痴をこぼすな
三、過去を頼るな
四、望を将来に置け
五、人のために善を為せ
ポジティブだったのですね~
今回は、他にも注目したい人がありました
「川村恵十郎」
以前から、目つき鋭く強面、と気になっていましたが
結論として、大変優秀な積極的な人だった
1836年 武蔵国の小仏関所番・川村正朝の長男 として生まれる
20歳の頃、父のあとを継ぎ小仏関所番見習いと なる
28歳の頃、平岡円四郎に引き合わされる
幕府と朝廷の関係について慶喜に宛てた建白書を平岡に手渡した
公武合体の策のための発言権、イコール各藩の軍事力である
農民の中から見込みのある者を家臣として登用し兵力を増すこと
川村が唱えたこの事を川村が指揮すること となった
江戸で出会って渋沢栄一と喜作は選ばれた
一橋慶喜と諸藩主たちによって開かれた参預会議で、
諸藩主たちは攘夷の決行は無理と主張
慶喜は 断固として鎖港すると主張
これに不満を持った水戸藩士は平岡円四郎と川村恵十郎を襲い、
平岡は殺される
川村は、何とか討ち返したが眉間の傷は一生残った
明治になり、川村が禄を受け取る列に並んでいる姿は
何ともやるせないものでしたね…
戊辰戦争から静岡に謹慎になるまで、慶喜に仕えた
明治以降、新政府に出仕
静岡藩の屋敷では、栄一から仕事を習い、
栄一が東京の皇城に移ることに決まった時は
もう、我々のコンパニーだ、栄一が居なくなっても
何を困ることがあるものか
と、仲間の意気を上げた
栄一も嬉しそうでしたね
1873年出仕~1893年辞任するまでには
大蔵卿の大久保利通に仕えその後宮内省や内閣の役人に
その後亡くなるまで、東照宮の禰宜として務め
旧幕府への忠誠心を示したようでした
歴史ドラマにも、教科書にも出てこない川村でしたが
見事な一生を送られたのですね
一橋慶喜が、平岡円四郎を見つけ
平岡円四郎が、川村恵十郎を見つけ
川村恵十郎が栄一と喜作を見つけ
青天を衝く栄一が生まれた
「東京へ行ったらどうだ
これが最後の命だ
渋沢、この先は日本のために尽くせ
大儀であった 息災を祈る」
栄一は、慶喜の側を離れることとなった
さて、この後栄一や喜作は
どの様に自分の片腕となってくれる人を見つけ、
育てていくのでしょうか
渋沢栄一の一生は知らないことばかりで
期待が膨らみます