京都市東山区にある豊国神社と同じ境内にある
方広寺の鐘の鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」の文字は
この様に白線で囲ってあります
豊国神社の外周りの石垣はとても大きいです
当時のものと思われます
耳塚
二人のプリンス
豊臣秀頼 と 徳川秀忠
方や3K
高収入、高学歴、高身長
方や
大いなる凡庸
松山千春さんの歌にも曲名「凡庸」あります
蛇足ですが、最近は
4T
低姿勢、低リスク、低依存、低燃費だそうです
政は徳川が仕切っているのですが、ここより一歩
前に進みたい
双方、そんな思いのような
家康方、秀頼に二条城訪問を言って出ましたね
結果、徳川の思うようには行かず
上段に誰が座ったか
秀頼が家康に上段を渡し、丁重なる挨拶を述べた
世間では、家康は恥知らず、秀頼はご立派と
噂が立った
家康「まんまと、してやられた」
阿茶は秀頼はどんなだったかと尋ねると家康は
「すずやかな様子の…秀吉じゃ」
なるほど、上手にまとめましたね♪
二人のプリンスのことを本多正信はどう言ったのか
「偉大なる凡庸、すべなし」
秀忠は、父家康が上段に座り秀頼が平伏したことを
あんなに喜んでましたから…
思いがけない訪問者が
どこでどう暮らしていたのか
すっかり忘れてた存在です、私には
氏真「成長した、王道の治世を成してくれ」
家康「平気で人を殺せるようになっただけ
戦は無くならん、生涯ずっと戦をし続けて…」
氏真は、家康を抱きしめ優しく労ってくれた
「弟よ、弱音をはきたい時は、この兄が聞いてやる
おぬしに助けられた命のあることを忘れるな
本当のおぬしに戻れる時も、きっとある」
そう言えば、氏真を捉えても遠くへ逃れさせたことが
ありましたね
正直なところ、兄弟のように暮らした今川のもと
氏真は嫉妬心もったこともあった
家康は父の様に育ててくれた今川義元を敬い
氏真を兄として接していた、一歩下がっていたことも
あの時代は、人質とはいえ家康にとっては
たくさんの教養、武道を学ばせてもらった時でしたね
義元が存命してたなら、
家康の道も変わっていたかもしれませんね
家康にとって、氏真との再会は
心癒され、戦なき世への意欲も戻ったかもしれません
一方、プリンス豊臣
…
…あれ?トヨトミ・プリンセスみたいな題名の映画
ありましたよね、確か堤真一さんが…
ま、いいか
プリンス豊臣は巷でも人気がどんどん上がるし
父い秀吉の供養のための開眼供養をあげましたが
德川と豊臣の戦へと続く一本道をつくることになる
その端を発したのが、
慶長一九年(1614) 「大仏鐘銘事件」だ
大仏の大鐘は 重量 82トン超え
その鐘の銘文の中に
「国家安康」「君臣豊楽」
これは、家康を呪うものだ
とクレーム
本多正信、家康の傍らで言った
「おそらく戦は避けられませんな」
豊臣の鐘の偶然か、企みか
德川方の解釈は、こう
「国家安康」 家康を裂いている
「君主豊楽」 豊臣を君主として楽しむ
豊臣は
国の政治が安定している
と
君主から民衆に至るまで豊か、楽しい
との思いからこの銘文奉納したのか
それとも相手に喧嘩を売ったのか
何百年も前のことです
今となっては、ピンポ~ンな解答は分かりません
この大仏殿、方広寺は
秀吉が関白になった時(天正一三年・1585)
天下統一目前の勢いある秀吉が
「京都に日本一の大仏を!」
前例では東大寺では20年かけて造ったが
自分は、5年で造る!の意気込み
なんと、実際には天正14年~16年
但し、金銅仏を鋳造では遅い
「木心乾漆」づくり
大坂城には、秀吉の遺産がどっさり
金銀で82万両をつぎ込んだとか
その後、何度か地震や火災に合っていた
でも鐘はいまも残っています
トラブルメーカーの銘文もそのままに…
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