辞世の句
あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな
井伊直政
慶長七年(1602)三月二十四日江戸にて死去
他にも
たちそふる千代の緑の色ふかき松の齢を君もへぬべし
関ヶ原にて、島津軍の敵前突破からの逃走を深追いし
銃に当たる
その傷の影響かその後死去
慶長五年(1600)九月二十七日
家康、大坂城へ戦勝報告に参じる
七歳の豊臣秀頼と盃をかわしてましたけど
七歳でお酒飲んだんですか
豊臣秀吉の遺言、秀頼と千姫の婚儀は
狐と狸の化かし合い
その場を離れれば、双方痛烈な言葉を吐き出している
この豊臣VS徳川のもつれた関係に
一手を打ってみましょうぞ、という訳でしょうか
本田正信、さすが策士
将軍になれば如何かと、家康に提案
家康「豊臣は公家、徳川は武家の統領
住み分け易くなるかもしれんな」
この頃「幕府」は足利家がちゃんとしてないので
「将軍職」は消えてしまっていた
「征夷大将軍」認定
これはどういう手続きを踏めばいいんでしょうね
慶長八年(1603)二月
朝廷より宣下を受けた
朝廷のお墨付きを受ければいいのですね
≪≪≪ 徳川幕府誕生 ≫≫≫
慶長八年(1603)二月
家康は、戦なき世をつくるために
知恵のある若い人材を全国より集めた
以前、漂流して日本に上陸した
ウイリアム・アダムスもそのひとり
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ウイリアム・アダムスの履歴
1564年英国生まれ
父は船員
12歳 ロンドン北岸で造船術・航海術を学ぶ
1588年 海軍入隊
1589年 結婚
バーバリー貿易会社に移り船長に
オランダ船団に入団
1598年 ロッテルダムから極東へ航海
しかし
5隻の船は、だ捕、沈没、帰港など
1600年 ウイリアムの乗っていたリーフデ号だけが
豊後国黒島に漂着
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大坂に護送、家康と引見数回
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江戸に招かれ、南蛮船を造る
他にも数学や地理学を家康らに教えた
外交顧問ともなる
海外貿易振興と色々家康に日本に尽力した
のちに武士となった、名前は三浦按針
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こちらも若き知恵者
本田正信の長男正純は若い文官たちのまとめ役
父とは反対の真面目で働き者のようです
「跡継ぎ」が整いました
本多忠勝
武勇に長けたものの、戦なき世の日々
出番はありませんよね
追い打ちをかけるように「老い」が忍び寄っています
榊原康政ははらわたを病んでいるという
ふたりは「引き際」も考えなければならなくて
家康はまだ隠居はさせないと言った
自分同様に老いたふたりを奮起させるのと
今までの数々の功に対する賞賛と聞こえました
忠勝は殿を守って死ぬのが夢
確かに若い時からそう言っていたのを覚えています
しかし願いは叶わなかった
これで四天王は皆、旅立ってしまいました
榊原康政 慶長十一年(1606) 死没
本多忠勝 慶長十五年(1610) 死没
忠勝の言葉としてこんなのが
「わが本多の家人は志からではなく見た目の形から
武士の正道に入るべし」
今も形から入る人は幾人もおられると思いますよ
かつて我が家にも居たような…
豊臣秀頼 立派に十九歳となる
家康 「時は満ちた」
どうするんでしょう、家康
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