第17回 三方ヶ原合戦
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第18回 真・三方ヶ原合戦
すでに同盟を結んでいる武田と徳川
人質に家康の義弟である松平源三郎勝俊を差し出しもしている
源三郎は甲斐でひどい目にあっていると聞き
服部半蔵を甲斐に忍び込ませ連れ帰ることを命じた
困った時の半蔵さん
なんとか源三郎を浜松城に連れ帰れてよかった
竹千代が今川義元の館で人質生活をしていたが
ずい分待遇が違います、源三郎くん可哀そ過ぎます
信玄はもう、北の遠江に侵略を始めている
奥三河の長篠などは信玄側に寝返ってしまった
あの金をばら撒いているらしい
家康は家臣からどうするどうすると問い詰められ
戦をするのか、しないのか
もう、戦は避けられそうにない
信長は ”信玄だけは怒らすな”と言っている
家康の家臣は戦えば十に九は負けると言っている
残念ながら、元亀三年(1572)の秋、武田との戦が始まった
これが、世に言う「三方ヶ原の合戦」
ドラマ17回と18回、一昨日ようやく見れました
三方ヶ原でどのような戦が繰り広げられたのだろう
三方ヶ原での布陣
武田軍 魚鱗の陣形 (うろこのように並ぶ) 黒い駒
徳川軍 鶴翼の陣形 (鶴が羽を広げたように) 白い駒
武田の進軍のしかた
三方向から攻める
*信玄本隊、甲府を出発 二万五千
*山県昌景の軍 五千
信濃国を出発し
武節(ぶせつ)城(豊田市)と長篠城(新城市) を
攻略し遠江へ向かう
*秋山虎繁の軍 二千五百
居城の高遠城(伊那市)を出発し
岩村城(恵那市) 攻略
どんどん攻略されて、家康危うしですねえ
更に信玄も動く
*信玄 信濃国通過⇒青崩峠(遠江との境界)攻め込む~
*馬場信春、只来(ただらい)城(浜松市天竜区)を落とす
*信玄軍と馬場軍が合流、二俣城を目指す
二俣城は、浜松城、懸川城、高天神城の中間地点にあり
ここを落とされたら、もうそれは致命傷なんですって
なので、本多忠勝らを出陣させたものの敗北(一言坂の戦い)
血気盛んな本多君もそれはひと言もなかったでしょう⤵
二俣城代の中根正照
武田からの降伏勧告を聞き入れず頑張った粘った
兵の数が違い過ぎた
降伏し開城せざるを得ず
この様に三方向から多勢にて攻め込み
武田信玄は遠江北部を制圧した
十二月も後半、武田の軍が西へと進む
とにかく京へ向かいたい、時がない、そんなことを言っていた
以前も、胸の痛みを堪えるような仕草をしたが
何か起きているのかもしれない、信玄の身に
信玄は徳川の陣には向かってこない
そこで、酒井忠次の提案
諸葛孔明の兵法三十六計のひとつ「空城の計」を実行
門を開け、かがり火をたいてじっと待つ
敵は、罠か?と惑う
ま、武田勝頼は攻撃命令を取り下げ陣へと引き換えした
かく乱させることは、出来たようだがだからどうなん
やはり西へと進路を取る武田軍を
家康や織田の援軍と共に追う
何と言っても多勢に無勢
僅かな時間で勝負は決した
德川方の戦死者 約二千
武田方の戦死者 約二百
大敗、大打撃を受け敗走
この三方ヶ原の合戦で重臣の「夏目広次」「本多忠真」も壮絶な討ち死にを
夏目広次は、家康の金荼美具足を身に着け身代わりとなって
戦場の真っただ中へ
本多忠真は、ぼろぼろの幟を立て
まるで弁慶のように仁王立ちになり敵を阻んだ
命を賭して殿を守った
本望だったんだろう
家康の涙は止まらなかった
良き家臣が家康には集まってきてるのですねえ
そういうものが家康には備わっているということ
なかなかそんな人物は~
さて、西へ西へと進んでいた信玄の軍だが
元亀四年(1573)四月
突然、Uターン
どうするの信玄さん!
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