婇女乃神吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久 志貴皇子
(采女の袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く)
こんな歌碑がありました。
志貴皇子(しきのみこ)
は天智天皇の第七皇子
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての皇族。
壬申の乱のあと、皇統が天智天皇から天武天皇に移り、それからは政治から離れ
文化人として人生を送った人。
自然を謳って、万葉集には6首残されている。
そこからしばらくして、
「伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡」
6世紀末~7世紀後半まで都が置かれていた飛鳥京
約百年間、歴代の天皇の宮が造営されるも、遺跡は分かっていません。
”史跡伝飛鳥板蓋宮跡には、4つの宮跡、古いものから順に、
飛鳥岡本宮(630~636年、舒明天皇)、
飛鳥板蓋宮(643~645、皇極天皇)、
後飛鳥岡本宮(656~660年、斉明天皇)、
飛鳥浄御原宮(672~694、天武天皇・持統天皇)
が重なって埋もれている。
このうち後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮にかけての遺構の一部が、
石敷の広場、石組の大井戸として、現在復元整備されている。”
…だそうです。
右前方に見えるのが、石敷井戸の跡
後方の丘は「甘樫丘・あまかしのおか」
この丘からは大和三山が見渡せるというので、行ってみましたが…
これはまた先の話とさせて頂き、この飛鳥京跡には、他にも遺跡が幾つかありました。
かなり、急な階段でした。
ここを登りますと、 「酒船石」 遺跡があります。
大きくてうまくカメラに納まりません。
あちこち、欠けていますが、後世、何かのために石の一部を持ち去ったのではと
言われています。
酒船石そのものの用途も分かっていないですし。
カップルがおられて、早くその位置を離れてほしいなあ~と思ったのですが、
タイムアウト!
仕方なく、写し込んでしまいました。
お顔を出す訳には行かないし…
上をカットしました。
竹藪もカット(p_-)
それから、酒船石から違う道を降りて来ますと、
何の変哲もない、この石積み、実は、
飛鳥時代にブロック状の精巧な切石を積んで築いた大規模な石垣の一部だったのです。
石垣はこの山に4層に積まれ、盛り土をしたものと分かりました!
この丘自体が、築かれたものといいますから、ビックリです。
こんな大がかりなもの造る秀吉みたいな人が飛鳥にも居たんですね~
更に階段を下りて行くと、
亀形石造物と小判形石造物、と言ってもさっぱりわからない写真です。
ごめんなさい。
入場したかったなあ。
ここでようやく平らな所に下り、ひと安心。
ところが、仲間のひとりが足つったあ~と!
とても痛そうです。
でも、整体に心得のあるメンバーがいて、応急処置完了。
次の目的地に行きます。
今回は中身の濃~い、遠足です(;O;)