迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

“二代目”追慕。

2022-06-01 22:01:00 | 鐵路


横浜都市発展記念館の企画展「激震、横浜を襲う!─関東大震災と横浜の交通網─」を觀る。


大正十二年(1923年)九月一日の正午直前に發生した関東大震災は、日本の鐵道が開業して初めて經験した大規模な壊滅的被害であった。


今回の企画展では、橫濱を走る鐵道──市電と東海道本線の被災から復興までを、残された膨大な記録冩真、手記、スケッチなどを通して丁寧に追ってゐるなか、私は大正四年(1915年)八月十五日に開業してわずか八年後にこの大震災で焼失し、現在では“幻”の存在となってしまった二代目の橫濱驛について、特に興味を覺える。


(※“幻”の二代目橫濱驛)

レンガ造りの頑丈な建物であると頼みにして大勢の被災者が避難して来たが、二次災害の火の手はこの驛舎をも容赦なく舐め尽くし、



美麗な姿を無惨な姿へと一変させた。

その後、同じ場所に假驛舎を建てて復興した二代目橫濱驛は、現在の場所に三代目が誕生する昭和三年まで、橫濱の玄関口として機能云々。


そんな二代目橫濱驛の遺構の一部は、現在も西區高島町二丁目のマンション敷地内に見ることができる。



全体の四分の一の規模で、正面入口と手荷物受付口にあたってゐた部分云々。


この遺構のそばには、かつて東急東橫線の高島町驛があったが、それすらも今は昔となり、鐵路とはそのまま時代の進む路(みち)でもあるのだと、しみじみ思ふ。



東海道本線が受けた被害については、やはり完成後間もない根府川驛に汽車が入線する直前に地震が發生し、地崩れに引きずり込まれるやうにして列車が崖下の海へ転落した悲劇を忘れてはならない。


また、平塚~茅ヶ崎間の相模川(馬入川)に掛かる鐵橋脇には、



地震で崩壊した當時の橋脚が、現在もそのまま残されてゐる。



もうひとつ興味深かったのは、小田原驛では驛舎の倒壊は免れたものの、構内に停めてあった貨物が略奪の被害に遭ったと云ふ事實。

──ニンゲンの本音を知る上で、これほどオモシロイ事例はない。












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