大正十三年(1924年)に川崎町、大師町、御幸村が合併して川崎市となって今年で百年云々、その記念展「爆誕!! かわさき100年物語」を、前期と後期通して觀る。
前期は川崎區の東海道かわさき宿交流館が會場で、沿岸を埋め立て、重工業を誘致することで人口増加を図るなか、京濱急行大師線の驛名にもある“鈴木町”の語源となった鈴木商店が、大正時代に現在の場所に味の素工場を建てたのは、
多摩川の舟運を最大限に活用するため云々、
(※多摩川沿ひに建つ味の素川崎工場の現景)
陸路でも鐵路でもなく、水路と云ふところに時代が表はれてゐて、興味深かった。
後期の會場は高津區溝口の川崎市大山街道ふるさと館で、
大山街道の旧宿場にして、すぐそばの多摩川を越えたら東京であることから重要地域と目されてゐた當地の思惑、また多摩川で採取された砂利の運搬目的で敷設されたのち、昭和十九年に國有化された現在のJR南武線が沿線地域にもたらした歴史が紹介されてゐるものと期待してゐたが、あまりに内容が薄くてガッカリしたので、我が足と目と耳で南武線の今日までの足跡を見つけんと出發す。
矢向驛前の廣場に一本そびえる楠は、昭和二年三月九日に南武線が開通した際、その記念として地元の住職が百年を超える齢を保つ境内の樹木より寄贈した楠、金木犀、モッコクのうちの一本にて、
地元有志の手により驛前に移植されたが、昭和二十年の戰災で一帯が焼け野原になり三樹とも類焼、しかし楠のみが蘇生して今日に至る云々。
重工業地帯ゆゑに米夷の標的にされ、かつての面影を著しく破壊された街に生き殘る貴重な生き証人、生きてこそ勝ちなのだと、その楠に敬意を表す。
川崎市の百年を生き續ける記念樹、私の今回の探訪に、深い彩りを添えてくれた。